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解に落つ (全編)


#01 :柊 縁

僕がSと出会ったのは大学のお見合いサークルに参加した時のこと。
「おい、お前童貞だろ?」
初めてSに言われた一言がそれだった。

SはSexyとSexのSを取った。ここでは僕は彼のことをSと呼ぶことにする。

Sは将来、日本人の彼女の作り方を全てパターン化しAIと独自の理論を活用したマッチングアプリを作ることで富豪に成る。だが、当人の女遊びは激しく世間からは冷たい目で見られ、そのうち自分の起業した会社から縁を切ることを余儀なくされる。
だがそれはまた別の話。

まずSは大学に入ると、自分を好んでくれる女性はどのような人なのだろうか?という何とも壮大な問いに仮説を立てて対応した。すると彼なりに一定の解が見つかったらしく、一定数の女性と肉体的関係を結ぶことに成功した。彼は三度の飯よりセックスが好きなのであった。
しばらくすると彼は他人の恋人を見つけるサポートを大学で初め、自らの理論と仮説検証を基にクライアントに「絶対大丈夫だから」と謎の励ましを行い、Sとクライアントが共に目をつけた女性にアタックさせた。そうしてSはA大学のキューピットとしてSNSにもてはやされるようになり、大学にて様々なイベントを展開した。大義名分は日本の少子化に一矢報いるとかよくわからないもので、その実ヤリ目と出会い厨と本気で出会いを求めている人間がイベントに参加することとなった。

僕は初めはそんなものに興味は無かったが、友人に一緒に参加してほしいと誘われたのと、やはり大学生の内に一度はセックスしておきたい、つまりヤリ目に入る不純な動機でイベントに参加することにした。
そんなイベントの主催者Sに言われた一言。
「おい、お前童貞だろ?」
なんだこいつはと思うと同時にこれがあのSかと思った。
彼は半袖に白いハットを被り、ブルーのサングラスをかけていた。あと金髪。
「うん。そうだけど」
「ふふん。喜べ。これから飽きるほどセックスさせてやる」
周りの目も耳も全く意に介する様子は無く気持ちいほどに大きな声でセックスと言うこの男はなんだか異質な感じがした。
「いや、一回でいいよ」
「….お前、変わってるな。俺にはわかる。わかるんだ」
わかるんだともう一度言うとSはどこか別の所に行ってしまった。

イベントはアルコールの入っていない飲み物を片手に行われ、テーブルに6人が座る。因みにここでの人の配置はあらかじめ入力したアンケートを基に運営が配置を行っているらしく、なるべくマッチング率の高い配置にされているそう。
つまりヤリ目はヤリ目同士でという訳なのかもしれない。
だとすると僕はそのグループに属していることになるが......僕のいるグループはみんなおとなしそうな人たちだった。
時間になり全員が揃うと、イベントはスタートする。
まずは自己紹介で、自分の年齢や学年、学部などを紹介する。
その後テーブルの真ん中の方に
「趣味は?」
「好きな漫画は?」
など雑多なお題が記載された紙があり、一人ずつ自分が他人に聞きたいと思ったお題を選ぶ。
基本的にはその選んだお題を基にみんなで談笑する。勿論話は脱線してもいいし、制限時間内に全てのお題を話す必要もない。
ただし、それぞれのテーブルには一人運営側の人間が存在し、その運営の人が司会者となる。自分のテーブルの司会者の腕前は見事なもので全員に話す機会を与えつつ場も盛り上げるという才能の見られる人物であった。
そこから一時間ほど談笑し、イベントは終了する。
イベント終了後、アンケートがあり、気になった個人の名前を入力する。名前を入力された個人には後日通知が届き、自分もその個人の名前を入力していればマッチング成立。入力していなくてもそこで気になり始めたということであれば返信をすることが可能だ。そうでない場合は無視すればよい。

イベント終了後、帰ろうとするとSに話しかけられる。
「なぁ、どうだったよ?」
「うーん。あんまりタイプの人はいなかったな…けど強いて言うなら」
「言うなら?」
「あの運営の子は結構よかったかも」
「おお、沙耶香のことか。けど、あいつ今彼氏いるんじゃなかったかな…」
「ああ、そうか。それは残念だ。でも一応名前は入力しておくよ。さやか......ね」
「なぁさっき思ったんだけどよ。一回だけセックスしたいなら風俗行けよ」
「......お金は払いたくないんだ。高いだろ」
「何円なら行く?」
「…百円なら検討するかもしれない」
「…なんだよそれ(笑)。そうか。お前にとってセックスはその程度なのかwww」
「いや、変に財布の紐が締まっているだけだよ。無駄なことにお金は使いたくない」
「そうか。でもセックスしたくてこのイベントに来てくれたんだろ?いいぜ。タダでやらせてやるよ」
「あのな。僕も誰でもいいという訳じゃないんだ。ちゃんと好きになった人と性的関係を持ちたい」
「おぉ、急にまともなこと言い出した」
「それで......部屋でいい感じになって.....自分が理性を保てるかどうかテストをしてみたい」
「.....は?」
「いや、人生セックスだけじゃないだろってことを証明するためにも、自分がそこで耐えられるかどうかも試してみたいというか…いや勿論セックスもしたいんだよ。したいんだけど.....ごめんやっぱ今日はしないでおこう。明日に取っておこうみたいな」
「お前.....もしかしたら.....」
「.....?」
「俺よりクズかもしれないな.....」

それから僕とSは親しくなった。
Sが運営側に来い。金は出す。と言われ、バイトも飽きて丁度止めていたのでやってみることにした。
最初はイベント会場の設営を手伝い、少しずつ司会者も行うことになった。拙かった司会の技術も少しずつ上達していき、アンケートでの「司会の評価」も高い評価を得られるほどになった。
という僕の成長物語は置いておこう。ここではSの会話を書き留めておきたい。

あと、Sはいつも僕のことを「お前」と呼ぶ。Sにとって僕は「お前」なのだ。

いつものようにSの主催するイベントの手伝いをした後、彼と一緒に歩いて帰る。
「なぁ、お前好きな女性のタイプとかあんの?」
「あのなぁ、一応言っておくが僕は君みたいにいつも不埒なことを考えているわけじゃない」
「わかってるって。なら尚更いいじゃねぇか。普段こんなこと話さないってことだろ?人生に刺激はあった方がいいもんだぜ」
「そうだな.....強いて言うなら、男の子みたいな女の人が好きかな」
「おお…」
「でもな…一般的に言われる好きとはすこし違う気がする。好きは好きでも抱く感情が異なるんだ。僕が好意を抱く女性に対する感情は大きく2つあって、1つは性的な感情。これは君が女性に抱く感情と近しいものだと思う。対象者は自分の女性という観念に符合する人。それをタイプと人は呼ぶのかもしれないけど。まぁ、簡単に言うならこの人と肉体的関係を結んでみたいっていう感情かな。でも僕はさっき言った男の子みたいな女の人、所謂ボーイッシュと分類される人に対して性的な感情を抱くことはあまりない」
「それはどんな感情なんだ?」
「何だろうな…うまく言えないけど.....単純に一緒に居たいって思う.....ファンが抱く心情と酷似していて、さっきの肉体的充足ではなく精神的充足をより求めている感じかな.....手はつなぎたいけど.....」
「その精神的充足ってのは男じゃだめなのか?」
「ごくまれにこの人ならいいなと思うことがあった。でもこの現実ではそれは滅多にない。けど、二次元のキャラクターに対してこの感情を抱くことは少なくとも現実よりある」
「ふ~ん。今度そのキャラ教えてくれ。…けど安心したよ。お前にもちゃんと性欲があるんだな」
「…別に安心しなくてもいいとは思うけど。僕は性欲の根源は神に決められたからだと思うんだ。ここでいう神は人間の人体の構造を設計した『何か』だ。従って神は実体を持たない。性欲だけじゃない。人が抱く様々な欲望は得てして際限がなく、死ぬまで永久に抱いては行為し満足し、抱いては行為し満足し、という反復作業を行う」
「それでお前、まだ童貞卒業してないだろ」
「何でその話になるんだよ。ちょっと深いこと言ってただろ、今」
「肉体的充足?をさせたいだろ?ほら、司会者もやってて通知も何件も来てるだろ?」

事実、僕はグループの司会者を行い、アプローチが何件か来ていた。
(本来、グループの司会者以外の人を入力してほしいのだが…)

「…僕は自分で性欲を処理できるならそれでいいと思うんだ。そうすれば誰も傷つけることはない」
Sが絶句する。
「お前…今さっき抜いた?」
「抜いてないよ!」
僕は溜息をつく。
「僕が思うに人間が悩む原因は大抵3つ。金か時間か関係だ。そしてこの『関係』が長きに渡って人間を苦しめることが多い。.....恋に関係はつきものだ。恋をするということは関係を持つことを望むということだ。だけど、当たり前のことかもしれないけど出会いと別れは表裏一体だ。人間は自己内において自分が見たい世界しか見ないから、出会いに着目することが殆どではあるんだけど.....」
Sが輝いた眼でこちらを見ているのに気づいたのは彼がこの後言葉を発してからだった。
「いい.....いいねぇお前。なぁ酒飲もうぜ?お前の核心が見たい」
「だめだ。僕はまだ19だ」
「..........誕生日いつだよ」
「9月19日」
「..........明日じゃん!じゃあ明日飲もう!金は俺が出す。ただ飲みさせてやる」
「待っ――」
「じゃあ!また明日な!」

そう言って僕はSと明日飲むことになった。
誕生日を独りで過ごすよりはましだろうか?

