苦手な科目を教える時に
NPO法人Kacotamの活動メンバーは、「分からないことは分からないと言う」ということを大切にしています。
これは、学習塾との大きな違いのひとつと言えます。
実際に活動していると、しばしば発生するシチュエーションでもあります。
特に僕は、高校生の頃から生粋の文系なので、高校生に「数学を教えてほしい」と言われると、ドキッとしてしまいます。
そんなとき、たいてい、次の3パターンで乗り切っています(この表現はやや不適切かもしれませんが)。
1.一緒に勉強する
自分も苦手科目なんだということを伝えて、教科書や参考書を一緒に読みながら、一緒に学んでいきます。
難しい応用問題とかでなければ、教科書を読めば理解できることが多く、たいてはこれでなんとかなります。
読んでいる途中に自分が理解できれば、噛み砕いて説明することができますし、読んでいて子どもも一緒のタイミングで「あ、そういうことか」となることもあります。
2.まわりのひとに聞く
まわりのメンバーにヘルプを求めます。カコタムには色々なメンバーがいて、文系・理系それぞれに、得意な人がいます。また、教員や学習塾講師経験やもいるので、助けを求めればバッチリ教えてくれます。
そのメンバーも他の子を担当している場合など、声をかけるタイミングをはかるのが難しいときもありますが、担当を持っていないメンバーをうまく使ったり、一時的に担当をチェンジしたりして、対応します。
3.必死に思い出しながら教える
自分だって高校生の頃にいちどは学んだことがある範囲です。死ぬ気で思い出すと、意外と思い出せることもあります。
少しだけ時間をもらい、教科書や参考書を読みながら、最速で再学習し、自分の中で咀嚼してアウトプットし、その子に教えます。
まわりにヘルプを求められる環境が無い場合や、担当している子によっては、この手段を取ることもあります。
ただし、このやり方は、後述の理由により、あまりオススメできません。
自分が失敗した事例
必死に思い出しながら教えようとしてしまった結果、うまくいかなかった場合、何が起きるか。
自分が経験した、いちばん良くなかった事例は、僕がうまく説明できなかったせいなのに、その子に「自分の理解力が足りなかった…」と思わせてしまったことです。
高校数学の「整数」の範囲。僕にとっては、ちょっと不安だけど頑張ればなんとか思い出せるかな、くらいのレベル感でした。使命感と義務感とちょっとしたプライドもあり、「可能な限りギブアップせずに教えたい」という想いで、単元の内容を必死に思い出しながら、訊かれた問題の解き方を示しました。
結果的に、自分の中でなんとか解き方と正解は導き出せたのですが、そこからさらに、相手に理解してもらえる説明を組み立てるのに手間取りました。
うまく説明できず、当然うまく理解されず。どう伝えればいいか悩み別の説明を試し。繰り返すうちに、最後にはなんとか理解してもらえたものの、この思考錯誤の時間を、その子に「(本人の)理解力が足りなかった」と思わせてしまいました。
ダメダメです…。とても悔しかった。
「1を教えるためには、1を知っていれば良いわけではなく、10や100知っていてはじめて、相手にふさわしい説明と授業の組み立てができる」
うちのとある職員のそんな言葉も思い出し、反省とともに、数学の学び直しを決意したりもしたんですが、それは主題がずれるので別の機会にします。
…ちょっと個人的な失敗談からの懺悔要素が入ってしまいましたが、だいたいこんな感じで、カコタムのメンバーはそれぞれ、自分が苦手な科目の学習支援にも、向き合っています。
番外編. 子どもに勉強を教えてもらう
自分が苦手な科目を訊かれたときの選択肢、番外編です。
かなり特殊な状況下でないと作用しない選択肢ではありますが、その子がそもそも得意科目だった場合、関係性によっては、立場を逆転させることを提案したことがありました(そもそも前提として「教える~教わる」の関係性ではないので、「逆転」という言葉は本当はおかしいのですが、現実的には「逆転」が感覚的にいちばん近いです)。
「教える」ことは、過程に「知識の抽象化と言語化」が含まれるので、最大の「学び」になることは、言を俟たないと思います。それをやってもらうということです。
得意科目とはいえ、他人に教えるのは別物。ましてその科目を苦手としている人に教えるのは、かなりの工夫が要ります。教える中で、気づいていなかった自分の知識の偏重や欠落に思い至ったり、自身の適性を知ることもできます。
そんなわけで、子どもが得意でメンバーが苦手というアンバランスな構図から、逆転してお互い大きな学びを得るという方法も、あることにはあります。狙ってできることではありませんが。
※おかげさまで、僕は「化学」が嫌いではなくなりました。ありがとう!
※カコタムの「勉強を教える」というスタンスについては、色々な解釈や主義や定義があり、デリケートな部分でもあるので、本記事はあくまで僕個人の体験と印象によるものであることを、改めていつも以上に強調しておきます。