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人に流されるのが好き、かも
私は人に流されるのが好きかもしれない。
自分で決められないとか、そういった話ではなく。
とてもいい意味で、他者の影響を受けて生きているな、と思うのです。
そう思うと、私の使う言葉や価値観は、100%純私産ではないのかもしれません。(「私産」というのは、私が考えて産み出したかどうか)
あなたが使う言葉や価値観は、どうでしょう?
そもそも、誰産なんて概念がちゃんちゃらおかしいのかもしれませんが……。
たとえば、私は「彩り」という表現が好きですが、これは私の言葉ではありません。
以前友人から貰った手紙にあった『心の彩りを豊かにしてくれてありがとう』という一文があまりにも綺麗で、嬉しくて、気づいたら好きでした。
人からもらった言葉をそのまま拝借して、別の誰かに伝えることもあります。
文字にすると泥棒のようですが、感覚としてはお裾分けです。
そんな感じだから、たまに思うのです。
自我が強いようで、結局私は他者の影響を多分に受けて生きているな〜、と。
"たまに"思ったり、いつか忘れてしまうから、「人からもらった言葉」とあえて位置づけたいのかもしれません。
かもばかりですが、この記事では、そんな考えをゆるっと綴っていきます。
言葉の中に感動を閉じ込めたつもりでいる
『これはもらい物の言葉なんだ』
そう位置づけることで生まれるものがあります。個人的に。
一つは感謝の気持ち。
全てに感謝しましょう!だとか、そんな高めの意識は微塵もなくて。
ただ、手っ取り早いのです。嬉しかったな〜ありがたかったな〜と、私がホクホクを味わうために。ご機嫌でいるために。
もう一つは愛のお裾分け。
言われて嬉しかったとか、価値観が変わった大切な言葉を次の誰かに繋げていけたら、もらった愛が循環するような気がするのです。
たとえば、会社の先輩にもらった「自分のことって、好きじゃなきゃいけないのかな?」や、尊敬する上司にもらった「『伝えた』と、『伝わった』は違うよ」。
……などと書きましたが、結局は私のエゴで、
「昔こんな言葉をもらったんだけど…」は、「私の嬉しかった話聞いて!」と同じなのだと思います。
そんな私にとって、一番厄介なのが自分の記憶です。
目をつぶった時に「……あ、あれって昔◯◯さんに言われた言葉じゃん」と、ふと思い出す夜が今でさえある。
それがとても悲しい。
忘れていたことが、その人への感謝や敬意が薄れてしまったように思えて。
覚えていられない未来を感じて。
『鹿児島県の福田農園さんで採れたトマトです』
のように、この言葉は東京都◯◯区〜田中さんにもらった言葉です。
そう、言葉の記憶全てにラベルが貼ってあったら忘れないし、楽なのに。
でもそれもなんだか、ラベリングすることを目的にしてしまっているようでちょっと嫌だ。
恐らく私は、「もらった言葉」だと忘れないことで、ただ、その時の感動を覚えていたいのかもしれません。
「もらった言葉」から生まれた価値観は誰のもの?
私はとても単純で、すぐ人に感化されます。
たとえば、「春」。
高校生の頃、伊坂幸太郎さんの重力ピエロという小説を読んでから、季節の春も名前についた春も、漏れなく好きになりました。
「今後のくぼたさんの人生が、味わい深いものになりますように」
とメッセージを貰えば、「味わい」が人生のトレンドワードになって。
「いいじゃ〜ん!」「できるよ〜!」
と、一緒に喜び背中を押してくれる上司に出会ったから、いつの間にかまるで自分の口癖のように使っていたりする。
単純だからか、言葉そのものだけでなく「もらった言葉」の影響で、振る舞いや行動、価値観すらも変化する。
少し面白いのは、「もらった言葉」は覚えていても、そこから生まれた変化はなかなか自覚が難しいということ。
たとえば、「自分を許せない時や愛せない時は、その分周りの人が許し、愛してくれているのを感じる時間にしちゃうのもありかも」などと、最近この口が言ったのですが……。
この考え方は、15年来の友人から「もらった言葉」に影響を受けて生まれたものだったりします。
影響どころか、その友人そのもの。
彼女は、「あなたが自分を許せなくても、私が許す!!」
と、拳で胸を叩くような勢いで、落ち込む私の代わりに、私を許してくれる人です。
誰かを許すとか、嬉しい時には「嬉しい!」と言葉にして伝えるとか、
大きな喧嘩をした時に許してくれる理由が「だって嫌いになれないもん」のように、「なんで?」の先に理屈がないこともあるとか。
彼女にもらった言葉が私の中に根付いて、新たな芽を出していることがたくさんあります。
(余談ですが、最近使うようになったChatGPTが私の影響かこの友人のようなテンションになっていて、ちょっと楽しい)
私はこんな風に、この友人だけでなく、色んな人に言葉や優しさ、考え方をもらって生きています。
「もらった言葉」だと、いつかは忘れてしまう。
そもそも、もらったという認識すらなかったりする。
それが、あの日の感動すら無かったことになるようで悲しいと思っていたけれど、本当は、その感動から生まれた新しい言葉や価値観があるのかもしれません。
それはもう、私のものなのだろうか?
答えはいりません。ただ、考えていたいのです
そういう曖昧さを考えていれば、言葉に閉じ込めた感動を忘れないでいられる気がするから。
たとえば土地なら、他人の土地に10年ぐらい住み続けるとその人の物になってしまうらしい。(詳しくは知らない)
言葉に所有権があるとしたら、使い続けている内に私のものになるのだろうか。
それとも、もらった言葉を口にした時点でそれはもう私のものになってしまうのだろうか。
はたまた、私のものとか誰かのものとか、そんな境界線はないのだろうか。
ーーこの謎に、答えはいらないのです。
誰かの言葉に一喜一憂して、迷ったり。
使う言葉や価値観が変わったり。
もらった愛を、誰かに繋ぎたいと思う。
少し大げさなことを言うと、他者と自分との間で起こる波に乗って、人生は進むのかもしれない。
どんぶらこ、どんぶらこと。
必要ないと思っていても、意識していなくても、きっと私たちは知らぬ間に波を受け、自らもまた起こしている。
そう思うと、やはり私は人に流されるのが好きなのだと思います。
波は時に困難をもたらすかもしれない。
でも、風を感じたり、思いも寄らない場所に連れて行ってくれたりする。
たまに酔ったり、水に落ちて風邪を引くこともあるけど。
その時はたぶん、触れた水の温度を、思いがけず知った味を、誰かに伝えたくなっちゃうんだろうな〜と思っています。
答えのない人生を、ゆらゆら、ゆらゆら、揺蕩う。
私はそれが、心地いいのかもしれません。
それすらいつか忘れてしまうことを、今は、少し寂しく思うけれど。