「お前自分のことかっこいいって思ってるだろ」
ここはSの行きつけだと言う飲み屋だ。雰囲気はドラマで見たような感じの飲み屋で僕らは座敷に面と向かって座っている。
「…まぁ、大学にいる大抵の人間よりはかっこいいと…思ってるよ」
後で思ったがこの時の僕は既に完全に酔いが回っていた。
「やっぱりな!お前なんかこう…自信に溢れたっつーの?優越感ある顔してるもんな」
「…うるさい」
「自分だけは違うみたいな表情してるんだよ」
「他人に僕の考えを押し付けるつもりはない…『俺ってかっこいいよね』とは絶対言わないよ」
「でも本当は言ってほしんだろ?」
「そりゃ…まぁ…僕だって男だし…」
「いいじゃねぇか押し付ければ。強引な男が好きっていうクライアントもいるんだぜ?」
「だめだ..........傷つけてしまうかもしれない..........」
「それ何なんだよ..........口癖みたいに言うけどよ…そんなやつがヤリ目でイベントに来るなよ」
「..........好奇心は止められない」
「わっかんねぇな…全然わかんねぇわ」
「理解する必要はない。それに矛盾を抱えていることは僕にもわかっている」
「いやいや、褒めてるんだぜ。認めてるんだぜ俺は。お前のことをよ」
「..........」
Sはビールを飲んでから言う。
「なぁ、お前は自分のことが好きか?」
「..........好きだよ」
「仮にだ。仮に自分が他者として、お前の女性版ドッペルゲンガーが存在していたとしたらよ、お前はその子とセックスしたいって思うか?」
変な質問だと思う気力もなく僕は真面目に答えてしまった。
「……したいと思うと思う。僕はその子のことを理解しているつもりだから」
「まじか。でもセックスしたいってことはだいぶ前に言ってた肉体的充足の欲望になるわけか」
そんな前の話よく憶えてるな..........
僕はSに思わず感心してしまう。
「ああ。精神的充足はおそらく満たせないだろう。だって自分だからな。全く同じ自分がいても同じことを思うんだから居ても仕方ないだろ」
「なるほどな.........」
「反対に僕はこの世界が嫌いだ.........というか人間が嫌いだ」
「お前も人間なのに?あと俺のことも嫌いなのか?」
「あぁそうだ。人間なのにだよ。けど、君のことが嫌いだという意味ではない。人間と言う概念自体が嫌いなんだ。男はクズで女もクズだ。『幸せになってほしい』だと?それじゃダメなんだよ。一緒に幸せにならなきゃいけないんだよ。何自分は幸せにならなくてもいいって被害者ぶることに優越感感じてるんだよ。『頑張って』も同じだよ。言うは易しだ。応援する側は楽でいいよなぁ。自分が主人公でないことに絶望を感じておきながら他人を主人公にさせるような行動をするなってんだよ」
「…お前今全人類を敵に回してるぞ。てかお前口悪いんだな。酒が入る前は純情そうなボーイだったのによ」
「あぁ、そうだよ。この口の悪さで何度も人を傷付けてる。だからタフじゃなさそうな人にはこう言うようにしてる。『僕は口が悪いから仲良くならない方がいいよ』って。一番怖いのは無意識のうちに人を傷付けてしまうことだからね。........誰しも心の内に獣を飼っているんだ。普段はみんなそれを曝け出すことはしない。くだらないプライドが邪魔をするんだ。でもそれは世の中の秩序を守るためには仕方ないことなのかもしれない。人間は秩序が大好きだから。........僕はね。見たいんだよ。もっとドロドロしたものを、人間の核心を見ていたいんだよ」
「同じだ........」
「…え?」
長い沈黙が流れる。
するとSが口を開く。
「なぁ酔った勢いでヤリに行こうぜ。いつだって世界を牽引してきたのはエロなんだよ」
「何を訳のわからないことを........やらないよ。相手を傷つけてしまうかもしれない」
「何だよつれねぇな…行こうぜ」
「嫌だ。そこまで理性を失ってはいない。本当に傷つけたくないんだ…」
「嘘だな…本当は傷つけたいんだろ?他人を滅茶苦茶にしたいんだろ?」
「あぁ…やめろ…」
「俺にはわかる..........わかるぞ…」
「僕は…」
突如吐き気が込み上げる。
トイレに向かう。

戻るとS言う。
「なんか醒めちまったよ。まぁまた飲もうぜ。じゃあな」
そう告げるとSはどこかに行ってしまった。
お代を払って飲み屋を出ようとするとすでにSが自分の分まで支払いを済ませていた。

ぼーっとする頭を抱えながら、僕は何とか家に帰り玄関で寝た。
あまり生きた心地がしない。夢を見ているみたいだ........


それからというもの、僕は大学を卒業までSのイベントを支え続け、Sと一緒にまた何度か飲みに行くこともあった。その度に僕の口は悪くなった。

Sに「俺と一緒に来ないか」と、つまり彼の会社で働くことを提示された訳だが、僕はその時のSとの関係値を非常に気に入っていたこともあり、断った。僕はとある出版社で働くことにした。
Sが自分の会社から追い出されたとの知らせを聞くと、なんだか奴らしいなと思ってしまった。
やはり彼は特筆に値する人間であると思う。
そしてここに記したのはSとの色褪せない稀有な想い出だ。

#02 :笹緑 華菜

私が外を歩くとき、私はどんな風に見られているのだろう。
私は常にそれを気にしている。
私は「この人とは継続的な関係が続くだろうな」と思うとその人に必ずこう聞く。
「ねぇ、私ってどんな風に見える?」
大抵は
「どうって........」
と言われ回答に困ったような表情や他人に助けを求めるような表情をされる。
その後少し待つと
「う~ん。真面目そう」
と言われたり
「ちょっと暗そうに見える」
「ちゃんと努力してそう」
「几帳面な感じ」
と言われる。
それで、私は視力が悪いので眼鏡かコンタクトを付けているのだけれど、眼鏡の時は大抵真面目ベースの答えが返ってくる。
実験のために思い切って髪を茶色に染めて眼鏡ではなくコンタクトをして同じ質問をすると
「明るそう」
「なんかあっても最終的には笑って乗り越えてそう」
「人生楽しんでそう」
と明るめな回答が返ってきた。
やはり人の印象は見た目で決まるのだとこの質問を繰り返す度に思う。
実験をするまでもなかったかもしれない。

「ねぇ、私ってどんな風に見える?」
この質問をするのは私の価値観に由来する。
高校を卒業するまでは私は常に眼鏡をかけていた。
そしてテストや受験が差し迫る度に何度も言われた。
「華菜ちゃんは真面目だから勉強もできて羨ましい」
なぜ「真面目→勉強ができる」という命題が成立するのかは半分理解できて半分理解できなかったが私は常に「真面目」な人間だと思われていた。だから私は真面目な人間でいた。
私のキャラを構築するのは私ではなく常に他人だった。
私は人に真面目そうと言われる度に
「ああそうなのか」
と思い、
「ならそういう私でいよう」
と行動に移す。

フィクションでもいい。私は誰かにとっての「笹緑 華菜」でいたい。
私は人が見たい私でいたい。
それが私の生きる解。

大学が始まってからというもの、私は一人暮らしを始めて、家族と離れ、今まで以上に一人でいることが多くなった。
中学まではおそらく親しい友人がいたのだけれど、高校で離れてしまい、高校では友人と言えるほどの親密な関係を築くことができた人はいなかった。
(とはいえその親しい友人とはたまに休み時間に喋りたまに放課後一緒に帰るたまに遊ぶくらいでおそらくその子にとって私は四、五番目に遊ぶ友達名のではないかと思う)
高校での三年間、私は授業の合間の休み時間に大抵は真面目でいるために勉強をするか本を読んでいた。
よって一人で過ごすことに対しては何の抵抗も無かった。

大学でもサークルや部活動は特に興味がなかったため入らず、夏休みに入りいよいよ9月にさしかかろうとするこの頃まで私と親しい関係値まで上り詰めた人はいない。

そんな私が友達が欲しいと思うようになったのは最近の事である。このままでは大学生活が何もないまま終わってしまうことを危惧してのことだった。
その時丁度、自分の通う大学で友達や恋人を作ることを目的としたイベントが開催されるという話を大学にて渡されたチラシから聞いた。
チラシの色や字の大きさから恋の方を押し出している感じがしなくもないが、小さく「友達をつくりたいという方も大歓迎です」と書いてあることから私はこの文章を信じて参加することを決意した。

