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窓と人間

窓。窓。窓。
建物には必ず窓がついている。
今日私は近くのカフェにてPCを使って作業をしていた。
目の前にはガラス張りの窓があってそこから外の景色がよく見えた。
しかし、見えるのは外の景色ではなかった。私の眠たげな顔も窓にはしっかりと映っていた。
私は窓に対してつくづく感じることがある。それは私が窓を見る際、私は何を見ているのかということだ。
案ずるに3種類の解答が挙げられる。

①外(屋内または自分がいない側)の景色
②窓
③内(反射による自分側)の景色

これら3つのうち1つを限定して見ることも可能であるし、これら3つを同時に見ることも可能である。
これ以上話すと焦点がどこに合っているかという生物学的な話に向かっていくためここで窓の話をひとまず終えることにする。

では次に話したいのはこの構図を人間に当てはめるとどうなるかと言うことだ。
端的に図式化すると以下のようになる。

窓と人間

ここで突如現れた窓。これは一体何なのかと言うと、自己意識内のフィルターのような役割かつ反射の役割を果たすものである。これをここでは「窓」と呼ぼうではないか。この窓はまず自分が見える世界(内界→外界)を見るときに必ず現出する。しかし、最初にのべた現実世界または物理的世界の窓と異なる点はこの窓を眼で直視することはできないという点である(②)。
加えて先の例で言えば、①に関しては見ている他者や事象そのものが①に当てはまり③に関しては「自己回顧」とあるように自分で自分の事を考える際、この頭に思い浮かぶであろう自分が①に当てはまる。


何が言いたいのか

結局この記事で私が言いたかったこと。
それは「窓を意識せよ
言ってしまえばこの一言に尽きるのであろう。
ところで私は今、この窓の定義がたいへん曖昧で申し訳ないと感じている。なぜ明確な定義をしないのかと問われると、窓の例が多岐に渡りさらにどれも深みを持ち合わせたものであるからだ。
例えば言語。言語も窓の役割をしている。自己回顧も言語によって明確化される。お次は五感。実はよくよく考えるとこれも窓の役割を果たしている。
さらには言ってしまえば「意識自体が窓なのではないか」ということもできる。左様、そもそも意識が存在するから外界を認識できるのであり、自分を認識できるのだ。
このことから「窓」は抽象的な定義をせざるを得ないという結論になってしまったのだ。

話を戻そう。この窓を意識することによってまず、自分の考えが独善的なものである可能性があるということを強く認識できる。さらには自己回顧をする場合もその窓の反射を見ているに過ぎないと考えることでその自己回顧の内容すら独善的なものである可能性があるという結論に至る。
この独りよがりの可能性を排除したいのなら他となるたけ関わらねばならない。しかし忘れてはならないのは他人もこの窓を有しているということだ。

お互いが見合っている際、両者が見ているのはそれぞれの窓を通した景色であるということを、この先も忘れてはならないのだろう。

醜い争いを撲滅するために。
この記事を捧げる。

このような壮大なことを考えながら、カフェで窓に映る眠たげな人物を、コーヒーから立ち上る湯気のようにぼんやりと唯々眺めていた。



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