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「レモン、ありますね?」 2024/12/04

ごきげんよう。境界線問題についての続きのような、気付きのような、つまりは続きのようなnoteを書きたいと思う。ちなみにとてつもなく長くなってしまったので、余裕があるときに読んでいただくことをオススメします(自分でも読むのが大変)。

唐突だが、サムネイルの画像と、タイトルを目にして、とあるドラマを思い出した方、そうです、きっとそのドラマでほぼ正解!である。

このドラマの中で、「レモン、ありますね?」という台詞が出てくる一連の流れが、とある人々の間で一世を風靡した記憶がある。今でも、唐揚げとレモン(唐揚げは鳥のものであることを問わない)の組み合わせをみると、反射的にこの台詞を思い出している。

この台詞が、ひいては『カルテット』というドラマ自体が、普通に生きていくのが難しい人たちを描いていたものであったこと(所謂 "繊細さんについて" )と、"境界線問題" を取り扱っていたのだ、ということがわたしの中で急にクリアになった。そしてそれは、ここ数日考えている境界線のことがあったからだと思う。

ここ数日でわたしは、大きく分けてふたつのパターンのコミュニケーションを体験した。ここまでの流れがあるのである程度容易に推察していただけるかと思う。簡単に言葉にすると、「① 越境」と「② 明瞭」という言葉になる。つまり、先のnoteに書いていたのは①についてなので、今回は②について書いてみたい。

更には、②では、「(境界線が)明瞭(に引かれている)」ということだけでなく、お互いが気持ちよく過ごすための『気を遣わせない気の使い方』というものが存在することについて触れたい。

『気を遣わせない気の使い方』を簡単に言い換えると、"気が合っている" ということな気がしている。気を遣わない気の使い方、という言語化をしているということは、その気使い=目の前の相手に気を使われているということはわかっている、ということだ。でも、それを敢えて言わないまま「ありがとう」と有難く受け取り、使ってもらったものとは別の気遣いをもって目の前の相手に送るお返しするということは可能だと思う。

そしてそれができとき、見えない世界お互いの潜在意識における調和が取られているから、お互いに目に見える形顕在意識で理解できる現実化をしていることになる。 その結果、お互いにとって心地よいコミュニケーションになっていくいるのではないか、と感じている。

境界線問題は意外と根深い。それぞれがそれぞれにそれぞれの境界線について自覚的であることがとても大切だが、そこがクリアになっている人は意外と少ないのでは無いかと思う。当たり前になってしまっていることに自覚的になるのは結構難しいし、そうでなくても自分の(本)質を知っている必要があるので、そういう意味でも自覚し難い。家族性、地域性、国民性など、それは多岐にわたる上に、心地よいとか心地悪いとかを感じること自体が難しかったりする。

「そういうものだ」とか、「ここではそれが普通」みたいなものが、自分では無いと認識するのが難しいどころか逆に無自覚になるくらい=顕在意識を乗り越えて個人的無意識に浸透してしまっている場合、無意識に境界線を超えたり越えられたりしていても気付かないことはあるし、逆にここに書いたようなことを無自覚に誰かにしてしまっているということがある。

往々にして、気付いていないということは罪深かったりする。ここは敢えて選んで・・・・・・この言葉を使ったので、罪深いと書いてあるのを読んで勝手に罪悪感に苛まれないようにしていただきたい(よろしくお願いします!)。敢えてこう書いたのは、本質的に(ここでの本質=元々その人が持っている性質)気付けないことを責めたりダメだといいたいのではなくて、後天的に身に・・・・・・付けたエゴによって・・・・・・・・・、周りに復讐していることに無自覚であることについて問いかけてみたいからだ。

間をめちゃくちゃ端折ったので、「???」となった方も多いかもしれないが、そういう風に自分を演出することにメリットがある、まさにそのメリットのひとつに他者への復讐があるよ、ということを言いたい。そして、それは最終的に自分への復讐だったりしてしまうので、みんな少しでも早く気付いて欲しい。

一言で復讐と言っても、その内容は千差万別で、その具体例を出すのは難しいが、無神経であることを選んでいたり、気付かないことにしていたり、無邪気なふりをしていたりする。そう在ることで(別の自分であることで)、自分を守りつつ(これが自我の枠であり思考であり自分ルールでありegoの声になるやつだったりetc...)、 実は自己否定している(本来の自分の在り方を否定している)ので、自分のことを傷付けているので、同時に周りのことも傷付けてしまったりする。が、本人は自分を守っているつもりなので(信じ込んでいる=個人的無意識層まで設定が到達しているので)それを望んでいることになってしまい、そういう現実が創造されてしまうというわけ。

ということで、境界線問題は『 "在り方の設定変更" のために起こっている』というまとめ・・・というか結論に至った。

言葉がキツかったりややこしかったりするのですが、仕組みっぽいことを書いてみたので良かったら何回か読んでみてね。分からなくても大丈夫。わかるときがきたらわかるので、とりまわかんないなーって思って、そんで忘れていただければ幸いです。あとたぶん、諸説ございます。ここに書いたことは、氷山の一角であることも同時にお見知り置きを。おしまい。




2024/12/04 (269/366)


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