海外デザイン留学ビフォー・アフター
JFK国際空港との2度目の再会は、バゲージロストだった。
後に出会う友人からのリアクションは、"Welcome to New York City!"
直行便なのにバゲージロストし、空港のヘルプデスクで再配達を頼むも、指定した住所も適当に入力されてしまい、街の中でもロストしかけて、手元に戻ってきたのは10日後。デザインの勉強を始めるまでに前途多難なスタートを切る。
デザインスクールに留学し、ありえないことが当たり前に起きる生活をするまでの準備と、結末のお話。
留学の準備
大学を2007年に卒業してから1年6ヶ月間、ニューヨークにグラフィックデザイン, アメリカンタイポグラフィを学びに留学した。留学するにはまず何を決めないといけないか本やWebの記事を読み漁り、留学をするために必要なポイントを学んだ。
デザインスクールへ留学するポイント
・いつ、どれぐらいの期間いくか
・学びに行く目的
・都市と学校選び
・ビザ取得
・卒業後どうするか
いつ、どれぐらいの期間いくか
デザインという分野は研究職ではない。だから、実際に「依頼する側=作る側」という生きた状況の経験値を積まないとどうしようもないのではないか、と当時感じていたので、「就職したい思い50%、留学したい思い50%」で、考えていた。
ただ、もし留学できるのであれば、社会人になる前に就職する前にアメリカという国を体験してみたかった。社会人になってしまうといつ行けるのか分からない、自分の優先順位がいつ変わってしまうかわからなかったから。
その結果、準備期間(1年)+学部・大学院(2年)=計3年をかける選択肢は期間的にも金額的にもあまり考えず、卒業までの1年後に留学できる方法を探した。
学びに行く目的
当時、グラフィックデザイナーを目指しており、アルファベットを使った欧米のタイポグラフィ・グラフィックデザインは、国の文化が色濃くでていたので、海外でしか学べないと感じていた。その環境に1-2年、どっぷりつかって帰ってこようと考えていた。
都市と学校選び
その専門分野に強い場所はどこかというところからスタート。デザインスクールは、都市によってデザインの専門分野が異なっていて、ニューヨークでも、例えばWebデザインやプロダクトデザインについてもちろん学べるのだが、圧倒的に西海岸の方が強かった。一番最初に都市の候補を選び、その後どの大学に行くか選んだ。
この大学に留学したい、という大学があればよいが、そこまでピンポイントで行きたい大学も知らなかった。また、その都市でどういう分野のデザインが有名かということ点で選んだ。
都市の候補地
・ロンドン
・ベルリン
・ニューヨーク
・ロサンゼルス
・トロント
・バンクーバー
ニューヨークは、ファッションとオンライン・オフライン含めたグラフィックデザインの街なので、教育的にも充実しているのはその2分野だった。理由は、明白で先生自身が実際の企業で働いているデザイナーだから。なので、地域ごとの美術大学の強みは、その地域に拠点をおく企業の業種や特徴、強みに深く関連している。
ニューヨークのアートスクール
・Parsons The New School for Design
・School of Visual Arts(SVA)
・Fashion Institute of Technology(FIT)
・Cooper Union
・Rhode Island School of Design
etc...
ビザの取得手段
次にぶつかった壁は、ビザ。大学・大学院でないとビザは発行してもらえないので、現地社会人が通うデザインスクール(修了証をもらう学校)はビザを発行してくれない。なので、3ヶ月のツーリストビザを越えて滞在する場合には、語学学校+デザインスクールという形式で留学する必要があった。
ビザ取得とパターン
・語学学校(学生ビザ)+デザインスクール
・大学3・4年編入(学生ビザ)
・大学院(学生ビザ)
etc...
