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我慢という戒律

我慢の先には何かあるのだろうか?


我々は、これまで我慢を美徳としてきたが、その我慢の先にある「何か」を現代では見失いつつある。


物心ついた時から、我慢をすることを教えられてきたせいか、我慢そのものが目的になっているのかもしれない。


また、その我慢は絶対的な答えを提供してくれそうだから、安心感を求めて、そこを拠り所にしたくなるのかもしれない。


これは「我慢をすれば未来は明るい。」「今、我慢すれば良いことが起きる。」みたいな、今よりも未来を重視するような洗脳である。


その人の今はいつ訪れるのだろうか?


ゆりかごから墓場まで、目の前にニンジンをぶら下げられ続けることで、「今、我慢すれば良いことが起きる。」というメッセージは背後から暗示され続けている。


小さい頃から受験を経て、良い会社に就職をして、次は、資格を取ったり、積み立てをはじめたり、FIREを目指してみたり、老後資金2000万円を貯金してみたり、など、


もちろんその選択を否定するわけではないが、その背後には、今を犠牲にして未来に可能性を捧げる、思想を超えた信仰心のようなものを感じる。(現世で我慢をすれば、来世で生まれ変わった時に良いことがある。みたいな)


これの何がやばいかというと、我慢の先にある「何か」がいつのまにか抜け落ちて、振り返ったら我慢しか残らない人生になっている。という絶望である。


そうすると、「我慢=人生」という図式が完成して、その人は自作自演的に悲劇のヒロインを演じ始めるだろう。


こうなるともう、デフォルトの設定に我慢が登録されてしまうので、それこそ来世のために徳を積むしか希望はなくなってくる。


その人の言う「我慢の先にある何か」の「何か」はいつ訪れるのだろうか?


そして、その「何か」は他人が決めたものではなく、自分で決めたものなのだろうか?


また、その「何か」が老後に訪れたとして、その人はそれで満足なのだろうか?


「我慢」という言葉に、大きな違和感を感じざるを得ない。


なぜなら、多くの人が言うその「何か」を手に入れている人は、我慢をせずに好き放題やっている人ばかりであるからだ。


「楽しんでる人が勝つ」
「好き放題やってる人が勝つ」
「枠からはみでてる人が勝つ」


これが世の中の事実である。


そもそも資本主義じたいが、枠からはみでた人の方が上手くいくような構造になっている。


多くの人はここに気付くことができない。


「我慢」といった概念は本来人生には必要ないはず。


良い未来を過ごせる人は、今を良い日として過ごせているから、良い未来が訪れるのであって、今を犠牲にするから良い未来が訪れるのではない。


その人が言う未来の「何か」は、そうした今を重ねた先に訪れるものである。


だから、まずは「我慢」を捨てること、そして、次にその「我慢の先にある何か」さえも自分自身で持ち合わせていないことを自覚すること。


そこを問うことから今という1日が始まる。

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