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「荘子」を読む(第二 斉物論篇 六)

出典:森三樹三郎[訳]『荘子Ⅰ』(中公クラシックス)

「逍遥遊篇」は飛ばして「斉物論篇」を読み進めていきたいと思います。
また、前から読み進めてとくに味わい深いと感じる箇所を取り上げていきます。

第二 斉物論篇 六

一たび其の成形を受くれば、亡(ホロ)ぼさずして以て尽くるを待つ。
物と相刃(サカ)らい相靡(ナビ)き、其の行き尽くすこと馳するが如くして、之を能く止むる莫し。亦悲しからずや。
終身役役(エキエキ)として其の成功を見ず。苶然(デツゼン)として、疲役(ヒエキ)して、其の帰する所を知らず。哀しまざる可けんや。
人、之を死せずと謂うも、奚(ナン)ぞ益あらん。
其の形化(カ)して其の心も之と然り。大哀(タイアイ)と謂わざる可けんや。
人の生くるは、固(モト)より是(カク)の若く芒(ボウ)たるか。其れ我独り芒にして、人亦芒たらざる者有るか。

森三樹三郎[訳]『荘子Ⅰ』(中公クラシックス)p.32

 ひとたび人間としての形を受けた以上は、これを滅ぼすことなく、命の果てる日まで待つほかはない。
 それにもかかわらず、世の人は、あるいは物に逆らいつつ、あるいは物になびき従いつつ、その人生を駆け足のように走りぬけ、これをとどめるすべを知らないのは、あわれというほかはないではないか。
 その生涯をあくせくと苦労のうちにすごしながら、しかもその成功を見ることもなく、ぼうぜんとして疲れはて、人生のゆくえも知らずにいるのは、あわれというも愚かではないか。
 このようなありさまで生きているのは、たとえ他人が「お前はまだ死んでいないよ」といってくれたとしても、それが何の役にたつであろう。
 その身体が滅びるとともに、その心もまた同時に滅びるほかはない。これを大きな悲しみといわずにいられるであろうか。
 この世に生きる人びとは、すべてこのような惑いのうちにあるのであろうか。それとも私だけが惑いのうちにあって、世の人のうちには惑わないものがあるというのであろうか。

森三樹三郎[訳]『荘子Ⅰ』(中公クラシックス)pp.32-33

生きるというのはどういうことであるのか、と自分に問いかけたこともないような人がいるのであろうか。

そういうものがフッとよぎる人もいるでしょう。
フッともよぎらない人は本当に一生よぎることはないのでしょう。
そして、フッとどころかそればかり考える人もいる。
敢えて話すことはないが、果たして、皆、そんな悩みを持たないような人ばかりなのであろうか。
と考えたこともありますね。

それでは、また。


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