イベントは6人と一人の司会者を交えた1グループでの談笑で、自己紹介や出されたお題について楽しく話すという内容。
司会者の人は「えん」と書かれたネームタグを首からぶら下げていた。
(中の紙に自分が呼ばれたいニックネームなどを書くシステム。私はただ「かな」と書いた)
彼は人の目をよくみて話す人で話の盛り上げ方や振り方が上手だった。
私と同じグループの5人の私に対する印象はこんな感じ。
「なんか」と何度も言う女
既に私の隣の女の子に目をつけているであろう男
他のグループの男に目をつけているその隣の女(彼女は顔を傾けて髪を揺らす癖がある)
何か作業をしていないとまともに話すことのできない男(お題の書かれたカードをしきりに触っていた)
自分の前髪が気になる男
私は人間観察が好きだ。ショッピングモールを歩いていてこの人とこの人の関係地はどうだとか手のつなぎ方はどうだとかどんな癖がこの人にはあるんだろうとかそんなところばかり見ている。

やがてイベントは終了する。
私に通知は来なかった。
…...私と友達になれそうな人はいなかった。
多分なっても長くは続かない。いや、基本的には長くは続かないのだけれど、なっても二度と会うことのない友達をつくってしまいそうでそれなら作らない方がましだと思ったのだ。
「私ってどんな風に見えますか?」
聞いてみたかった。だがそれを聞いたところで他の人が困惑するのは目に見えている。なのでしなかった。
「友達か…」
何でも話せる人を探すのは難しい。それができるのは今のところ自分しかいない。
誰でもいいかと言われると、そういうわけでもない。相性とは何なのだろうか。
なぜショッピングモールに何らかの関係をもった2人以上の人たちがたくさんいるのかが分からない。あの人たちはどのような手法を通してあの場所に存在していたのだろう。

数日後、私は大学の帰りに自販機を眺めていた。
この自販機…水が売り切れている。
値段と目的の2つの条件をどちらも満たすのは水なのだ。
そんな謎の分析を開始しようとしたところふいに声を掛けられる。
「あの…かなさんですよね…?」
私のことを名前で呼ぶ人物などここしばらくの間存在しなかったが誰だろうと思い声の方に目をやる。
あ、この人は確か…
「えんさん…でしたっけ?」
特徴的な名前だからよく覚えていた。
「そうです。ご縁と書いてえんです。何か飲み物を買うんですか?夕方とはいえ、まだ暑いですよね…」
「あぁ、いや、見ていただけです」
「見ていた?自販機を?」
「はい。なぜ水だけが売り切れているのかの分析をしようとしていました」
「なるほど。それは面白いですね」
そういって縁さんは自販機を眺めた。
…面白い?
優しそうな整った顔立ちをしている。でもこの人はおそらく何かを抱えている。
以前この人と話している時にそう思った。
「あの」
私は縁さんに言う。
「この後時間ありますか?」
「今日の手伝い…あぁイベントのことです。それがもう終わったのでこれから家に帰るつもりでした」
この人なら........
「なら、私とすこし話してくれませんか?」
「いいですよ。ここで立ち話するのも何なので、どこかお店いきましょうか」
「はい」
『話してくれませんか』と言った後に私はなんだか赤面してしまった。
勇気を出した後は恥をかいたと思うことが多い。

私たちは近くのファミレスに向かった。
縁さんはビーフハンバーグとライスを頼み、私はハンバーグステーキを頼んだ。
ハンバーグとハンバーグステーキはどう違うのだろう。鉄板に乗ってくるかそうではないかの違いなのだろうか。
「かなさんはいまいくつなんですか?」
縁さんが聞いてきた。
「18です」
「あぁ、そっか。まだ大学一年生でしたね」
「そうです。なので敬語使わなくていいですよ」
「そうですね........なら言葉に甘えて敬語はやめようかな。敬語使うと何か疲れるよね........それで、えっと.......たしかかなさんがイベントに来た理由は........」
「友達をつくりたい」
私がそう言うと縁さんが頷く。
「そうそう。珍しかったから覚えてたよ。それで、友達はできたの?」
「いや、できませんでした.......何か自分に合う人がいなかったというか.......」
「そっか…」
「縁さん... 司会、上手でしたね」
「あぁ、まぁもう何回もやってるからね」
「そもそも何で縁さんは司会というかあのイベントのスタッフになったんですか?」
縁さんの箸の動きがわずかに止まる。
「それは僕もあのイベントに参加して、主催者の人に目をつけられてね......」
「主催者?」
「ほら、この人」
そういって縁さんは写真を見せてきた。
陽気なアロハシャツ。白いハット。金髪。サングラス。元気そうな人。
「なるほど。というか最初は縁さんもあのイベントの参加者側だったんですね。縁さんは何で参加したんですか?」
縁さんの顔が少し赤くなった気がするのは気のせいだろうか。
「そ…それはその......まぁ彼女をつくりたかったから......」
半分本当で半分嘘な気がする。
縁さんも私もほとんど同時に食事を食べ終わる。
私は水を一口飲んでから聞く。
「......あの縁さん。私ってどんな風に見えますか?」
「……?」
「真面目そうですか?明るそうですか?」
「かなさんに対して抱く印象か......う~ん。わからないなぁ」
え…?
「何も…思わないんですか?」
「そうだなぁ。何も思わないかな。いや、別にかなさんだからって訳じゃ勿論無くて、誰に対しても何も多分何も思わない気がする」
「なんでですか?本当に何も思わないんですか?」
「なんでだろうな......そんなに人に興味が無いのかもしれない…」
「人に興味がない?」
「うん。僕は…人間があまり好きじゃないから。それより、どうしてそんなことを僕に聞いたの?」
「いや、その、私はみんなが見たいと思う私でいたくて…」
「みんなが見たい私?」
縁さんに私のこれまでに抱いた価値観を話した。
「ふ~ん。何でそう思うの?」
「それは…そうした方がいいと思うからなんですけど…期待を裏切らない自分でいたいんです」
「かなさんは期待されたいの?」
「いえ。できれば期待されたくはないですね。面倒なので。でも人は他人に対して何らかの期待を抱いてしまうものだと思いますよ。普通は」
「普通は…そうかもね」
「縁さんはどうして人に興味がないんですか?」
「なんでだろうね......何かさ、疲れちゃうんだよ。人といると。どんな人でもずっとは一緒にいられないっていうかさ。多分生きるのが下手なんだろうね。僕は」
「でも、彼女をつくりたかったんですよね?少なくとも前までは」
「…まぁそうだけど。それは単なる好奇心ってやつで…その......」
縁さんの髪はサラサラしていて、私と会ってから一度もスマホを見ていない。
話すときには目を割と合わせる方で、何か言いづらいことがあると目を逸らす。
そして今、また目を逸らした。
「誰にも言いませんから、言ってみてください」
「いやまぁ、恥ずかしがることでもないと思うんだけど、まだ話して間もないかなさんに言うのはって思っちゃって......まぁその、女性と所謂みだらな行為をしてみたかったんだ」
「それも好奇心ですか?」
「好奇心8割性欲2割」
「ふふっ。縁さんは面白い人ですね」
「…よく言われる。でもかなさんの『人が見たい世界を体現する行為』も興味深いし、素敵だと思うよ」
なぜかはわからなかったが、縁さんとは珍しく話が弾む。なんというか、この人とは何でも話せるような気がする。こういうのを聞き上手と言うのだろうか。
「この際だから何でも聞いていいですか?」
「うん。いいよ」
「例えばですよ。例えば私と縁さんが恋人関係になったとして。縁さんは私と肉体的関係を結びたいと思いますか?」
縁さんは少し考えてから言う。
「う~ん。そうだな。最終的には思うと思う。かなさんはどっちも満たしうるからね」
「どっちも?」
「あ。う~んと、好意を持った相手に対して求めることってかなりざっくりと分けて2つに分けられて、1つは精神的充足。これは一緒に居たいとか、この人なら一緒に居られるとかいったもの。それで、かなさんは僕の女性という観念を満たす容姿をしているから多分最終的にはどちらも満たせる人だと思う」
「なるほど。因みに縁さんって恋愛的な好みというか好きな女性のタイプってあるんですか?」
「男の子みたいな女の人」
「へぇー。そうなんですね」
気づけば私はニヤニヤとしていた。
「…でもさっき話してた精神的充足とはまた違うものを求めてるっていうか…精神的に満たしてくれることには変わりないんだけど…何て言うんだろうな…透き通るような気持になるんだ」
「ふ~ん。早く見つかるといいですね。もしそんな子を見つけたら紹介しますよ」
「それは本当にありがたい」
縁さんは水を飲み終えると言う。
「かなさんって生きてて辛いって思うことある?」
「そりゃ、ありますよ。私、ほとんど一人で過ごしてましたからこうやって縁さんみたいな人と話せるのはすごく楽しいです。まぁほどほどがちょうどいいんでしょうけどね…縁さんは?」
「そりゃあ、ずっと辛いよ」
「…まぁでも誰でもそうですよね。みんな何かに辛さや苦しさを感じて気晴らしをするんですから」
「…くだらない」
「…そうかもしれませんし、私もそう思いますよ。でも仕方ないですよ。それくらいしかすることがないんですから」
「…そろそろ出ようか。話に付き合ってくれてありがとう。かなさんは珍しく話しやすい人みたいだ」
「こちらこそありがとうございました」
「自分でよければまた暇なときいつでも呼んでよ」
「え?」
「友達として、ね」
そういって縁さんと私は店を出て別れた。
垢抜けた人というか、捉えどころがないというか、とても話しやすい人だったのだけれどよくわからない人でもあった。

でも、友達ができて本当に良かった。
今宵は夏の終わりを告げる涼しい風が吹いていた。

#03 :佐藤 瑠波

「佐藤さんって男の子っぽいよね」
これまでの人生で何百回と言われるこの一言。
友達に、出会った人に。
僕はいつも曖昧な返答をしてしまう。
男の子でいたいと思ったことは無い。
僕はただかっこいい自分でいたいだけなんだ。
女とか男とかどっちでもよくない?

