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なにをもってはじまりとするのか?
現代では盛んに「スタート」「はじまり」という言葉が用いられている。しかし我々はこのはじまりについて十分な考察をしきれていないのではないかとふと考えた。そこで今回はこのはじまりの問題について思索をする。
始まりに明確な境界線は存在するのか?
しばしば人々は「試合が始まった」とか「ではただいまより○○を開始します」など始まりを告げる。この始まった。とは明確に捉えることができるのだろうか?
さらにこの問いに関連した次の問題にも考えてみたい。
そもそも始まりとは存在するのか?
はじまりとは人間以外のものにも適用しうるのだろうか?たとえば物事の始まりなどという言葉があるがそこに真の意味で始まりは存在しているのだろうか?
ここで早速これらの質問を一掃する主張を以下に述べる。
主張
始まりとは人間の意識内で恣意的に決定されるものであり、したがって明確な始まりと言うのは存在しないと言える。
これを嚙み砕いて言うと、例えば先に述べた物事の始まりと言うのは人間が勝手に設定した(変化前と変化後の間に建てられた)区間のある始まりである。スタートゾーンとでも言うべきか。この勝手さが恣意的なものであり、ゾーンであることから明確な始まりは曖昧なものであると言える。
根拠①:言語の問題
私はかつて「言語と時間」という話題に関して思索にふけったことがあるが(以下リンク)
この記事で述べたかったのは「言語は今この瞬間を表すことはできない」ということであった。したがってこれは「はじまり」という言葉にも当てはまる。
例えば「今、始まる」という現在形でも実際にはまだ始まっていないことからそれは未来の始まりを指すのであり、
「始まり」という言葉は既に始まった区間を指すことから過去の始まり(場合によっては未来のはじまり)を指している。
これらのことから始まりというのは明確な時点を指すことはできない。我々が始まりと言う際は時点のことを指しているつもりでも実際には過去もしくは未来のことであり、ないしは区間のことを指してどこかで判断停止を行っているのだ。
根拠②:反論を交えて
考えられる反論としてスポーツなどの試合開始の合図(ホイッスルや笛など)は明確なはじまりではないのか、それは言語ではないではないかという反論が予想されるが、この問いかけをする人に対して私はさらに問いかけたい。「なぜ笛、ホイッスルの合図がはじまりを示すのか」と。
合図がどんな形態をとっていようともあなたがその合図を始まりの合図だと思っているからあなたは合図を受けて何かを始めるのである。この「思っている」というのが判断停止の部分である。
また、結果的にあなたは合図を受けて始まりだと認知するため、根拠①に帰結する。
事実
事実、我々は「物事のはじまり」と聞くと明確な点ではなく区間としてのはじまりを考える。「だいたいこんな風に変化していったよね」という考え方をする。このことからも我々は始まりを明確には捉えることはしていないと言える。
結論
はじまりとは人間が恣意的に決めたものある。
したがって始まりとは時点で存在することはない。
もっとわかりやすく最初の問いに答えるのなら
「はじまりとは人間をもってはじまりとされるのである」
となるであろう。