嫌いに素直になる② 2024/03/04
①の続きです。
03/02に書いていたものを加筆修正してupします。
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ここまでは、寝る前に書いていた。何でこの話を書いているんだろうと思いながら書いていた。起きてから、過去のある出来事と、それに付随する記憶たち(たぶん同じことを感じている事象の数々)がゆるりと集まっていて、なんとなく終結に向かっている感じがしていた。今日したいと思っていたことは、なんだか身体がYESではなくて先延ばしにした。これは嫌だから先延ばしではなく(苦笑)、今ではないという感覚を信頼した先延ばしだ。そのあと、昨夜放送されたドラマ「不適切にも程がある」を観た。それから、なんとなく以前購入したまま積読になっていた本の1冊をパラパラと読んだ。
そうこうしているうちに、この内容を書いている意味がなんだか自然と、ぼわっと、でもなんだか不思議にクリアに、自分の中で煮詰まっていくのを感じた。目の前にふわふわと集まる事象が、わたしがここに本当に書きたかったこと=「何がNOなのか」を見極めること で、それって、対自分にとっても難しいことだけど(それが対他者になると尚更わからなくなる)、その理由がとにかく知りたいということだったらしい、と教えてくれた。全てのものごとには理由がある。その理由が分からない限り、解決しないことがある=そのことに執着してしまう、なぜならその理由は、理解=解決であり解放であり手放しであるので、わからないことがあるとわからないまま、例えば永遠に分解できない毒を摂取した状態になってしまう、ということのようだ。
わからないをゆるす、ということ。
つまり、わたしにとっては、「わからない」が「NO」なのだ。でも、それって自分に前述の毒を飲ませることなので、「わからない」は「わからない」ままにすること、起きていることをそのまま受け容れること、つまり理解できないことがあっても自分を責めなくていいし、自分が無能なのではないし、自分に価値がないわけでも、気遣いや心配りや愛が足りないわけでもないということを、ゆるす必要があるということだ。わからないことがあったとき、わたしのせいにしなくていいし、し続けなくていいということだ。
傷付いたときも同じ。わたしのせいで傷ついているのではない。わたしが傷付くに至った全てが、わたしに何かが足りないせいで起こったのではないということを、わたしは改めて理解する必要がある。例えば、わたしが傷付くような出来事があったとして、わたしは傷付いたのだからそのまま素直に怒っていいし、泣きたければ泣いていいのだ。
そういえば、幼い頃から、わたしは自分が傷付いたときはいつも、わたしが相手をそういう行動に至らせたと思っていた。だから、そういうときは自分よりも相手が傷付いているから、相手のケアをしなくちゃとムキになっていたところがあったように思う。それは、自分の痛みから目を逸らすことだった。自分が痛いことを言うことで、相手が傷付くと思っていて、それを自分が伝えるときは、もう我慢の限界のときだったから、相手もそういう状態なのだと勝手に思っていた。
違った。それはわたしの投影だった。
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③に続く。
2024/03/04 (69/366)