僕の家族は…お母さんはちょっとまだ僕のことが分からないみたい。小さい時からたくさん迷惑をかけてきた。小さいときお母さんは僕がかっこいい車のおもちゃで遊んでいたり青のランドセルを買いたいとせがむと「どうしてあなたはこんなものが好きなの?女の子なのに」と言われた。逆にお父さんは僕のそういったことにそれほど関心がなく「別に好きにしたらいいんじゃないか」といつもお母さんに言っていた。それが原因で喧嘩になってしまうことも時々あってそのとき僕はいつも泣いて二人に謝っていた。それでそんな僕の姿を見て二人は正気に戻り仲直りするというのがいつもの流れになっていた。

中学校ではスカートを穿くのがどうしても嫌だった。
だから男子と同じ制服を着ていた。
「目立ちたいだけでしょ」
「佐藤さんってなんで男子の制服着てるの?」
僕が友達と話している時、誰かのささやき声が聞こえた。きっと僕だけが女子と違う制服を着ていたからそう言われたんだろう。じゃあ彼らは目立ちたかったらスカートを穿くんだろうか?僕はこの時から人の視線を気にするようになってしまった。

高校からは制服のない私服が基本の高校にしたからもう服装でとやかく言われることは無くなった。それでも周りには制服に憧れる子もいたから制服は彼女らにとって特別な意味をもっているんだろうと思った。

大学ではもっと自由だった。高校では時々性別を尋ねられることがあったけど、そんな機会はほとんど無くなり、あっても健康診断やアンケート調査くらいになった。
そうしている間に長い夏休みが終わり、また面白くない講義が始まった。
でも悪いことばかりでもなく、いいこともあった。
同じ講義を取っていた人と友達になれたのだ。
その講義は他の講義と違い珍しくグループワークが結構あり、偶然そのグループで一緒になったとある女の子と仲良くなった。
その子の名前は「かな」
何と言うかちょっと不思議な子で「私ってどんなふうに見える?」って大体2週間に1回は聞いてくる。別にそれを聞かれることは全然嫌じゃないんだけど毎回どう答えたらいいか少し迷ってそれでも印象通り「優しそう」と答えると「わかった。そうする」と言われる。
細かいことはよくわからないけどかなは「みんなが見たいと思う私」でいたいらしい。なんだそりゃ。
けど、そんなことを何回か聞いてくるものだから何となく僕もどう思われてるのか気になって、かなの家に遊びに行ったとき(僕たちは何回かお互いの家に行き来していた)に
「僕って女の子か男の子どっちだと思う?」と普段ならというか、一度もしたことない質問をかなにすると
『何言ってるの』とでも言いたげな顔で
「女の子でしょ」と言われた。

大学では男の人にため口で話されることが多く女の人に敬語で話されることが多かった。それもあってか何となく人と仲良くなりづらくて友達もまだできていなかった。でもかなは違った。僕の年齢を尋ね、同世代だとわかると彼女は敬語を使わなくなった。それに何となく喋るときの距離が他の子より近い気がした。だから僕はさっきの質問をした。もしかしたらかなはと思ったけど案の定だった。
「いつから気付いていたの?」と聞くと…
「ん?最初からそう思っていたんだけど…(ちがった…?)」と言われた。

そういえばかなは人間観察が好きなんだと言っていた。
「からだっていうのは個性でさ。一人一人顔が違うわけじゃん?当たり前かもしれないけど。それでこの人にはどんな癖があるのかなぁとかどんな歩き方をするのかなぁとかどんな話し方するのかなぁとかどんな話をするのかなぁとかたくさん色んなことを考えられるんだよ。そいうことを妄想するのが私は好きなんだ」

となるとかなは僕の世間一般で言うところの男の子っぽい服装や髪型を見ても男だとは思わなかったことになる。かなの人間観察力、恐るべし。

どういう話のいきさつだったかは忘れたけどある時、
「僕はかっこよく見られたいんだ」
とかなに告げると
「そっか。じゃあそういう風に見る」と言われた。
それ以来かなは僕と会うと「その服かっこいい」とか「髪切った?いいね」
と言ってくれるようになった。毎回言う訳じゃないから多分気を遣われてはいない。というかかなに気を遣うという考えは存在しない気がする。
時々彼女が何を考えているのかわからなくなることはあるけど、それでも僕のことを一人の人間として見てくれる稀有な存在には変わりない。
今度は僕の部屋にかなが遊びに来た時、
「そういえばさ、最近男の子みたいな女の子が好きっていう人?先輩?に会ったんだけどさ。興味ある?」
「…誰?それ?」
「1コ上の人なんだけどさぁ。…ん、ほらこの人」
そう言うとかなはケータイに表示されたインスタの画面をこちらに向ける。
え。
「カッコいい…」
髪がサラサラしてそうな人の横顔が海を背景に映っていた。
え。ちょっと待ってほんとにかっこいい…
「興味ある…あ…会ってみたい」
そういうとかなはニヤニヤし始めた。
「お、いいねぇ。えんっていう名前の人なんだけどさ。もしかしたら瑠波との出会いで世界に希望を抱いちゃうかもね~。人って思ってるよりもずっと単純だから」
「何その人…病んでるの?」
「あぁ、いや、そういう訳じゃないんだけど…まぁ会ったらわかるよ。面白い人だから」
「…さっきからなんでニヤニヤしてるの?」
「いやぁ~縁さんのあたふたする顔が目に浮かんできてさぁ…」
「かなってちょっとSっ気なところあるよね…」
「え?そう?」

多くの人は僕と距離を取る。
多くの人は僕のことを気遣う。
多くの人は僕に「わかるよ」とか「つらかったよね」とか言う。
僕はこれまでも、この先もどうするのが正解なのか、どう生きていくのが最善なのかはわからない。

それでも
それでも僕は。
僕はただかっこいい自分でいたいんだ。

#04 :内田 充

俺には、何もない。
突出した才能も、能力も、
輝かしい功績も。
何もない。

人生は退屈だ。
今現在大学2年に至るまで、親友も恋人も1人としてできたことはなかった。暇な時間は全て勉強に費やしてきた。そこで得たものは大学入学の切符だけで、他に得たと感じたものは特になかった。
大学に入って一か月が経つと、ここでは自分の退屈を消失させてくれるようなものは無いということを悟り、頭を切り替えて外部に働きかける、つまりインターンに行きまくることにした。IT系のベンチャーや大手企業に行っては主に営業の手伝いそれからパソコンで作業をした。しかしインターン生に任せてもらえる仕事はどれも簡単な仕事ばかりで、責任感も薄かった。無論学べることはたくさんあったのだが、何というか自分にとっては終わってみると遊びでしかなかった。やがてあまりの単純な反復作業に嫌気がさし、インターンに行きまくることを2年生の11月で止めた。

「つまんねぇな」
気づけばそう呟いていた。
振り返っても俺の人生は何も面白くない、ごく平凡な人間の人生。
だが、人生の質とは一体、何で決まるのだろうか?
ひとまず俺の感覚から言って、何かに所属するということは必ずしも人生の質を担保するものでは無い。当たり前かもしれないがその所属先でどんなことをするかの方がよっぽど大切だ。
あとはやっぱり…
「特別な関係か…」
家族、親友、友人…幸せを語る者は大抵このどれかの関係が充実している人間だ。
これまでに親友と呼べるほどの関係になった人はいないし、恋人なんて尚更いない。家族、というか家の両親は良くも悪くも放任主義で考えを押し付けることは無かったように思う。客観的に見ても「良好な」家族なのだと思う。だが、実家を離れ一人暮らしをしている今、家族と会うのは年に数回で家族といない時間が格段に増えた。それに家族と一緒に居るとは言ってもそれはただ単に実家に居るときのことを意味するのであって四六時中コミュニケーションを取ることを意味している訳ではない。なのでいずれにせよ家族と過ごした時間は短い。

まぁつまり言いたいのはこれまでの俺の人生は退屈だったということに限る。
その退屈さを紛らわすために勉強をしていたが勉強はいつだって退屈だった。まだ読書の方がマシだ。
と、人生の質について思考を巡らせている間に講義が終わった。こんなに中身のない講義をよく毎週180分もできるなぁと感心してしまう。失礼。厳密にいえば中身はあるのだが、ただ教員がペラペラしゃべることに講義の無意味さを感じたのだった。資料を見れば大抵のことはわかるので、講義時間を短縮してほしいものだ。まぁ教員側にも色々あるのだろうが。

つまらない。嗚呼つまらない。
最早そこそこの自分がこの世を楽しむことはできないのだろうか?
俺の人生は何のピークも迎えずにこのまま終わるのだろうか?
これほど主観を憎むことがあっただろうか?

