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same but different⑤ 2024/10/17 -5

same but different
同じで、違う。

同じタイトルで、いくつかnoteを書いてみたくなった。
なぜなら、おなじで違うサムネイルに出逢い、どれにするかを決めきれなかったからだ。

・・・だったのだが。




たぶん、③までで話がひとつ終わって、
❹からはスピンオフ的な感じになっている気がする。

わたしは基本的に書くことは好きだ。
自分の思考が言語化されるのを見ているのがすきなのだと思う。
だからスタエフで話すのも好きだ。
わたしの言葉が音になって自分に聴こえる。
それを聴きながら、また話す。
話しながら聴くし、聴きながら話す。
これもまた、"同じで違う"ことをしているのだ。

2つ前のnoteでは、これを見ることと読むことについて書いた気がする。
感覚(器)を使っているのだ。
見る、聴く、話す。
手を動かして文字を打っているのはあえてで分けるなら触覚に入るのだろうか。
もしかしたら、読むの中に味覚も入っているかもしれない。vibesを味わっている。vibesを味わうには触覚(肌感覚)も使っている気がする。無論、聴覚も、視覚も。

みる、はなす、きく、さわる、あじわう、が五感だとしたら、第六感は「わかる」だろうか。
この「わかる」は「知っている既知」という感覚に近い、あるいは部分的に(時に全部)同じものでもある気がする。

そのひとつひとつを、わたしたちはひとつひとつでありながら同時に使って、感じて、受け取って、日々を、今この瞬間を生きているのだ。

そう思うと、今とは "同じで違う" ものの集まりなのだろうと思う。ただ、今ここにあるという '同じ' 通奏低音が流れる中で、バラバラに存在している '違う' ものの集合体。

それって、わたしのことだ。
わたしとて同じだ。違う臓器、違う考え方、違う組織、違う気持ちの集合体。
それが、 'わたし' というひとくくりで、わたしになっている。なっているというか、そもそも 'わたしである' というvibesのひとかたまりが 'わたし' なのであって、違うのも同じなのも当たり前なのだ。

だから、個は全体で、全体が個なのだ。
わたし自身がOnenessなのである。
何だか不思議な展開で謎に明快に言語化できてしまってびっくりしている。
意識が、明晰性とゲシュタルト崩壊の交点にいる。
カオスとコスモスの間、混沌と秩序の交点。
ある意味いちばん自由で、1番不自由な場所。

ここでの不自由とはもはや、自由を超越した自由ということで(超自由?超由?)、これは超愛の概念ときっと同じなのだろうと思ったので、また個人的に感じてみようと思った。

ということで、話が部分から全体に展開したのでここで終わり。もしかしてもしかしたら(以下略)。



2024/10/17 -5 (233/366)

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