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お礼参り 2024/05/19 -2

最近、お礼参りというものをさせてもらえるようになった。お礼参りに行けるのは、言うまでもなく以前その神社さんにお参りさせていただいたことがあるからで、その「以前お参りさせていただいたとき」というのが、わたしの人生にとって節目のタイミングであることが多くて、つまり句読点の多い読みにくい文章を書いてわたしは何を言いたいのかというと、お礼参りをさせてもらえているわたしが嬉しい、ということなのである。

時がきた。お礼を言わせてもらえるときが。だから、お礼参りに行く。行かせていただける流れになる。だから行かせていただく。行く前から嬉しいし、行っても嬉しいし、今の自分をいつもよりも深く感じると同時に、かつてのわたしが今ここ(わたしの中)に一緒にいてお参りしているのを感じて、何とも言えない気持ちになる。

あのときはこうだったな、その前にこんなことがあったな、その後こういう展開になったな。そもそもその前にそうなったのはあのことがあったからで、でもあのことはさらにその前の…みたいな感じでポンポンと記憶がスキップしていく。今はもうそのrhythmの中にいないわたしを、別の視点から受け取りながら眺めて、受け取って、一緒におどったりして。その全部が嬉しくて、愛おしくて、そして尊い。そう、尊いのだ。

尊い。それは今だから言える言葉で、今までの時間を乗り越えてきたから出てくる言葉で、かつてお参りにきたとき、またここに来ることはあるだろうと思っていた…むしろ確信があったけど、そのときにその時点からの時間をまるっと受け取って尊いと言えるようになる自分を、わたしは露ほども想定していなかった。

そのときは、わたしの人生にやっと光が射したようなタイミングで、でもそのあともう一度人生にはまだ底があったのだと、ここがどん詰まりで、これ以上下がることはないと感じる体験をすることになるのを今のわたしは知っていて、だからあのときの自分を単純に眩しいと感じることは出来なくて、でもその生々しい記憶が、今のわたしをわたしたらしめていることは間違いない。

そう思うと、わたしの人生は大変だけど、その大変さはやはりギフトなのだなぁと思うし、かつてのしんどかったわたしを、今のわたしは全く哀れんでいなくて、その視点に気づけたことがまたギフトだなぁと思ったりしている。

お礼参り。これから、もっともっと増えていくその時間が、本当にありがたく嬉しいものであると感じる2024年05月19日。



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