「理由」を求める呪縛には注意しないといけない。
我々はいつから物事に「理由」を求めるようになったのだろうか?
近代が絶対的な答えを求めようとした結果だろうか?
生きる理由、働く理由、趣味に励む理由、
勉強をする理由、人を好きになる理由、
すべてに理由を求めたくなってしまう。
理由がないと、自分を信じれなくなったのかもしれない。
理由がないと、動けない身体になってしまったのかもしれない。
しかし、もし自分が心から惹かれるものがあったとしたら、そこに「理由」なんてのは必要ないはずである。
だれかを好きになったのであれば、そこに理由なんてのはいらないし、好きな趣味があるのであれば、そこに理由なんてのはいらない。
もし人を好きになる理由があるとすれば、その人が好きなのではなくて、ただその理由(条件)が好きなだけだったりする。
「わからないけど惹かれるもの」「よくわからないけどやってしまう」ことの方が重要なのに、いつのまにか誰かの理由付けによって、どんどん思考が汚染されていく。
だから、「理由」を求める呪縛には注意しないといけない。
なぜなら、「理由」は支配を作るものだからだ。
例えば、戦争では理由があれば人殺しも許されるし、宗教であれば、「あなたは前世で悪い行いをした。」と理由付けをすれば、信者は現世で動いてくれるし、「神にお金を捧げなければ、神の子にはなれない。」と理由付けをすれば、信者からの献金は集まるようになる。
こうやって、「理由」を求める人は、すべてのデキゴトを「必然」として、不安定である「偶然」の世界で安定を求めようとする。
だが、その理由付けは、どこかの権力者にとっては都合がいいものばっかりだったりする。
「偶然」を「必然」としたことによる大きな勘違いがある。
デキゴトに理由があるわけでない。あとから理由付けされているだけであって、全ては偶然である。
くじ引きで当たりが出ることが偶然のように、あみだくじで当たりが出ることが偶然のように、ビンゴ大会で景品が当たることが偶然のように、アナタという存在自体が偶然である。
そこに必然性を求めるからおかしなことになってしまう。
失敗が怖いから必然を求めるし、必然を求めるから答えに依存するし、必然を求めるから思考に限界ができる。
だから、我々は必然をおもいきり手放して偶然を味方につけないければいけない。
偶然だから尊いし、偶然だから自分で生きる意味を決めれるし、偶然だから理由を求めない、偶然だから思考に限界がなくなる。
そして、偶然だからこそ、数を打てるかの勝負になってくる。
あと何回、新しい偶然に出会えるだろうか?