ここA大学にはこれでもかというほどカップルが多くいる。
噂には聞いたが構成員がA大学生中心からなるチームがありそのチームが友人や恋人(主に恋人)をつくるためのイベントの運営を大学から始め、今では広く地域で行っているらしい。
俺も構内を歩いている時にチラシをもらい、行こうかとは考えたが、仕事ではない人付き合いをするのに抵抗感を感じ、応募せずにいた。
午後の講義が終わった後、図書館で昼寝と読書をして、一旦家に帰ってから近くのファミレスに向かった。
俺はいつも通り最も安いハンバーグ定食を頼んだ。

俺が食事を取り始めると、見覚えのある2人が入ってきた。
1人は多分俺と同じ学部。もう一人は同じ学部ではないが、先の1人とよく一緒にいるところを見かけるので見覚えがあった。
「…!」
こっちに来る…!目を食事に向け口に運ぶ。彼らは俺の後ろの席に来た。
「かなさんから連絡あった?」
同じ学部の人がもう一人の方に尋ねる。
「『今日は図書館で本を読みたい気分なので二人で楽しみなされ』ってきてるよ」
「何か前にも聞いた気がするけどなぁ、それ。気を遣ってるのかな?」
「いやぁ、かなに気を遣うとかって概念は無い気がするけど…」
「ははっ。たしかにそうかも。じゃあ本当に本が読みたいだけか」
「縁君は何頼む?」
「僕はいつも通りビーフハンバーグ定食にしようかな。瑠波は?」
「僕は…う~ん…この日替わりディナーにするよ」
「今日は…というかいつも奢るから遠慮しないで食べてね」
「ええ、悪いよ。毎回…」
「いいんだよ。どうせお金は滅多に使わないし。イベントの手伝いで結構もらえてるし」
「…一応言っておくけど、お金目当てで縁君と付き合ってる訳じゃないからね」
「ははっ。それ前から言ってなかったっけ?勿論わかってるよ。でもこうさせてほしいんだ。プレゼントみたいなもんさ」
……『付き合ってる』?
俺は2人のことを男同士の友達と勘違いしていたがどうやらそれは違ったみたいだ。
瑠波と呼ばれた方は声からしておそらく女性。つまり二人はカップルの可能性が高い。
……世の中は明るい。もう俺はいらないのかもしれない。
そんな悲しみに暮れつつも、俺は二人のことが、二人がどういう人間なのかが気になり始めていた。
「お待たせしました。ビーフハンバーグ定食と…こちら日替わりディナーです。鉄板熱いのでお気を付けくださいっ」
考え事をしている間に2人は食事を始めていた。
「そういえば、次に美容院行ったら髪を染めようと思ってるんだけどさ」
「何色にするの?」
「ちょっと明るい茶色にしようかと」
「いいね!絶対に合うよ。いまでも十分にあってるけど。瑠波はどのくらいの頻度で髪を切りに行くの?」
「大体1か月に一回かな」
「なるほど。じゃあその度に僕はかっこかわいくなった瑠波を見れるってわけだね。茶髪の瑠波もかっこよさそう」
「好きなユーチューバーの人が茶髪だったからさ」
「そっか」
話が一区切りしたのか、ここで少し間が空いた。しかし二人の間には気まずさといったものはなくその空白さえも二人の時間として甘受している雰囲気がそこにはあった。
もう俺はいらない…よな。
瑠波と呼ばれていた人が話し出す。
「縁君は将来どうするのかとか考えたりしてるの?」
「まぁ、そんなにはっきりとは考えてないけど…本に関する仕事ができたらとは思ってるよ。本が好きだから」
「へぇ、そうなんだ。一応考えてたんだね…」
「何?どうしたの急に?」
「いや、周りの子が『3,4年になったらもう就活だね~』みたいなことを言ってて、それまでにどんな仕事に就きたいのか考えなきゃいけないのかなって」
「…瑠波。伝えておきたいんだけど、焦って考える必要はないと思うよ。あと余計なことを言っておくとやりたいことを無理に探す必要もないと思うんだ。周りの人がよく『やりたいことをまず探そう』みたいなことを言うけど労働って時間を取られるから身体的あるいは精神的苦痛を少なからず伴うんだよ。つまり労働とは概して苦痛なものなんだ。それなのにその労働に対してやりがいを求めて就活するってのは矛盾してると思うんだよね」
「縁君は本に関係する仕事にやりがいとか求めてないってこと?」
「そうだね。興味のない仕事をやるよりかは本についての理解を深められる仕事がいいと思ったからっていう感じかな」
「なるほど。じゃあやりたいことがある人はそれを仕事にしない方がいいってこと?」
「そうとも限らない。例えば自動車が好きな人だったら自動車会社の入りたい部署に行けばいいし、勉強を教えるのがたまらなく好きなら高校の先生になればいい。そんな単純ではないかもしれないけど、こういう仕事に直結しやすいやりたいことなら仕事にしてもいいと思う。けど、例えば『たくさん読書していたい』とか『何もしたくない』とかって、まず仕事、つまり行動をしてお金をもらえるかっていうとそんなに簡単じゃない。だからこういう人たちは仕事にしない方がいい。なぜなら仕事にするのが最初のうちは難しいから。そしてこういう人たちがやりたいことが無いとみなされるきらいもあるよね」
「やりたいことが特にない人ってどうすればいいの?」
「まぁ自分の出身大学から卒業した人が就職してる企業の中から社会的な評価があって最も社員の口コミ評価が高い企業に行くのが最善だと思うよ。休みがちゃんとあって待遇が良ければ多少嫌なことがあっても続けられると思うから」
この縁とかいう人はやはり気になる。
「君もそう思うよね。さっきからずっと聞いてるんでしょ?確か名前は…内田充君…だっけ?」
…!何で俺の名前を…!
恥を感じながら後ろを振り向く。
「…何でわかった」
「いや、だって途中から横向いてこっちを見ようとしてたじゃないか。誰でもわかるよ。気になって仕方なかったんでしょ」
「何で名前を知ってる?」
「同じ講義を取ってるでしょ。カードキーかざした後に名前が見えるよね。たまたま見てそれで記憶してたんだ」
「あの…」
瑠波と呼ばれていた人が困った顔をしている。
「ああ、ごめん。この人は僕と同じ学部の人で、今日初めて喋った内田充君。それで僕の彼女の瑠波。そうだな…僕が瑠波の隣に座るよ」
「いや、二人の時間を邪魔するつもりはないから…帰るよ」
「邪魔ではないですよ」
瑠波とかいう人に言われる。
「まあまあ…座って座って。本当はね。入ってきた時から気付いていたんだ。何度も同じ講義で見かけたというのもあるし、君が講義中僕と同じ虚ろな目をしていたのを見かけたのもあっていつか話したいと思ってたんだ」
…きっと死んだ目で過ごしている時を見られたのだろう。
「一応聞いておくけど…」
俺は席に座って言う。
「二人はカップルなんだよな」
「そうだけど。って…何そのしみじみとした顔は」
「いや、羨望と嫉妬と安堵が混ざって変な感情になってるだけだ。…何か、そう、もう疲れてるんだ。さっき…縁そんで瑠波って呼んでいいか?」
縁と瑠波が頷く。
「ありがとう。さっき縁が言ってたこと何だけどさ。俺大学入ってからついこの間までインターンにたくさん行ってたんだけど、確かに縁のいってたことってそうだよなって思って。つまり評価の高い会社に行くのが最善って話。『成長』とか『事業立ち上げ』とか『やりがい』とかで釣ってる企業はたくさんあったけどさ。やっぱ一番は従業員のケアにちゃんと投資できてるかどうかだと思ったんだよ。十分なケアの無い場所で二、三十年、それ以上も働いてたら気が狂って当然なんだよ。あとインターンやってて思ったけどやっぱり面倒臭い問題って人間関係なんだよな。仕事の進むスピードにそれが影響してくるわけだから。企業内での悩みは短期で解決できるのが一番なんだよ」
「それで人間関係に疲れたと」
瑠波が言う。
「それもある。あと単純な仕事に飽きてインターンに行くのをやめたんだ。何かずっとさ。退屈なんだよ。俺は」
「充は…大切な人とかいないの?」
縁が尋ねる。
「いないな…強いて言うなら家族だけど。近くにいないからな…親友も恋人も今までできたことないんだ」
「じゃあ僕らとなろう。仲のいい友達にならすぐなれるでしょ」
「…え?」
「それで退屈な人生も少しはましになるだろう」
「いいですね。なりましょう、充さん」
「お…おう。ありがとう。けど、俺仕事じゃない人付き合いが下手みたいで…」
「それもいいじゃない。というか今話してて下手とは感じなかったけどね」
「…ありがとう。俺ずっと一人だったんだ。好きな人とかできたことなくて…俺には…何にも…!何にもないんだよ…!」
「僕も同じだよ。何もないけど大学に入って、何もないなりに過ごしていたら面白い奴に出会ってそこからいろんな繋がりができてこうしてここにいる。彼のおかげで瑠波やかなさんに出会えた。そして充とも。何にもなくても、ないなりに過ごしていればいいんだよ。何かを早急に得る必要はない。チャンスは必ず巡ってくる」
「…お前、何か主人公みたいなこと言うな…」
「…ん?そう?」
『ピコン』
瑠波のケータイの画面が点く。
「かなさんから『夢中になっていたらもう本を読み終えてしまったので今からそっち行く』って」
「充。もうちょっといてよ。面白い人来るから」
縁が言う。
…なんだ?なんでこんなに優しくしてくれるんだ?というか今更だが…
「瑠波って何かかっこいいんだな…」
「えっ!?そうですか?」
「だよね。そう、かっこいいんだよ瑠波は。全部かっこいいんだ。わかってるじゃないか充君」

