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唐揚げ少年

依存症という言葉がある、定義としてそれをやり続けることにより周りの人々や社会に迷惑をかけてしまい、当人の生活も立ち行かなくなるというネガティブなもののことを指すと理解している、代表的なのは薬物、ギャンブルなどである、しかしながらそれ以外でも多岐にわたるように思う、つまりそれは「失敗」を繰り返した時点で依存症なのだと思えてしまう、失敗を繰り返すというか、上手く行かなかった方法で同じ事を繰り返すという、常軌を逸した行動、行為そのものが依存症と呼ばれると考えている、
逆にそれで社会的、経済的成功を納めた者は手の平返しで依存症とは呼ばれずにむしろ称賛されるだろう、つまり成功、勝利すれば依存症ではなく成功者なわけである、音楽家、画家、小説家、俳優、プロスポーツ選手、芸能人、ダンサーになりたい、なりたいがために努力する、しかし何度かチャレンジしていくうちに生活は立ち行かなくなる、支えていた身内なり恋人なりもいい加減空気読まないのかなコイツって当然なる、華やかな存在には皆憧れる、人気者になり、桁違いのお金を貰い、20代、30代という濃い20年間をトップで走り突けたら後はなんていうか、己を追求する的な趣味の人生だって可能な位の財産を築いているだろう、一方で、40、50を過ぎても何者にもなれておらず、しかも実家や友人知人に金銭的に迷惑をかけていたりしてる人を世間はあまり良い目では見ないだろう、つまり世の中は「金」でしかないとも言える、どんな綺麗事を抜かそうが、生活に困窮し人から無心を繰り返すような人間は依存症患者と呼ばれてしまうだろう、であるならば、どこかの山中に籠り、自給自足の生活をし、誰にも迷惑かけなければいいんじゃないのか?それも違うし、良いのか悪いのかと聞かれればそれは「悪い」ということになる、なぜなら山籠もり自給自足生活するのは構わないが、キチンと両耳揃えて税金は払えよ?って話しである、国民の三大義務は「教育」「勤労」「納税」である、義務なのだから「イヤだ」は通らない、勝手に山小屋作る体力が有るならば働いて税金を納めろって話なのである、健康保険料、市民税、県民税はキッチリ払わないとならない、五体不満足で生活保護を受ける人は受ければいいが、山小屋DIY野郎は五体満足なのだから積極的に就職活動をして然りであり、いくら見つからないから生活保護を下さいと言っても許可が下りないのは当たり前である、そして外国人が直ぐに申請が降りると嘆いても今日明日、その制度は変わる事は無いだろうし、アナタは日本人であり、明日から外国人にはなれないのだからちゃんと働いて納税して下さい、なぜなら義務なのだから、、そう考えるとおのずといつまでも夢なんか追いかけられないだろうし、それでも絶対に、周りに苦労をかけてでもなってやるっていうか絶対になる!という奴だけなれるだろう、85歳で死ぬ1年前にブレイクしてもそれは成功だと思うし、70歳から周りや地域住民、市議も動いてくれて生活保護を貰いながら夢を追いかけ続けていたならば少しズルいかもしれないが成功者とも言える、自分のような凡人にとってはそこまで人や社会に借りを作りたくは無いし、世間体も気になるからまんまと社会の枠組みに収まって内心やりたくも無い労働をやりながら仕方なく納税して生きているだけである、70年代にニューヨークやイギリスで一大ムーヴメントを起こしたパンクロックも(最近学んだ)、反社会、反体制を表現したものが基本軸にある、それをそのまんま今この国で何のひねりも無く表現するならば「増税クソ眼鏡の置き土産~30年後は30年後の自分が居る候補者のひとり~♪」とかになるんだろうけど、多様化とか言われる昨今ではそれはもう陳腐な印象しか無くて「売国奴~!」とか、日本語で訴えられてもなんだか痛々しいオジサンが怒りながらなんか言ってるし、なんだかおっかない上に面白くも無いからアッチ行こうよ、夏美ちゃん、う、うん、スノーマン観に行こ♪