また、当時は留学後に帰国することしか考えていなかったのだが、公開があるとすると、少しでもニューヨークで働く経験を積めばよかったと思った。なので、大学を卒業してから留学する方・社会人で留学する方は、卒業後に1,2年ワーキングビザを出してくれる教育機関は検討してみるといいと思う。
一つ言えるのは、期間 x 教育(学べること、環境、ビザ)x 費用は相関関係ということ。卒業後の就労ビザを発行してくれるのは、大学院などの高度教育機関つまり、アメリカに対して貢献してくれる可能性が高いのでビザを発行してくれる。その代わりに準備期間や費用はかかる。準備期間や短期的なデザインスクールだと、卒業後のビザは発行してくれない代わりに、比較的安くいける。
ただ、tradecraftのようなデザインを学ぶ環境は、スタートアップに勤めるデザイナーが講師なので、実際にスタートアップのプロジェクトに参加したり、実務に近い経験を積むことができる。ビザは発行してもらえないが、実務経験としてはプラスになる設計になっているので、実際のところはハイジさんのブログおすすめ。
Parsonsでの授業
Parsonsの授業が始まる1ヶ月前から滞在していたので、そろそろ授業もどうにかなるだろうと思っていた。そんな淡い期待を打ち砕くように、正直、授業中の会話はほとんどと言っていいほど聴きとれなかった。授業の最後に、
「すいません、宿題ってなにやればいいんですか…」
と、先生に聞きに行くところからのスタート。「今までの英語教育とは?」と頭で思いつつ、授業についていくので精一杯だった。
初めて暮らす土地で自分のパフォーマンスを100%出すことがどれだけ大変なことなのか、身を持って感じた。
初めて暮らす土地でパフォーマンスが落ちる主な「違い」
・考え方の違い(文化・人種)
・言葉の違い
・住環境の違い
・授業の進め方の違い
言葉の違い
彼らの考え方としてはとてもまっとうで、みんな違うということに基づいて、個人的にこういう風な考え方をしているんじゃないかと感じた。
・「アメリカで英語は共通言語」
・「アメリカ国内で英語で会話できるので、違う言語を覚える必要性はあまりない、機会が少ない」
・「自分たちはもともとしゃべれるし、英語がしゃべれない人(学ぶ人)の気持ちは、あまりよくわからない」
・「それに、もしわからないなら、わからないって言うでしょ?」
日本人も日本にいるときは、日本語しか使わないで生活するし、急に英語で説明してほしいと言われても日本語使ってしまうのと同じ現象というだけ。「アメリカに来たら英語、日本にきたら日本語をみんな話すことが当たり前」という考え方の点で、置かれている環境は意外に近いのではないかと思う。
置かれている環境がそうさせているだけで、メンタリティや文化のせいではないんじゃないかと、僕は思う。
質問の嵐
先生に確認した宿題の内容で課題を持ってきた。先生は一人ひとり先生が講評するというよりも、それぞれの作品に対してみんなの意見を求めてディスカッションするスタイルだった。
「なんでこの人たちこんなに質問してくるんや…助けて...」と思ったが、質問が多く、盛り上がるのは良い作品の証拠だということを教わっていただけに、それに答えられないことがすごく悔しかった。
最初はそれが質問かどうかもわからない状況だっただけに、なんとしても次の作品からは質問に答えられるようにしたかった。なので、毎回の授業で事前に準備をしまくることで対応した。
準備すること
・アウトプットの意図
・もらいそうな質問と回答
TODO
・まず日本語でキーワードを洗い出し、そのあと英語にする
・キーワードをつなげて文章を組み立てる
そもそも日本語でも構造立ててしゃべれない話題に、英語でできるわけなんてないのだが、焦っているときほどショートカットしようとしてしまう。最初は時間がかかっていたことも、毎週毎週やることでどんどんスピードがあがっていった。
英語の勉強方法としても、「自分のデザインをきちんとみんなに説明したい」という目的に対する解決方法としての英語学習という進め方が効果的でよかった。
最初はそれが質問かどうかもわからなかった状況が、1つ1つ準備をしたことで焦りも消えて、みんなが言っていることがだんだんと聴こえるようになってきた。
また、英語という外国語で話を組み立てる必要があったため、日本語から英語に変換する際に、ロジカルでない部分がすぐわかった。英語で説明するために、必然的にロジカルならざるを得なかった。
英語でロジカルに考えられるようになった流れ
・英語で説明したい
・日本語から英語に変換する
・感覚的な部分のアラが明確になる
・英語で話を組み立てるために論理的に考えるようになる