久しぶりにちゃんと笑えた気がする。ああ、そうそうこんな友達がずっと欲しくて…俺はずっと…探してたんだ…


一筋縄ではいかない世界
それでも俺は何もないなりに生きていく

「チャンスは必ず巡ってくる」

#05 :岡村 千鶴

普通とは何なのでしょうか。
この頃私は考えてしまうのです。
来年の春に高校を卒業致します。
卒業後について、親や先生から「大学に行きなさい」「千鶴はどこの大学に行きたいんだ?」と聞かれ、私は質問を質問で返します。
「何で大学に行かなくてはならないの(ですか)」と。私の母はこう答えました。
「えぇ、だって普通、普通科の高校を卒業した子は大学に行くのよ」と。
普通という言葉が2回もでてきたことに内心、気付かぬうちに鼻血が出ていた時ような驚きを憶えたわけですが、ひとまずこのような返答が返ってきたわけです。
一応。念のため言っておきますが、私は普通に対して反発心を抱いているわけではありません。普通が一体何なのかを知りたいだけなのです。そのために親の言う「普通」に即して、幼稚園、小学校、中学校、高校と過ごしてきたわけなのです。
話は少しそれますが、一年前、高校2年生の時に、倫理の授業でソクラテスという人物の紹介がありました。私が特に強く記憶しているのは彼の知っている思っていることを知らないと考える姿勢。いわゆる無知の知に大変感銘を受けたわけなのです。また、当たり前と思われていることを疑う懐疑論というものにも同じような印象を受けました。
話を戻します。
おそらく私は他の人から見れば普通です。
自分のことを自分のことを普通の女子高校生(JK)だと思っています。
特に秀でた才能もないですし、かわいいものが好きですし、身体もきちんと成長を見せています。友達もいますし、漫画、アニメ視聴という立派な趣味もあります。
そんな普通のJKとして登校中電車に揺られていると、私は自己の埋没にたいして何ともいえない心地になるのです。

そして。
そんな私は今、コスプレイベントの会場にいます。
私は数日前、SNSでこのイベントの情報を目にしました。ここからの最寄り駅から電車に乗って5つ目の駅を降りて近くの場所でこのイベントが開催されると書いてありました。私はそれを目にしたときこのイベントに魅かれました。別段コスプレをしたとかいうわけではなく、コスプレをしてくる人に興味があったのです。
おそらくコスプレをする人たちは普通ではない。すくなくともその場においては。尋常ならざる愛が溢れ出た結果、コスプレをするに至っているわけなのですから。
私はここで普通ならざる者を目にしその差異を認識することで自己の普通を再認識したいと思い、このイベントに行くことにしました。
父が趣味にしようと衝動買いして3回しか使われていない一眼レフのカメラを借りて、母には「今日友達と遊びに行くから」と普通の口実をつくり「あら、そうなの。今日、お父さんと出かけるから戸締りしていってね」と言われ勿論全ての窓、火のもとに余念がないかを三回確認した後、家を出ました。
イベントにはたくさんの普通ならざる人がいました。自分の知らないアニメや漫画のキャラに装している人がたくさんいて、男装、女装をしている人もたくさんいました。私服でカメラを持っている人もたくさんいて、撮影する際には「あの、撮影してもいいですか?」と許可を取るなどの礼儀のある人しかいませんでした。
他のコスプレイベントがどうかはわかりませんが、少なくともこのイベントはとても洗練されたイベントだという印象を受けました。
私は私服でカメラを持っていたのですが女性のカメラ(ウー)マンは少数派のようで、カメラマンは男の人が多めでした。あとは私服で来ている人がほとんどで私服6割/コスプレ4割という感じでした。
せっかく高そうな思いカメラを持ってきたのだから誰かを撮ってみたいと思っていると、木陰に私が好きなアニメのキャラのコスプレをしている人(ともう一人私服の人がいた)ので恐る恐る近づいて少しばかりの勇気を出して「あの、撮影したいんですけど…いいですか?」と緊張しながら言うと、「いいですよ」と快諾してくれました。
その声はどこか女性的な感じがしたからもしかしたら女の子かもしれません。となると先程隣にいた人は彼氏なのでしょうか。デート中に割り込むなどと無粋なことをして申し訳ないです。と心の中で思いながら私は先に見たカメラマンと同じ言動をとるよう努めました。
「では、ポーズおねがいしま~す」
そういうとまるで本当にアニメに出てきそうなその子はポーズをとってくれました。
確かあのポーズは単行本6巻の表紙のポーズだったはずです。その時私は思わず口にしてしまいました。
「それ六巻の…!」
「えっ!?『かげぼうし』みてるんですか?」
「はい。勿論です!私もナギサが大好きで…」
『かげぼうし』は最近アニメ化したことで急速に人気を博し始めていますが、私は人気沸騰まえから漫画の連載と単行本を買い、見守ってきました。
目の前の子扮するナギサは主人公ではないもののクールで強くて頼れる主要キャラでキャラ人気投票で3位になるほどの人気があります。
私は撮り終わった後で言いました。
「ありがとうございました!ナギサそのものですね…!すごいです…!」
「こちらこそありがとうございました」
あれ?
「あの…彼氏さんですよね?さっき隣にいた人…」
「えっ。そうですけど…よくわかりましたね」
「仲がかなり良さそうな雰囲気だったので。そうかなと思って」
そういって彼女はケータイを触りました。
「あっ。今、飲み物買いに行ってるみたいです」
「そうなんですね…あの、その…衣装ってどうやってつくったんですか?」
私は佐藤さんに色々なことを教えてもらいました(軽い自己紹介の後)。ナギサのことや『かげぼうし』のことについて、夢中でしゃべっていました。その時間はあまりにも楽しく、佐藤さんもそうだったようで連絡先を交換してくれました。十分程しゃべっていると先の彼氏さんが歩いてくるのが見えたので、二人の時間を邪魔してはいけないと思い、私は厚く礼を言って去ることにしました。
最後に佐藤さんに彼氏さんについて聞いたのですが、
「こんな僕のことを全部好きって言ってくれる大切な人なんだ」と言っており、ナギサの姿でそれを言ったものですからかっこよさが2倍になり、立っていることも困難なくらい頭が興奮してしまいました。漫画ならきっと鼻血を出していたことと思います。
一人称「僕」もナギサの姿だからそう言っているのか普段から一人称は「僕」なのか気になりましたがもし後者ならやはりかっこよさは2倍で正しいと思います。

その後私は帰りの電車に乗りました。
車内で佐藤さんの写真を見ました。勿論、予想外の流出がないよう、周りに人がいないのを確認してから。これはある種の独占欲かもしれないと思いながら写真を目にしていましたが、やはりかっこよすぎました。

あれ?
「そうですね」
気付けば私は普通ではなくなっていました。あんなに夢中になってコスプレをしている方と語り合えるのは、そして私も佐藤さんと一緒にコスプレしたいとまで思うようになったのは、もう私の思う普通ではないのです。
「でもそれがいいんです」
普通でいるよりも佐藤さんとお話している方がずっと楽しかった。私は普通でいること又はいないことに善悪の価値を付与する気ははなからありませんでした。気の進む方にいるのが最適だと思っています。普通かそうでないかは他人(未来の自分含め)が決めることなのです。
それでもこれまで私の人生は普通に即して生きてきた人生だったので普通でない人やことに対して抵抗感を抱いていたのは事実です。
それでも今日、そうでない世界を見ることができました。