みたいになるのは明白だし、ライブハウスにそういうのが好きなお客さんが20人位集まって、自分の中では20人も来たのだから凄いと思うのだけど、店長目線では「50人が最低ラインなのにこの程度しか呼べないとか、かんべんしてくれよw」という舐められ案件であるということを様々な書物を読んで最近知った、反体制を歌った奇抜でファッショナブルでコケティッシュでもある人気のバンドマン達は「関係ないぜ!?」的な事を歌っている割には大卒で、いいところの倅だったり、演奏も巧く、ビジュアルも群を抜いているわけで、なにもバンドマンじゃなかったとしても俳優、芸能人、営業マン、何をやらせても成功していたのだろうなと簡単に想像できてしまう、つまりは生まれてから大体7歳位で音感が有るのか音痴なのかは環境で決まってしまうことが科学的に証明されてしまっている、だので「親ガシャ」という言葉は嫌いだけど、認めざるをえない事実であるとも言えてしまう、現在では更にエスカレートし、ゼロ歳教育どころか胎内教育から始めている親も多い、生まれてからはフラッシュカードメソッドでの脳開発、もう、メソッドだらけである、格闘技の世界も同じで幼少の頃から既に始まっている、そう考えると、自分が依存と呼ばれる道を歩んでしまったのも納得が行く、運も実力の内なのであれば、自分は実力不足だったということになる、子供ながらに転機はいくつか有った訳で、自ら進んでみなし子(死語)になってでもプロ中のプロの元で競艇選手だったり、陶芸家だったりやることは出来たのかもである、あいにくどちらも興味を持たなかっただけだ、そして自らの不遇を理由にして正論のみで臆病に生活している自分がそもそも圧倒的なカリスマ性を得られる訳が無い、
スターになる人はきっとド天然であり、そんな後先を考えてなどいなかっただろう、自分の感情をひたすら音や歌に全力でぶつけていただけだ、後先を考えていないのだからピックは割れ、爪は剝がれ、楽屋で倒れ込み、それで死んだら死んだで構わない、だが最後まで燃やし尽くす!って気持ちでやっているに違いない、つまりは「愛」や「覚悟」とも言える、爪まで剝がれて3人しか客が来なかったのでアッタマ来たので辞めて真人間になります!っていうのが自分みたいな、お金に、とにかく生活に困窮したくない、毎日唐揚げ食べたいっていうだけで普通の人生を早々に選択した自分はただの唐揚げ依存症であり、パンクロックも好きだけど、結局は唐揚げが毎日安定して食べられる人生を選択したのである、「死ぬまでパンクだった」なんていう最大の称賛、本の帯、つまりそれはキャッチコピーを現わすわけで、価値が付けられない程に美しい価値があると言える、これを自分に代入すると
「死ぬまで唐揚げ食べていた」っていう、ああ、そうなんだ、、で?みたいなことになる、、それはある意味では幸せな人生なのかもしれない、本当はパンク好き、ロック好きと言いたいところだが、自分に嘘は付けない、自分は唐揚げが好きで、「死ぬまで唐揚げ食べていた」っていう帯が付いた本を手に取ると、「緑ヶ丘のクックの唐揚げ弁当はたぶん世界一だ!」だとか、かなり狭い世界観での自称唐揚げ通の脚本が書けそうな気がする、「クック弁当の唐揚げ」「オリジン弁当の唐揚げ」「ほっともっとの唐揚げ」「唐揚げ専門店の唐揚げ」「居酒屋の唐揚げ」「冷凍食品の唐揚げ」「自分で作った唐揚げ」「恋人と唐揚げ」「友達の家の唐揚げ」「最終章~マイウェイ~シド&唐揚げ」の全10章、全400ページの推理サスペンス小説が書けるだろう、被害者男性の唐揚げ日記を軸に繰り広げられるサスペンスである、捜査線上に登場する謎の女「蜂 ミツコ」、「屋台の金の唐揚げは本当に金なのか?」「唐揚げ神に翻弄され荒れる店主とは?」「唐揚げ好きなパンキッシュカップルの目撃証言とは?」「上野発快速ラビット号の唐揚げアリバイとは?」「那須高原のホテルに残されたランバダショーと唐揚げの謎の痕跡とは?」「京急金沢、海の唐揚げとは?」お馴染み竜田一探偵とからあげ少年が繰り広げる一大唐揚げスペクタクル!

竜田揚げは唐揚げか?
今晩はひき肉炒めを食べました、明日は大好きなカレーを作ります、おやすみなさい⭐︎



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