見出し画像

「また今度ね」

友人が名古屋から東京に帰ってくる事になった。その友人を囲んで食事でもしようと、グループLINEでのやり取りがあった。数名居ると予定を合わせる事も中々困難で、社会人になれば尚更である。田中は多忙で出張もあるために予定が読めないという。それは残念だが仕方がない。

LINEには「また今度」という文字が刻まれていた。

その単語を見て、私が10代の時にアルバイトをしていた幼稚園での出来事を思い出した。

すこしだけ昔の話しです

私は夜学に通いながら、昼間は学校で紹介された公立の幼稚園で保育補助として働いていた。まだ10代。生意気で何もわかっていなかった私だったが、幼稚園の先生方は本当に良くしてくれた。ピアノは使いたい放題だったし、研修も受けさせてくれた。
先生方の保育は一つひとつが素晴らしく、思い返しても毎日が楽しく感じられるようなものであった。

東大寮が近かった事から、海外からの留学生夫婦の子どもや、イラン大使館、フランス大使館員の子どもが登園しており、国際色豊かで、今でいうインクルーシブ保育がされていたのだと思う。本当に色々な子がおり、私は障がいを持っているAくんと一緒にすごす時間が増えていった。

保育とは何かが全くわかっていなかった当時の私はA君に対して不必要な手助けや、「なんでこれが出来ないの?」などの意地悪で無知な言葉掛けをしてしまっていたと思う。あまりに愚かな言動だったな、と今になってみると反省してもしきれないエピソードばかりだ。

しかし彼はとても優しく穏やかで、こちらが学ばせてもらう事がたくさんあった。私との信頼関係もそんな彼だからこそありがたいことに少しずつではあるが積み上がっていったように思う。

そんなA君は元気に卒園して同じ敷地内の小学校に通い始める。時折、下校時に裏門から掃除をしている私に声を掛けて行った。

ある日いつものように、A君に声をかけられた。
「そっちで遊びたい」と言われ
「お家でお母さんが待っているからまた今度ね」と私は言った。

しかしそのあと、「また今度」は来なかった。

週末で休みだった私は吉祥寺に居て、そこからは記憶がとぎれとぎれではあるが、母から連絡が入り、幼稚園の主任のH先生と連絡がつき、A君が事故で亡くなった事を知る。

お葬式に行ったとき、まるで現実とは思えなかった事だけ覚えている。そして御両親の悲しみのはかりしれない大きさも。

それから私は
自分の保育の中で「後でね」と言うことを避けている。なるべくその場で解決出来る事はしたいなとおもいそれを自分の中で大切にしながら日々保育をするようにしている。

そしてまた、ときおりAくんの事を思う。
今、この仕事をできているのはAくんのおかげでもあるなと思っている。ありがとう。
そしてまたいつかA君に会いたい。

友人とのLINEから、思い出したい人を思い出した夜だった。

また、いつか。また、こんど。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?