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無味乾燥 2024/10/15(16)

このnoteは、2024/10/15に書こうとしてタイトルとサムネイルを選んだところで止めていたものを、10/16に改めて書くことにしたものだ。

これまで、このパターンはしたことがなかったんだけど(書こうとしたそのときとは状況も心境も様変わりしてしまったため)、なんとなくそのときのわたしで書くことが逆に客観性とか別の意味(視点かな)での関連性とかを冷静に観察したり言語化したりできそうな気がして、淡々とわくわくした(面白いなと思った)ので、そのままそうしてみることにした。




わたしが、「無味乾燥」という言葉に初めて出逢ったのは、中学三年生のときだ。夏休みが終わり、提出した読書感想文がコンクールに出されることになった(賞とかは多分とってない)。そのとき、先生が赤鉛筆で直してくれた言葉の中に、「無味乾燥」というのがあった。何故かそのときだけ台所で直しをしていたことも、その赤鉛筆で書かれた文字も、とてもとてもよく覚えている。

無味乾燥とは、文字通り、「無味」味がなくて、「乾燥」乾いている、ということだ(ちょっと文字通りの説明すぎるが)。一応、改めて辞書で調べてみることにする。

なんの面白みも味わいもないさま。▽「無味」は味がない、面白みがないこと。「乾燥」は物事に潤いや趣がないこと。

三省堂 新明解四字熟語辞典

この言葉は、「『無味乾燥』な人生を・・・」という言葉でわたしの読書感想文に登場した。今更ながら、何という本を読んで読書感想文を書いたかを書いていなかったので、まずその本を紹介したいと思う。

わたしが中学三年生のときに読書感想文を書いた本のタイトルは、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』だ。主人公の青年ハンスの短すぎる栄光と悲劇を書いたその作品は、中学三年生の夏になって初めて読んだわけではなかった。つまり、読書感想文を書くために読んだ本ではなかった。確か、一年のときには読んでいたと思う。むしろ愛読書と称してもおかしくないくらい、そのときのわたしはその本に親近感を覚えていた。進路選択を控えた中学三年生のわたしが、「『車輪の下』を読んで」という読書感想文を書いたことは、今のわたしから振り返ってもとても興味深い。

言わずもがな、主人公の少年にわたしは自分を投影していた。だが、わたしは彼とは違うと思っていた。当時、この言葉を当てていたかは分からないが、ハンスのことを反面教師・・・・的に感じていたのかもしれない。なぜなら、読書感想文は大体このようなこういう文章で締めくくったという記憶があるからだ。

「ハンスは、笑うことを忘れていました。彼が、自分が笑顔を失っていることにもっと早く気付けていたなら、もしかしたら違う道があったのかもしれない。わたしはハンスとは違う。どんなときも、笑顔を大切に生きていこうと思う。」

しかし、この読書感想文は、ここに書かれた意味を全うすることはなかった。つまり、ここに書いたことが反転する未来がわたしの人生には待っており、この先わたしは何度か笑顔を失うことになる。わたしは、ハンスよりも多くハンスになったを体験した

その度、わたしはこの読書感想文を思い出した。『車輪の下』を読み返すことは、学生の間は何度かあったような気がするが、社会人になってからはしていない。しかし、ときどきこの読書感想文がわたしの中からわたしに語りかけてくるのだ。元々の文字の上に引かれた二重の訂正線と、その横に書かれた「無味乾燥」という、赤い文字とともに。




このnoteはどこで終わろうかな、と思ったのだが、もうここで終わっていいような気がする。中途半端な気がするが、これで完結しているように思うのだ。中途半端だと思うのは、前後の繋がりを気にしているからで、2本の区切り線の間に書いた文章のみを読めば、これはこれで世界が完結していると思う。

わたしにとっての「無味乾燥」とは、こういうことなのだ。そこにあるもの、起きていることと、別の世界を完全に切り分けるということだ。その2つ(今回の場合は、① 2本の区切り線の間に書いた文章 と、② 2本の区切り線の前後に書いた文章)は、同時に存在するので、そういう意味での関連性はある。しかし、それを除けばそれぞれ独立している気がする。

同じ言葉を使っているので繋がりはある。でもそれ以外は関係ない。このドライ加減が、わたしの中にあった「無味乾燥」で、それを当時の担任の先生は見抜いていたということなのだろう。・・・見抜いていたのだろうか、と書こうと思ったが、そうであってもそうでなくてもいい、と思った瞬間に、見抜かれていたわけでもない気がする・・・というか多分そういうことでも無いような、と思い、でもあの先生ならわたしのそういうところを見抜きながらも直接・・ 突き付けたりはしない・・・・・・・・・・な、とも思い、ここまで書いてやはりどちらでもよく、ただ浮かんだことはそのまま受け取ろうと思った決めた




なんだか、どう続けていいかわからなくなり、一旦離脱してテレビを見たりご飯を食べたりした。読み直してみると、何だか自分でも読むのが難しかった。そもそも、昨日~今日は何だか頭が回っていないのだ。頭が回っていないという自覚があるのに、なぜこんな小難しいnoteを延々と2160文字(←ここまで )も書き続けているのだろう。しかも、2本と書いてきた区切り線は3本目になった。

わたしの内側はわりと殺伐としたところがあるのだろう、というのがこのnoteを書いてのわたしの感想だ。まとめとしては些か乱暴すぎるような気もするが、何だか殺伐と、そして淡々と、ここに書いていることを、そしてこの結末に至るまでの流れを斜に構えて観察している自分がいる。これを書いたからこの空気感の自分が出てきたというよりは、この空気感の自分はもともと自分の中にいて、ある意味謎に軽やかに表舞台に躍り出た感じになっている。わくわくで始まったのはそういうことだったのかもしれない。で、あるならば、きっとこのnoteはこれでじゅうぶんなのだろう。

後日、読み直して感じたことがあれば(そしてそれについて書きたいと思えば)またnoteを書くのもいい。うん、きっとそれがいい。そうしよう。だから、このnoteはこれでおしまい。



2024/10/15(16) (227/366)


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