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感謝と目的の国
目的の国を実現するためには?
まずは目的の国が何なのかを明らかにしたい。
目的の国
カント倫理学で自然法則に束縛された自然の国に対し、目的自体としての人格をもつ理性的存在者同士が自律的共同体的な道徳法則を通して結合することで、自由の支配する道徳的世界をさす。
なにやら難しい言葉でつらつらと書かれているが、語弊を恐れずに言うならば要は人間が「○○せよ」という道徳法則(定言命法)に従いつつ他者を尊重し合いましょうよということだ。
この他者を手段(もの)として扱わずに目的として扱うことについては以前の記事「資本主義と感謝」で触れた。(以下参照)
今回はその感謝がどう目的の国と関わってくるのかについて論じる。
感謝のタイプ
私は感謝の対象は大きく分けて3つに分かれると考えている。
1つ目は神、仏などの形而上的な存在に対する祈りに近しい感謝。
2つ目はものに対する感謝。
3つ目はことに対する感謝。
それぞれ詳しく述べる。
祈りに近しい感謝
人はしばしばお祈りを捧げるが時としてそのお祈りには感謝も含まれる。例えば初詣。私利私欲の願いでお祈りが終わる人もいるかもしれないが中には今まで無事生きてこられたことの感謝を述べる方もいることだろう。
しかしながらこの感謝は目的の国とはあまり関連性がないためここでは言及を控えることにする。また、初詣に関しては気にかかる部分があるので近い将来また論じたい。
ものに対する感謝
ここで声を大にして言いたいのは人を手段としてみなすということは人をものとしてみなすことと同等であるということだ。
まず、手段の例を挙げてみる。
学校に関する手段を挙げてみると、私の過去の記憶を頼りにするに、試験の点数とはつまるところ進学先の学校に進学するために求められる。つまり試験で点数を取ること自体は目的ではなく、試験で点数を取って進学することが目的なわけだ。ここでは点数を取ることとはあくまで手段なのである。
今度は人間が手段となったときの例は、続けて学校で言うならば、
(試験の場合に限って言うと)教師は生徒の解いた試験を採点するためにいる。生徒にとって教師とは試験を採点してもらう上での手段であり、教師が採点することを目的とするのではない。
教師の仕事をつくるために試験の問題を解く生徒などそうそういないだろう。ここに人格だとかいう不確定な要素はない。それは対象は手段であり、ものであるからだ。この不確定要素が無いという点で手段はものとしてみなせすことができると考える。
無論、ものに対する感謝とはアニミズム的な考え方もあることを忘れてはならない。だがそれもここでは話題がそれてしまうため言及するのは控える。
ことに対する感謝
これが目的の国を実現するうえで大きな効果をもたらす。ことへの感謝。この感謝と人が関連したとき、目的の国で行われることに近しいことになるのではないかと考える。
それは例えば「Aさんが落し物を拾ってくれたこと」への感謝であったり「Bさんが私に贈り物をしてくれたこと」への感謝だったりする。
この「○○してくれた」には必ず主語となる人物がいるわけであり、このことに対する感謝とはいわば人への感謝に直結するのである。なぜなら自分からみた人の人格、人間性と言うのはつまるところ「こと」の集合体だからである。したがってことに対する感謝(人と関連する)は人を目的として尊重することそのものなのだ。というわけで結論はこのようになる。
結論
目的の国を実現するためには人のしてくれたことに感謝せよ。
人を目的として扱うためにはこの「こと」に対する感謝が不可欠である。まずはこの「誰かが何かをしてくれたこと」に対して感謝をすることが目的の国を実現するうえでの一歩になるのだろう。