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やさしすぎる

「やさしすぎる」
と言われることが多い。同じく言われる人は意外といるんじゃないかと思う。その言葉の真意を深掘りしたことはなかったけれど、最近少し見えてきた気がしたので書き出してみる。

何事においても「すぎる」という言葉はネガティブな要素がある言葉だと思っている。できることなら「やさしすぎる」と言ってくれる人には「すぎるから、なに?」と問うてみようと書きながら思った。
【過ぎたるは猶及ばざるが如し】
なんて言葉を残した孔子も「君は〇〇すぎるね」とか言われていたのだろうか。
何かし過ぎるということは、足りないことと同じなんだぜ。なんて言葉が生み出された体験を知ってみたい。

「やさしい」の対義語を「きびしい」としたときに
人に怒れる人のことをぼくは「そこに怒るんだ」と思うことが多い。
「怒ることあるの?」と聞かれることも多い。ないわけではないけれど特に口にしたいと思うほどではないのだ。だから怒れる人のことをすごいなぁ・不思議だなぁと思う。きびしい人だなぁ。と
ただそれって、それほど関心があるということではないだろうか。

個人的に待ち合わせで相手が遅刻しようが、仕事でミスしようが、会話がうまくなりたたなかろうが、「そうか」と思うだけ。それが「やさしすぎる」と言われる所以の1つなのかもしれないと思った。だって自分も遅刻することがあるだろうし、仕事でミスするし、会話がうまくできないことがあるから。
育った環境や文化・人種、そんなん違って当たり前だし、何があってもいいじゃん。って受け入れているつもりだ。それが「やさしすぎる」と言われるのであれば、ただ「受け入れること」は「関心を持たないこと」の要素を含んでいるのかもしれない。

関心がないわけではない。そういうこともあるよね。って感覚。
例えば、電車の中でお母さんが「静かにしなきゃでしょ!」って子供怒っている。「あらあら」と思い、ときには「そこまで怒るものなんだ」と思うことがある。
だって自分もそうだったから、たくさん怒られてきたし、たくさん許してもらってきて今の自分があるから。そうなったら電車で騒ごうが何しようが「まあそういうものだよね」って。

これを考え始めたときに、将来ぼくは自分の子供を叱ることができるのだろうか? とも同時に思った。あれ、叱るってなんなんだろう。
別に子供が何をしようが「ナイスチャレンジじゃん」って言ってあげたいな。というのが今のスタンス。今後はどうなっていくのだろうか。個人的にも気になる。

相手は相手、自分は自分。
その相手の中にどれだけ「自分要素」を見出しているのか。がきびしくあれるかどうかの要素なのかもしれない。だって、自分と同じことができるはずだって思ってることを相手ができなかったときに「え?」って思ったことがあるはずだから。

やさしくあるためには相手やその場を受け入れること
きびしくあるためには自分の価値観や基準を当てはめること
受け入ればかりでは「やさしすぎ」
基準を当てはめすぎれば「きびしすぎ」
その間がいわゆる中庸なのかもしれない。孔子もなかなか難しいことを言うものだ。

メチャメチャ悲しいときだって ふいに なぜか
乗り越える 勇気とPOWER 湧いてくるのは
メチャメチャ優しい人達が ふいに 見せた
きびしさの せいだったり するんだろうね

『微笑みの爆弾』馬渡松子

幽遊白書の主題歌にこんなフレーズがある。
元気とかやる気とか勇気とか。湧いてくる理由の一つに中庸、いわゆる「ちょうどよさ」や「バランス」があるのかもしれないなって。

これからもどうぞよしなに。

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