多様性とは
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『ダイバーシティ(diversity)』とは、日本語では「多様性」といいます。 「みんな異なる」というだけでなく、ある集団のなかで年齢、性別、人種、経験、趣味嗜好などが異なる人が存在している状態において、その個性が認められる、相対的な考え方です。
と出てくる。
「多様性の時代」なんて言葉を耳にする事が多いし、何なら自分も言う。
誤解をおそれずに言うと、取り敢えずこう言っておいたら穏やかにまとまるか、という時に自分も使っているかもしれない。その発言に強い意志はない。
自分は古い昭和の人間でジェンダーという言葉が(多分)なかった時代に深刻な性的マイノリティの悩みなどもなく今も過ごしている。
そんな奴に多様性やマイノリティについての意見を言う権利はない、と言われるとそうだなと思う。
当事者以外は黙ってな、と言われるとぐうの音も出ない。
だけど多様性っていうなら当事者とか関係なく誰でも自由に思想を声にしてもいいことなんじゃない?と思うのは自分が捻くれてるからだろうか。
ふてほどで阿部ちゃんも言ってたよ。
老害とまとめられる自分達の意見だって受け入れてもらうのが真の多様性やがな。
だけど多様性ってそれぞれが好き勝手自由にして他人がそれを認めて、とやかく言ってはいけないって事とは違うと思う。
長女の高校では去年、制服が女子でもズボン着用可能になった。
ここは地方の田舎だが、周りの高校ではわりと何年も前から始まっていたことなので娘は「自分の学校は遅れている」と憤っていた。
因みにその他にも鞄は学生鞄、女子はローファー、が校則にあった。
あと、肩より下の髪の毛は結ばなくてはいけないは、百歩譲って、まあまあまあまあ、心を落ち着かせよう、ここから、さらに斜め上からの縛る位置の指定で耳より上には縛ってはいけない、は流石に意味不明過ぎるやろーーーーっ!!って笑けるくらいにそれを守らなかったことで不具合がおきますか?的なものまで存在している良くも悪くも昔ながらの校風の学校だった。
制服=学校の顔になる訳で、校則があるのは反対ではない。
むしろ子供の頃から多少の規則を守る練習としてあるべきだと思う。
だけど、意味のない(意味はあるの?かも?しれないけど?)髪をくくる位置やら、なんなら前髪が目にかかってはいけないとか、が、もしかしたらその子にとっては、ジェンダーでスカートをはくのが苦しいからズボンにします、と同じ意味あいがあるとしたら、それはもう、その子の意思を尊重してない事になるんじゃない?と思う。
今の社会の「多様性」からすると。
制服の話に戻るが、自分がしらないだけかもだが、女子→ズボン可はあるけど、男子→スカート可っていうのはみたことない。男子でどうしてもスカート、って子の事はほっとかれてる気がするのは自分だけだろうか。
っていうか、全員制服なら可、と記載するべきじゃない?
今の社会の「多様性」からすると。
あなたは当事者じゃないから気持ちは分からない、って事で終わらせないで、その人の多様性が認められる事によって今度は別の誰かが我慢する事になっていると頭に置いとかないといけないと思う。
例えば温泉やトイレで違和感があるから自分の納得出来る方へ行って良し、が当たり前の世界になった時、次は自分以外の誰かを不安にさせ我慢させ傷つけているかもしれない。
そして、その声(言いたいことを我慢させられている)を上げられない少数派はどうやって生きていけばいいんだろう、立場が逆転するだけで結局無限ループじゃないだろうか。
「そんな事言ってんじゃない。黙っとけ。」ってなるんだろうか。
いや、多様性なんだったらこっちも思ってる事、発言させて下さいよ。