離脱について
将来のことを考えてみる。やりたいことがない?
おめでとう!
「私はこれをやりたい」、「がんばらなきゃ」、「俺はこれが好きなんだ」
よかったね。
でもそれがどうした??
とはいえ、先のことを考えて、うまく生きていかないといけない、ということになっている。
まぁ、そこは何とかしないといけないわな。
先々まで読んでみるみると、何が起こったとしても、私は何とか生きていくだろう。
単純に考えて(考えなくても)、私は守ろうと思うものがあり、守るために生きねばならんだろう。
その守るべきものがなくなったら、私はやっと死ぬことができるだろう。
自分のためにとか、やりたいことのためにとか、イキイキしたいとか、誰かのためにとか、生きるというのはそういうことではない。
ただ、在り方に従って生きる。ただそれだけ。
まったく、みんな同じなんだ。
その在り方とは、やはり、この一を知りながら、私の私の心根を正直に生きるのである。
そこを、忘れがちになるのは、何か外のもの、私と同一化する傾向があるから。
だから、私は、一日に一度、ちゃんと座る必要があるのです。
一である一のために。
だからなんでもいいんだ。自分を空っぽにしておく時間が必要だ。
一生懸命とは何か。とても危うい。
何かをがんばっていりゃ。いったい何をがんばるというのか。
がんばらないでがんばろう。
さっそく、これから3年なり5年なりを見据えてみよう。
計画的に生きることの虚しさは、本当にその計画の無意味さ、いや、その内容そのもの、やることの無意味さを本当に感ずるため。
本当に無意味なんだ。まったく無意味。あきれるくらい無意味。
計画的に生きましょう?虚しすぎる。
おめでとう!それが真実なのです。安心なのです。
よくよく考えてみてほしい。
本当に担うべきところってのは、あまりないよ。流れを読めば。
だから、あらゆることに、できる限りの範囲で、対応ってのは予め計画可能だよ。
やるべきことは何もないことに気づけたかい?
おりこうになったね。
神の慰めに感謝します。
『エックハルト説教集 』エックハルト(著), 田島 照久(翻訳) [1990] (岩波文庫)から「離脱について」を引用します。
わたしは多くの書物を読んできた。
異教の師たちの書いたものも、預言者たちのものも、旧約聖書も、新約聖書も。
わたしが真剣に全力を傾けて捜し求めたのは、
どれが最高にして最善の徳であるか、すなわち、
人を神に最もよく、最も近く結びつけ、
恩寵により人を神の本来の姿と同じものにすることができるような徳とはどのようなものであるのか、
神が被造物を創造する以前、
人と神との間にいかなる区別もなかったとき、
神の内にあるその自分自身の原像と最も近くなるためにはどんな徳によればよいのかを
捜し求めたのである。
わたしの知性がなし得るかぎり、認識し得るかぎり、
あらゆる書物を徹底的に探求した結果、
わたしがそこに見つけたのは、
純粋な離脱はあらゆる徳を凌ぐということに他ならなかった。
なぜならば、
他のすべての徳が被造物に対して何らかの結びつきをもっているのに対して、
離脱はあらゆる被造物から解き放されているからである。
だからこそ、
私たちの主はマルタに、
「必要なことはただ一つだけである」(ルカ一〇・四二)
と語ったのである。
この言葉は、
マルタよ、心が悲しむこともなく、純粋でいたいと思うなら、一なるものを持たなければならない、
このことが離脱ということなのである、
という意味であった。
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