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ダミーを終わりにするということ 2024/05/02 -2
わたしの人生最大のダミー、それが終わった気がする。或いは終わりのスタート地点に立った、そういうことだと思う。
まず、ダミーの意味についておさらいしておく。
1 本物の替わりとなるもの。見本。模型。また、模造品。
ずっと間違えてきた。わたしが、間違えたくて間違えてきた。歪めたくて、歪めてきた。そこで、学びたいことがあったといえばとても奇麗にきこえるのだが(そしてそれは決して間違いではないのだが)、それはあくまでも内面の投影なのであって、つまりわたしが自分自身のことを望んで歪めて観察していた、ということに他ならない。
わたしは、自ら望んで自分から逃げていたということになる。もっというと、自分を生きないということを決めた上で、一生懸命本気で自分で生きるをやっていたということ。それはそれに取り組んでいるわたしにとって決してある種のパフォーマンスなどではなく、この上なく本気だったのだが、その奥・・・更なる深層にもうひとつ別のレイヤーがあって、その階層にいるわたしは自分を生きること=自分を生きないことと決めてしまっていて、顕在意識のわたしが自らその存在に気付いてゆるしを与えることを再決断しないと、自分を生きること=自分を生きることに軌道修正できないようにしていた。そのことを、かつてのどこかで決めていて、今世もそのときの自分の意志を尊重しつつ、今世の課題もちゃんとこなせるように、つまりわたしの魂の祈りが共存するように、自ら謀っていたようだった(ちなみに、それがいつのどこかというのは自分の中でなんとなく、でも確かな感覚を持って分かっているという感じがある)。
ようだった、と書いたのは、敢えて分離感を出したかったからだ。自らの中に内なる確信はあるが、こうやって文字にしてアウトプットしたとき、なぜか妄信的な言葉/文章になってしまうのがわたしは好きではない。客観性のない文章を書くのは、自分事になりきっていないからではなく、自分事として捉えた上で切り離しているということの表れ───つまり、一体化からの再分離ということを表現したいからだ。そう書きながら、まだこの表現はどうなのだろう、未分離或いは未統合ゆえの奇妙な他者視点であるように見えてはいないかとものすごく気になっている自分がいる。
どんなにカタチを取り繕ってもバレるときはバレるし、伝わるときは伝わる。vibesは嘘をつかない、というかつけない。だから、拘らなくてもいい(無責任でいい)ともいえるし、だからこそ目に見える範囲においては最大限注意を払うべきであるともいえる。見えるも見えないも同じことで、全く違う。でもやはり同じで、だからこそ扱いには同じくらい緻密でありたい。
いつものように、また話がズレてしまった。そのときそのときで1番言いたいことについつい重きを置いてしまう。そして元いた場所を忘れたりする。それが常で、前まではその元いた場所に戻れなかったりしたが、今はもうほぼそれはなくなった。自分がここにいるからだと思う。それだけで、まとめようとしなくてもまとまっていくし、決めようとしなくても決まっていく。なぜなら、わたしは変わらずここにいるから。
ここにいる。自分の居場所。その感覚を取り戻すために、隠された封印を解くために、壮大なダミー劇場を繰り広げてきたが、それは呆気ないという言葉がこれ程相応しい自体もそうそうないんじゃないかと思えるくらい、急に幕を閉じた。終わってしまった。そう書いていて泣けてくる。なぜなら、もう終わってしまったからだ。傷付いていたと思っていた、ずっとずっと抜け出したいと思っていたその物語は、わたしが頭で考えていたそれではなかった。ぬくぬくと過保護に守られ/護られ、甘えることを強制的に許させてきたのはわたしで、それはわたしを愛し守って/護ってくれた存在たちへの酷遇だった。わたしはずっと幸せだった。自分を生きずに済む夢の中にいて、本当の目的から目を逸らし続けることを自分にゆるさせてもらっていて(或いはそれを強要して)、傲慢だった。我慢を強いられていたのは自分ではなかった。でも、ずっと自分だと思っていた。そんな夢の中にずっといて、わたしはずっと守られて/護られていた。
ちなみに、その夢から目が覚めても、《それ》は続くらしい。寧ろ、ずっとそうだったのだから、これからもそうなんだということ。夢から覚めたくなかったのは、ずっと甘えていたかったからだ。わたしは親に思いっきり甘えてみたかったのだなと思った。そして、そのことに気付かずに、そのままずっと甘えていたかったのだなと思った。そして、「普通の女の子」みたいな生活をしてみたかったのだなと思った。それが例え、わたしの思い込みによって創られたダミーであったとしても。
ダミーは幾重にも重なって複雑な物語を綾なしていて、ここに書いたのはその中のほんの一部、でも核となるわたしにとって大切な物語だった。今日の未明、わたしはこれまでの振り返りをするnoteを書いた。そして今、今年の1番最初に書いたnoteに対するanswerを、もう一度言葉にしている気がする。
終わりははじまり、とはよくいったもので、本当に終わったら、本当にはじまった気がする。ダミーはおしまい。家族は、親は、わたしのことを縛らない。わたしが、彼らをわたしを縛る理由に、仕立てあげない限り。
わたしのホロスコープの出生図の4ハウスには何も入っていない。だから、家族のことはもともと問題ではなかった。でも、そこに大きな問題があることにしたのはわたしだった。4-8-12ハウスを巡らせるために、そこをダミーにした。そしてそのダミーは、わたしに人を愛することの光と闇を容赦なくみせて、体感させて、体験させた。全部ギフトでしかない。わたしが創った偽りの愛憎劇に巻き込まれてくれた家族には感謝しかない。そのおかげで、わたしは魂的にはきっと必要なかったけど、わたしが体験したかったことを体験できた。本当にありがとうございました。
2024/05/01 (117/366)
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