・直接英語の組み立て方で考えた方が論理的に考えやすいと気がつく
・英語脳になる
多様性とは
"こいつは、いいとも悪いとも言ってこないし、何も質問してこないし、何も問題ない"
これがしゃべらない人に対するアメリカ人の正常な反応で、「だまっていることは空気」みたいな感じだった。わからなければ「わからない!」と伝える必要がある。嬉しかったら「嬉しい!」、ムカついたなら「ムカつく!」と言わなければ相手には伝わらないということを嫌というほど感じた。
彼らは、非常に合理的な人たちで、自分の目で見えているモノを信用する。それはなぜなのかと考えると、生まれ、人種、環境などみんな違うという前提なので、見たり聴いたりして、誰でも受け取りやすいような表現にする必要があるから。非常にローコンテキストだ。日本人のように、直接言わず、言葉と言葉の間にある感情をくみとらせる文化は、とてもハイコンテキストな文化だ。
2000年以上前から日本はずっと日本であり、他国に侵略されて、文化を上書きされた経験もないし、言語もずっと同じ言語だった。対して、アメリカは200年未満の歴史しかない複数の人種が集まってできたという文化背景を肌で感じた。それと同時にわかったことは、日本がいかに特殊な国かということだった。
教え方の違い
僕が一番好きだったのが、先生の教え方だ。「○○しなさい、△△しなさい」ということをまったく言わない。
大枠の課題内容はもちろんオリエンテーションがあるし、生徒のレベルもバラバラなので授業が進むようには導く。技術的なことは教えてくれるが、なにをどういう風に作るかは生徒と対話しながらコーチングしていた。
講評のスタイルも、生徒の作った作品を話題にディスカッションをし、最終話をまとめる。色んな意見がでて、会話としては散らかっている状況を最後には綺麗にまとめていて、ファシリテーション力がとても高かった。先生の意見もたくさん言っているのだが、一方的な感じがまったくしない、みんなで話しているというスタイルがとても好きだった。
また、先生を評価するのは生徒なので、生徒をモチベートする力も要求されている。1年6ヶ月を通して、体育会系っぽいトップダウンな教え方をされた記憶はない。いいところを伸ばそうと、うまくのせる先生ばかりだった。ある授業では、少し課題に対してはみ出したモノを作っても、「プロジェクト」と称して進めさせてくれた先生のオリエンテーションと違う視点や考えがあっても、それを許容して、授業として成り立たせるスキルがとても高かった。
優しくも厳しい街
1年半ほどの滞在だったけれど、ニューヨークがどういう街かときかれたら、優しくて厳しい街と答える。
「お前がどれだけできるかやってごらん、まずはみせてよ」
というスタンスのオーディエンス・環境が多く、チャンスはびっくりするほどその辺に転がっていて、器の広い街だなと思った。日本では絶対会えない方々とも会え、厳しいニューヨーク生活を生き抜いている方々だからこそ、同じ日本人に対してとても助けてくださった。
いただいた言葉は10年以上たった今でもデザイナーとして生きる糧になっている。自分がやりたいことを発信するとそれに反応してご縁がつながるチャンスはたくさんあった。一歩目のアクションをとにかく踏み出す大切だ。
そして、「そのチャンスをものにして上がっていけるか」というところの厳しさがニューヨークにはあった。チャンスを仕事にし、とたんに狭くなる門をくぐり抜けた人たちだけが住める場所なんだなと感じた。
冒頭で、荷物をロストした件も、住所の確認をきちんとしなかったのは、自分の責任だ。どういう結果も自己責任だ。留学後にニューヨークで働いてくればよかったというも、自己責任。後悔はあるが、自分で選んだ選択肢だったので、その結果が10年たった今でも活きていると感じる。
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僕がニューヨークでとある方とお会いしたときに、「デザインの勉強はまあやればいいのだけれど」と前置きした上でいただいたアドバイス。今でも続く宿題となっています。
"デザインをどうやってビジネスにするか、それだけ学んで帰りなさい"
2007年当時はどういうことか、5%もわからなかった。全然学んで帰ってこられなかった。「デザインをどうやってビジネスにするか」この宿題はデザインに関わる人として、これからも僕にとっての宿題です。答えはありません。
2018年となった今、少しでも、誰かの役に立てば嬉しい。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
All photos by Nobuo Suzuki.