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きれいごと

誰かの役に立てる大人を目指してきた。
こんな自分の想像力や感性、願わくば僕自身が創り出した何かによって、誰かが笑ってくれたなら、それは僕の本望で。

僕の夢というのは、そんな無計画な綺麗事で成り立っている。そんな漠然とした承認欲求だけで、後先考えずにふらふらと生きてきた。

これを「芯がある」と言われたら、それはそう。かなり強い意志で以て夢物語を描いている。
しかし裏を返せば、つまりは「誰かがいなけりゃ生きられない」わけで、それもまた一理ある。


僕みたいな単純な人間だと、そんな具体性のない指針でもひとつ心に定まっているだけで、なんとなく生きる上でのモチベーションに繋がるのだ。
どんなに向いていない作業を任されていても、「でもこれを仕上げたらお客さんが喜ぶな」とか、「ここまで頑張ったら応援してくれていた人が笑ってくれるな」とか。

ある種の自己満足、エゴイズムに過ぎないのかもしれないが、100人がアホだと呆れていようと、ひとりでも僕の成果を求めていてくれる人がいるだけで、それならやってやろうじゃんという気になる。



しかし現実、こと社会には、そんな綺麗事は通用しないのがオチだ。

例えば、僕が一流のデザイナーを目指していたとする。デザイナーになるために、実績のない僕はまず一般企業でスキルを磨かなければいけない。
知識と技術を身につけて、その会社である程度の案件をもらい、キャリアとして保持していなくてはいけない。

採用担当者が問う。
「弊社を志願されたご理由は?」と。
僕は答える。
「御社とお取り引きのあるクライアント企業のお役に立てる仕事をして、いずれ独立したいんです」と。

一見すると、何ら問題なさそうな聞こえの良いセリフだが、結論落ちるのだ。こういうことを言っても。

就活面接対策用のガイドブックに載っていた回答例には、やれ「売上に貢献したい」だの、やれ「役付きになって部下のマネジメントに努めたい」だの、そんなことが書いてあったかな。採用担当者の気が知れない。



余談だが、「大人っぽい」という表現が褒め言葉として普及しているが、「子供っぽい」というのは、全くポジティヴな意味合いでは使われない。
大人になっても、子供のような純粋な気持ちで生きる人間のどこがネガティヴなんだろうか?
どうして「子供っぽさ」は批判対象になるのだろう。


僕は幼少期から現在に至るまで、多くの人から愛を享受し、世話を焼いてもらい、やっと今を生きている。
家族も、友達も、先生も、恋人も、誰ひとりとして僕を蔑ろにはしなかった。たくさんの人が僕のあらゆるポイントにポテンシャルを見出しては、伸ばそうとしてくれていた。

そんな彼らに対し、僕が何かを与えたことなどひとつもない。強いて言うなら、僕がただただ笑顔になっただけである。しあわせオーラみたいなものを放って雰囲気作りに励んでいたとでも言おうか。
何ならこの数年間は、笑顔にすらなれていなかった。せっかく皆が足元を支えてくれている中、何者でもない僕が仏頂面を引っ提げて、呆然と突っ立っているだけの期間があった。

だから、ずっとくすぶっていた。
僕が僕のために生きるには、お世話になった人にひとつでも恩を返さなければ、生きた心地がしないのだ。金目の物をあげるとか、助けてあげるとか、そんな大層なことは言えないし、彼らは喜んでくれないと思う。
だから、せめて「皆のお陰でこんな大人になれました」と、胸を張って成長を見せられる「子供」でありたくて、それこそが僕の綺麗事の主軸なのである。



幼稚で個人的な思い出話が夢のモチベーションとして許容されるのは、小学生までなのだろうか。
KPIを達成したり、売り上げに貢献したりする以上に、取引先やクライアント、ターゲット層の満足度を注視するべきと考えるのは、理想論なのだろうか。経営理念は、世間体のためだけに作られた文章なのだろうか。

理想の夢物語を追うことは、そんなにも迷惑なのだろうか?



人はいつからか、物事に意味だとか本質みたいなものを見出すようになったけど、僕は「病弱な子供が、自分を救った主治医に憧れる現象」と同じくらいの純粋な気持ちで夢を持っている。
大人になった僕らには、その単純さと熱量の重みが分かるはずだ。寒いだなんて言わせない。

誰かがいなくちゃ達成できない夢は、誰かがいてくれたお陰で確立した夢なのだ。
お誂え向きの言葉では、到底表現し難い。


大した実力もない僕がどんなに大きな声を出しても説得力にはならないので、身を挺して実現するしかない。馬鹿のひとつ覚えみたいに、同じ方向だけ見ているつもりだ。

そんな馬鹿を、誰かひとりでも面白がって笑ってくれたら、僕はそれで十分なんだよ。

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