「飯沼一家に謝罪します」はフェイクドキュメンタリーの壁を破壊した
高まるフェイクドキュメンタリーの人気と限界
最近流行りのフェイクドキュメンタリー形式の映像作品の中でも特に高い注目や人気を集めていたのがTXQ FICTIONとそれに関わる作品群だ。「イシナガキクを探しています」や「このテープ持ってないですか?」などが代表的である。これらの作品はテレビ番組という形式を使って不気味な出来事の一端を見せ、ミステリアスで底知れない怪異の存在を演出する新しい技法で注目を集めた。
しかし、このテレビ番組という体でホラーを描く手法には大きな弱点があった。それは、そもそもそんな怪しい意味不明な番組が成立するはずがないということだ。「イシナガキクエを探しています」では行方不明になった女性を捜索する番組という体での作品だったが、あんな実在するかも怪しい人物の捜索なんてテレビ番組として成り立つわけがないので、見る側としては「こんな番組あるわけないじゃん」とリアリティをいまいち感じられなくなってしまう。
フェイクドキュメンタリーへの厳しいツッコミ
フェイクドキュメンタリーという手法は架空の出来事を実際の映像という体で見せる。それはメタ視点からの作品世界へのツッコミが演出のレベルまで及びうるということになる。これだけだとわかりずらいので、もう少し具体的な例で説明していく。
フェイクドキュメンタリーではない普通のフィクション作品を想像して欲しい。ここでは具体例として映画「マトリックス」でネオが銃弾を大きくのけ反って避けるシーンを使って考えてみる。このシーンではカメラはスローモーションでネオの周りをグルグルと回っている。このシーンに対して、「こんなふうにカメラを動かせるわけないじゃん」というツッコミは成立しない。「マトリックス」は完全なフィクション映像作品なので、視点(カメラ)がどれだけ自在に動こうとも演出として成立する。
完全なフィクションでは演出は作り手が好き勝手にやっていいという前提があるので、「演出が変だ」というツッコミはできない。しかし、フェイクドキュメンタリーでは話が違ってくる。フェイクドキュメンタリーは実際に撮影された映像という前提があるので、好き勝手な演出をやると「こんな映像撮れるわけなだろ」というツッコミがされてしまう。もしフェイクドキュメンタリーでマトリックスのようなスローモーションでグルグル回るショットがあれば、実際に撮影された映像という前提は完全に崩壊してしまうからだ。これと似た指摘を「イシナガキクエを探しています」に対してすることができる。これは実際に放映されるテレビ番組という前提の作品だが、テレビ番組でこんなあやふやな内容のものが許されるわけないので、前提が破綻してしまっているのだ。
「イシナガキクエを探しています」は演出として不完全に情報を開示していく内容だったが、テレビ番組という前提でそんな演出は本来許されないのだ。つまり、「イシナガキクエを探しています」の失敗はテレビ番組の範疇を逸脱する演出を行ってしまったことで「実際のテレビ番組」というリアリティを失ったことだった。
フェイクドキュメンタリーのジレンマ
テレビ番組形式のフェイクドキュメンタリーにはジレンマがある。作品の面白さを出すために演出を強化するとテレビ番組としてのリアリティが無くなり、リアリティを出そうとすると盛り上げる演出ができないのだ。
「入れ子構造」がジレンマを打ち破る
そんなジレンマを解消する設計をもって作られたのが「飯沼一家に謝罪します」だった。
「飯沼一家に謝罪します」は二重のメタ構造によって成り立っている。まず、「飯沼一家」という謎のテレビ番組の作品があり、その謎を追うのが「飯沼一家に謝罪します」という実際の番組で、それをフェイクドキュメンタリーとして視聴するのが私たちという構造になっている。つまり、テレビ番組の中にテレビ番組があるという入れ子構造なのだ。では、この入れ子構造がフェイクドキュメンタリーのジレンマをどう解消するのか?
「飯沼一家」は謎のテレビ番組として登場する。この「飯沼一家」はテレビ番組として成立するような内容でなく、不可解な映像が続くだけの破綻したテレビ番組だ。この「破綻したテレビ番組」といのは、「イシナガキクエを探しています」や「このテープ持っていないですか?」そのものだ。つまり、テレビ番組として成り立っていない演出の映像作品を、劇中で謎のテレビ番組として出してしまうことで、テレビ番組としてあり得ない演出の映像をリアリティを保ったまま出すことができたのだ。
本来のフェイクドキュメンタリーとしての設定を忠実に守った場合、「飯沼一家に謝罪します」を視聴する我々の世界と「飯沼一家に謝罪します」の世界と「飯沼一家」の世界は同一であることになる。しかし実際には、我々のいる現実世界の下層にフィクションとして「飯沼一家に謝罪します」があり、そのさらに下層にフィクションの中のフィクションとして「飯沼一家」が存在する。我々視聴者は無意識にこのことを内面化しているため、フィクションの中のフィクションである「飯沼一家」に対してはリアリティの要求ラインが下がり、本来テレビではありえないような演出でも受け入れてしまうようになっている。
フェイクドキュメンタリーの中にフェイクドキュメンタリーを作るという、二重のメタ構造を設けることによってリアリティの限界を超えたのだ。
フェイクドキュメンタリーの未来
ここまで説明したような手法で、フェイクドキュメンタリーのジレンマは打ち破られた。しかし、革新的に見える手法も繰り返し使われることで陳腐になっていくものなので、これからのフェイクドキュメンタリーにはより高度な造りが求められていくことになる。今後のフェイクドキュメンタリーの進化に期待したい。