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終戦の日を前に亡き父を想う
明日は79回目の終戦の日。
先日、テレビのニュースで全国各地の戦争にまつわる資料館の閉館が進んでいることが報じられていた。
資料館の語り部の高齢化や来館者減少にともなう経営悪化など理由はさまざま。
そんな中、大分県にある「予科練資料館」が8月26日で閉館するニュースに目が向いた。
この予科練。亡くなった父が戦時中、当時、兵庫県宝塚市にあった宝塚海軍航空隊予科練に入隊して飛行訓練を受けており、子供の頃から予科練の話を聞かさていたので自分には馴染みのある言葉でもある。
終戦の日を前に亡き父の思い出を振り返りながらnoteに書いてみた。
予科練とは?
「海軍飛行予科練習生」およびその制度の略称で第一次世界大戦以降、航空機の需要が世界的に高まり、より若いうちから飛行訓練を行い、熟練搭乗員を多く育てようと、昭和5年に教育を開始。
14歳半から17歳まで試験で選抜し、搭乗員の基礎訓練をするもの。
飛行予科練習生制度が始まってから、終戦までの15年間で約24万人が入隊し、うち2万4000人が飛行練習生過程を経て戦地に赴いた。
中には特攻隊として出撃した者も多く、戦死者は全体の8割にあたる1万9000人にのぼる。
自ら志願した父
国から召集令状が届いて戦地に赴く人が多かった中、予科練は志願制。
自ら試験を受けて合格しなければ入隊できないが、父のように志願する人は多く、難易度も高かったと聞く。
戦時中という時代背景や国によるプロパガンダも大きいだろうが、父いわく憧れのゼロ戦で空を飛びたい気持ちがあったとのこと。
カッコイイものに憧れる想いは昔も今も変わらないようだ。
父の思い出
父が予科練に入隊したのは昭和19年で当時15歳。飛行訓練の最中に終戦を迎えたため、実際に戦地に赴くことはなかった。
もっとも、もう少し終戦が遅かったら当時の状況から見ても父は特攻隊として出撃する可能性が高く、そうなれば自分も今、ここにいない。
戦後は会社員として定年まで働き、その間に結婚して兄と自分が生まれた。
特に自分は遅くできた子供なので可愛がられたものの、授業参観や運動会など学校行事の時、小学生の自分には少し恥ずかしさがあった。
それは他の同級生の親はみんな若いのに、なぜ、うちの親ばかり年を取っているのかという事(苦笑)
自分と同じ50代の親世代は戦時中はまだ子供、もしくは戦後生まれが多いので仕方ないが、ここまで何不自由なく育ててくれた親は今もかけがえのない存在だし、感謝しかない。
貴重な話を聞けたのは財産
冒頭でも書いたように戦争資料館の閉館や当時を伝える「語り部」も高齢化が進み減少する中、戦時中の「生の声」を日常生活の中でたくさん聞けたことは、とても貴重で自分の財産でもある。
母に関しても同様で小学校の入学から卒業まで無遅刻無欠席だった御褒美に地元の市から皇居(当時は宮城「きゅうじょう」と呼んだ)と茨城県の霞ケ浦海軍航空隊の基地へ連れて行ってもらい、現地では地元出身の隊員が基地の中を案内してくれたとのこと。
戦時中にもかかわらず、そんなことができたのかと驚かされたものだ。
父は病のため、約2年の寝たきり生活の後、2013年に亡くなった。
この2年間、ずっと母は介護生活を行ってきた。
その母も3年前に亡くなり、6月に母の遠距離介護に関する想いをnoteに綴っている。
今年はお盆期間が仕事のため、1週間遅れで来週、帰省する予定だ。
両親のお墓参りの他、久々に故郷の友人にも会えそうかな?