[追記]
一年後に思ったのですが、普通とは相対的な考え(観念)なのかもしれません。

#06 :天野 一

「好きです。ずっと好きでした」
涙。何度見ても涙。
ようやく。ようやく125話にて二人が結ばれた。
すれ違いにすれ違いを重ね、回り道を歩いた後、二人が想いを伝え、結ばれる。
恥ずかしながら、私、天野一、46歳。恋愛漫画が大好きだ。特に王道の青春恋愛漫画が。
妻とは大学の恋愛漫画同好会(5人)にて出会い、お互いの熱量が同値で相性も良かったことから職に就いてから2年後にプロポーズした。(その際、私も妻も大好きなある漫画の台詞を引用したのはまた別の話)
それから娘が産まれ、早いもので時は流れてもう14歳になった。思春期である。子は親を見て育つと言うが、娘も例に倣って恋愛漫画を好んでいた。
2年前までは。
中学に入ってから友達の影響もあってか、家に山ほど置いてある恋愛漫画を読まなくなった。
あと、少し反抗期。食卓を囲んで同じ漫画の話題を語り合った日が懐かしい。またそんな日が来るだろうか。
だが、娘の気持ちもわからなくはない。反抗期は自分にもあった。
私は幼い時から恋愛漫画または少女漫画と呼ばれる類の漫画を好み、親によく「あんた、そんなもん呼んでる暇あったら勉強しなさい。それにその漫画女の子が読むものでしょ」と言われた。いつも余計な一言をつけてくる親に当時の私は大変いらだった。
加えて、私はかれこれ20年と少し高校教師を勤めているが生徒が『恋愛漫画が好き』と言っているのを耳にしたことがない。私が高校生だったころは時々女子(+私)の間で一大ブームが巻き起こるほどだったが今はそうではないらしい…哀しきかな。
現在、私は3年3組の担任をしている。いよいよ生徒が受験シーズンに入って何かとピリピリ不安を感じるこの頃。35人全員が納得できる進路を歩めるよう私も気を引き締めなければいけない。生徒には恋愛漫画のような恋愛をたくさんしてほしいが、私のいる高校は地域では有名な進学校ということもあってかそのような雰囲気はない。いいことなのか悪いことなのか…
これまでにも何度か3年生の担当にはついてきたが、当然毎回責任感はある。先も言った通りこの高校は進学校であることから普通科の生徒がほとんどで私の受け持つクラスも100%普通科(コース)の子だ。まず皆大学への進路を希望する。
六月に入り、生徒の面談を開始した。ある生徒は不安を口にし、ある生徒は「この大学に行きたい」とその生徒の成績にしては高い目標を口にした。私は1人1人の生徒から最大限得られる情報を基に適切な助言をするよう心掛ける。無論そのための準備も怠らない。
「岡村さん」
私は廊下から教室に顔を出し、本日最初の生徒の名前を呼ぶ。
彼女に廊下に出してある席に座るよう促し、2つの机を挟み向かい合う形で自分も席に座る。
「はい、お願いします。えっと、アンケート(生徒は事前に学校生活調査というアンケートに答えている)からして特に無さそうだけど、何か悩み事とか困ったことってあるかな。何かあれば何でも」
「いえ、特には…」
世間話や趣味の話をしても良いかもしれないが岡村さんには話しづらいかもしれない。もう少し時を経てから今度その話をすることにした。
「そっか。うん。岡村さんは成績も優秀だから特にこちらからもないかな…そうだな…あとは大学どこに行くか考えてたりするかな」
「…大学ですか」
「岡村さんはこの前の模試でもかなり好成績だったから選択肢は広いと思うよ」
「…あの質問なんですけど」
「勿論何でも」
「そもそもどうして大学に行くんですか?」
「う~ん…一般的には大学が高校よりも専門的なことを学ぶ場所だから、例えば機械工学とか物理学とか化学とか経済、法律、文学とかね、自分がもっと学びたいと思っていることを学びに行くために大学に行くっていうのが答えになると思うよ」
「学びたいこと…」
「今はまだ無くてもそのうち見つければいいし、先生の経験上、見つかってないけどとりあえず大学に行く人もこれまでにたくさんいた。むしろそっちの方が多いくらいかな」
「…とりあえず大学に行く人がいるんですか」
「そうだね…多くの人は普通科の高校に進学して、一番自分が入りやすい学部に希望して目の前の勉強を必死でやる。うちの高校も例にもれずそういう子が多いよ。だから無理に学びたいことを見つける必要はなくて、深く意味を考えずとりあえず大学に行くっていう人もいるってことだね」
「そうなんですね」
私はふと時計に目をやる。おっと、そろそろ時間だ。
今回の面談期間は修学旅行関連のこともありかなり短い。
「あぁ、ごめん時間になっちゃったから今日はここまでにしようか。まぁ、大学について少し調べてみて。それでまた次回お話ししましょう。また何かあったらいつでも話してください」
「はい」
「じゃあ、次の人呼んできてくれるかな」
私がそういうと岡村さんはありがとうございましたといって席を立ち次の人を呼びに行ってくれた。この学校は本当におとなしくて真面目な子が多い。だからこそ、普通に、何もないように見せようと取り繕っていないかが心配になる。
できるだけ生徒の不安を払拭することは教師の役目でもあると思う。お節介といえばそうなってしまうのだろうが。

その後何人かと面接を行い、さよならの挨拶をした後、残っていた仕事を片付けて車に乗る。
運転中、私は岡村さんの質問であった「なぜ大学に行くのか」について考えていた。
自分の過去を振り返ってみる。ただ自分もどちらかといえば今でいう「何となく大学に行く」側だったかもしれない。私の家族は全員大学を卒業しており、当時自分も大学に行くことが当然のように思っていた。岡村さんのようにそもそもなぜ大学に行くのかなど考えたことも無かったかもしれない。
何となく教えるのが好きだった。自分で勉強するよりも教えるほうが得意だった。
教師になりたいと本格的に考え出したのは高校生の時。恩師に出会ったことがきっかけとなった。高校生の時、その先生に自分が1つの教師を考えているというと、しみじみとした顔をした。
先生はたくさんの人に愛され、葬式には私含め多くの人が参列していた。
温厚で人当たりが良く、叱るときは叱る、絵にかいたような教師だった。上手くいかない時は先生がよく言っていたことを思い出す。「大丈夫だ。ひとまず頑張ってみろ」これが先生の口癖だった。話は頑張った後で聞く。こうすることでクラス全体に頑張る、努力することを恥としない良い文化が生まれた。
しかしここでちょっと待てよと思う。自分は大学で学びたいことがあったというよりは何となく教師になるんだという思いがあったから、教育学部のある大学に進学した。職につくために大学に行ったと言い換えても間違いではない。
大学に入学し卒業すれば選択肢が広がるのは事実だ。初任給だって場所によっては高卒の者とかなり差がある。
「しまったな…」
ハンドルを人差し指でたたく。今度岡村さんとの面談で今言い忘れていたことを伝えなければ。

