裏の裏の裏の裏の...
その先って、なくなることはあるのだろうか。
ふとそんなことを思いました。
最近、内側の見せられない部分のアウトプットができてない気がして、いや、でもアウトプット自体はしてるし、それに裏のことを書いてないかというと書いてはいるんです。見せたくないとか言いたくない、知られたくないことも書いてる。こんなん言えるようになったか!みたいなことも書いてる。
でも、書いてないことはまだまだあって、実は自分でも気付かないふりして封印してることってまだまだある。その封印って、無くなるときってくるんだろうか。無くならないのなら、無くさないでいいやんと思ってしまうわたしがいる。つまり、今ある闇を持ち続けるという選択をしてしまう、ということ。
だって、それなら知ってるし、このままでいいから。変わらなくていいから。同じ割合占めてるなら、もういいやん、って思ってしまう。変なところで省エネ発揮、そして合理的。いや、こういうのは省エネでもなく、合理的でも無いのかもしれないけど。じつは、この考え方こそが、自分自身の漏電体質(使途不明金体質)を加速させているのかもしれない...と今思った。
いや、実は別に今はじめて思った訳でもない。前からそうじゃないかとは思っていた。でも、気付いたら変えないといけないから気付かないふりをしてたのかもしれない。割合が同じなら変えなくていい、だって同じだから。
でも、同時にわたしはいつもこういうことを言っている。方丈記をよく引用している。そしてその考え方、在り方、受け止め方が本当に好きだとも思っているし、それが自然の理だとも思っている。
行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。
なのに。なぜこんなにも真逆をいっているのだろう、わたしは。
この、頭がいいのか悪いのか分からない(いや多分、悪い)、合理的なのか非合理的なのかわからない、損してるのかしてないのかわからない(いや、してる)、と思いたい、そう思ってまで変えたくないのは、何故なのだろう。
なぜ、間違いだと思ったまま、それに耐える(しかも最もそれっぽく思える言い訳をくっつけて)ということをしてしまうのだろう。。。
なぜ、こんなに変なところが小賢しいのだろう。←逃〇恥からの引用ですw
ちょっとぼんやり、自分に問いかけてみます。
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