帰り道。私は行きつけの本屋に寄る。妻の推す漫画の最新巻が今日発売されたのだ。いつものように私も釣られて読み始めるとこれまた面白い。恋愛漫画は奥が深いと読む度に実感する。私は妻に今日最新巻を買ってくることを約束し、妻は私の到着を心待ちにしている。
因みに。私が恋愛漫画好きであることを生徒は知らない。
いい歳こいたおっさんが恋愛漫画を好んでいるということをわざわざ皆の前でカミングアウトする必要はないし、そのことを馬鹿にされるのも(私はいいがあの碧すぎて透き通るような恋愛漫画たちが馬鹿にされるのが)嫌なためだ。
あったあった。最新巻。
おっ、私の知らない漫画がある…!
こうして毎回本屋に寄る日はあまりよくないとわかっていても立ち読みをしてしまう。
そして帰りが遅れる…
いけない。今日はこれを買うために来たのだ。
よし。
私はキリのいいところまで手に取ってしまった漫画を立ち読みしてしまうことにした。
「その漫画、お好きなんですか?」
声のする方に目をやると、店員ではなく1人の青年が立っていた。
大学生かそれ以上っぽいが私服であるところを見るとおそらく大学生らしい。
…まぁいいか。うちの高校の生徒でないから隠す必要もないしこの彼と会うのもこれで最後だろう。
「ええ。恥ずかしながら、恋愛漫画が好きでね」
「あぁ、そうなんですか。いや、自分も最近友人の言う『好き』という気持ちを知りたくてこの類の漫画に手を付け始めたんですが…どうもちょっとわからなくて…」
何だって…⁉
「といいますと?」
「いや…自分も恥ずかしながらこれまで誰のことも好きになったことがなくて…なので友人の恋話にも毎回少しついて行けなくて…それで好きを知るために恋愛漫画を読み始めたわけなんですけど…どうしても面白味がわからなくて…その…よければ教えていただけませんか…?」
初めは小馬鹿にされているのかと思った。しかしその青年の丁寧な物言いや真っすぐな態度から嘘をついているようには見えなかった。彼は真実を語っていた。
私は恋愛漫画の何たるかを語ることにした。
「そうだな…まず恋愛漫画に合理性を求めたり持ち込んではいけない。『普通こんな展開にはならないでしょ』とか『なんでそんなことするの?』とか思ってしまうかもしれない。でもそれを登場人物や作者の合理性が欠けていると思うんじゃなくてそのすれ違いにこそ価値があると思うことこそが恋愛漫画を楽しむうえでの第一歩となる」
「…なるほど」
私の声が熱を帯び始める。
「例えばさ。もしだよ。もし1話目から登場人物が付き合ったら面白くないじゃん。これは恋愛漫画に限らず、あっけないほど簡単にラスボスが倒せてしまったり、いとも簡単に何かを成し遂げてしまうってのは何かむなしいく面白みに欠けることと同じでね。感情の起伏なんて味わえない。だから回り道が必要だし、その回り道が付き合うっていう単純なゴールなはずなのに人との関係で複雑になっていく様も恋愛漫画の魅力なんだよ」
「なんかわかってきた気がします…!」
「あとは主人公の『好きと言いたいのになかなか伝えられない気持ち』を考えながら読むと君のわからない『好き』がわかるようになるかもしれない。心の中で主人公や登場人物を応援する君がいたらそれはもう君は恋愛漫画の本質を理解していることになる」
「…!なるほど」
青年の眼は輝いていた。
「そうだ…」
私はメモをさっと取り出しておすすめの恋愛漫画をすらすらっと記入してちぎって彼に渡した。
「時間があればこの漫画を読んでみるといい。私を含めた恋愛漫画好きのおすすめ恋愛漫画リストだ」
「ありがとうございます!読んでみます!」
「…じゃあ私はこれで。…多分君なら大丈夫だよ。読むうちに登場人物が抱いている葛藤に共感できるようになる。大丈夫だよ。ひとまず頑張ってみて。じゃあ」
そういうと私は最新巻を購入して車に乗り家に帰った。

妻に今日会ったことを話すと「何?その子面白いわね」と笑って聞いてくれた。
それから大学の件に関連して大学での思い出を笑い合って話した。
「最新巻、ありがとね」
「うん。読み終わったら教えて」
そういえば私と妻はほとんど喧嘩をしたことがない。時々口論になりそうなことはあってもどちらかが『まずいな』と思って漫画の引用を行う。それで笑ってイライラしていたのが馬鹿馬鹿しくなる。
愛は全てを解決する。全世界の人に透き通るようなあの恋愛漫画を読んでほしい。

今日の青年のような純粋な反応をしてくれるなら、生徒に自分の趣味を話してみるのもいいかもしれない。
もしかしたら恋愛漫画が誰かの支えになるかもしれない。

#07 :松山 賢人


誰もが自分の人生に落としどころを付けている
そしてこの男も例外なく―――――


「さぁ!今日も張り切っていきましょう!!ほら、賢ティも声はってぇ!」
こいつの名前は相羽誠太郎。俺の相方。そうです。お笑いコンビ組んでます。
「うるせぇな。まだ早朝だぞ。苦情来るぞ」
お笑いを始めてもう10年になる。毎年そろそろ辞め時だと思うがその度に二人でエム=ONE優勝という夢を諦めきれずにいる。
「よし。とりあえず。ラジオ体操しよう。第二から」
「なんでだよ。あと第一じゃなくて第二好きなのやめ」
「テンテレテーン、テンテレテーン、テッテッテッテッテンテレーン、テンテレテーン、テンテレテーン、テッテッテッテッてぇん!はい!」
俺たちは空に向かって小刻みにジャンプする。
「いや、待て待て待て待て、ネタ合わせしようやい」
「ちゃんとスタンプカードもってきたか?賢ティ」
「イケボで言うなし、誰やお前」
「まぁぼちぼち棚からぼたもち始めますか」
こうして俺たちはいつものようにネタ合わせを始める。

相羽とは7年の付き合いになる。
お互いに元いたコンビを解散して、でもお笑いを諦めきれなくて路頭に迷ってピンで活動していたころに出会い意気投合してコンビを組んだ。
正直相羽をめんどくさいと思うことは現在進行形で何回もあるが、それでもこいつは笑いの愛が溢れていると感じる。笑いを愛してるっていうことがもうすごく伝わってくる。
だから…やめられずにいる。
もう30代を越えた。
同じ養成所にいた奴でテレビに出まくっている奴もいるし、学生時代友達だった奴が結構稼いでる実業家?とかになっている奴もいて幸せそうに見えて俺はどうなんだろうって毎朝下見て鏡見てにこってする。
それが偽りの笑いなのか元気づけるための笑いなのかはわからないけど笑う。
両手でほっぺたをバシバシと叩いて玄関のドアを開けて、お互いバイトが無くて時間のある早朝に相羽とネタ合わせをする。
今年こそは…

Mail
[ケンタロウス様 エム=ONE予選3回戦進出]

ちょうど俺たちの出番が終わって休憩している時にメールが届いた。
「うおおぉおおお!いけるぞ!賢ティ、今年いけるぞ!あと一回勝てば準々ッ!」
「おうおうおうおう!」
「景気づけに回転するタイプの寿司屋行こう」
「よっしゃまかせろいい店知っとる」

[回転寿司のテーブル席]
「へいらっしゃい」
「なんでお前が言うんだよ」
「お客さん今日は何を握りやしょうか?」
「じゅあとりあえずマグロとサーモンで」
「承知しやした。ラーメンと唐揚げ、たこ焼き、フライドポテト×2…と」
「頼んでない頼んでない。てかお前寿司屋でサイドメニューしか頼まないタイプかよ。邪道だろ」
「えぇ、いいじゃんそっちの方が面白いじゃん。それにさ。知ってるか?寿司屋のラーメンってめちゃくちゃうめぇんだよ」
「知らねぇよ。んで頼みすぎだろ。てか茶碗蒸し頼んどいて」
「いや、お前も頼むんかい」
[ラーメンと唐揚げ、たこ焼き、フライドポテトとマグロとサーモンが届く]
「いやもうこれどういう状況?」
「まぁまぁ。今日は賢ティの奢りだからさ」
「自分の奢りみたいに言うな。てか割り勘な」
「割り箸?」
「おもんない聞き間違えすんな。はい割らないタイプの箸」
「ありが東京。一極集中ぅう」
「…なぁ相羽」
「ちょま、今ラーメンタイム。ずずずっる」
「エム=ONE。頑張ろうな」
「あたりまえだぁ!!!!ずずずっる。賢ティとならまじ行ける。三回戦も余裕で突破だぜ!機関車で発泡スチロールの壁をぶち破っちまうくらい朝飯前だぜ。今は夜飯だけど」
「うん。意味わからん」
「ところでその壺なに?」
「壺茶わん蒸し。さっき頼んだ。今この寿司屋『壺男、ツボを推しまくって鮮魚になる』とコラボしてるからさ。その繋がりで。ほら、最近アニメ化してその独特すぎるカオスさに人気でとるやつ。多分お前といい勝負」
「何だ~茶わん蒸しか。壺の中に豪雨と突風と高波と雷が入ってるのかと思ったよ。ほらセカンが勇気出すために開けたやつ」
「何それ?知らん」
「あっ!茶わん蒸しってサイドメニューじゃね?」
「いや茶わん蒸しは違うだろ!?エレファントとエンファサイズくらい違うだろ!?寿司屋の茶わん蒸し舐めんな!」
「あーー!みなさ~ん!今この人全国の寿司屋のサイドメニュー好きを敵に回しましたよ~」
「いや回すのは寿司だけにしとけ。回転寿司だけに」
「おあとがよろしいようで」
「どうもありがとうございました~」

それから俺たちはバイトを少なめにして毎日必死にネタの練習をした。十年やってきたが三回戦まで行けたのは初めてだったから相羽も俺も緊張しなくなるくらい練習してネタも洗練させた。
三回戦を突破すれば…その後たくさんの人に見てもらえる!笑ってもらえる…!

Mail
[ケンタロウス様 エム=ONE予選3回戦敗退のお知らせ]
誠に残念ながら、厳正なる審査の結果、ご期待に添えない結果となりましたのでご連絡いたします。

「…え?」
完璧だったはずだ。本番は台詞飛びなんてのは勿論なくて笑いもちゃんと取れてたはずだ。ほら、審査員の人も笑ってたじゃないか…!
「嘘だ…」
厳正なる審査なんてしてないだろ。なんでだよ…なんで…!

泣いた。

ごめん。
ごめん。
ごめん…
いや、こうなることはどこかでわかっていた。
全力は尽くした。でも所詮は予選落ち止まり。
アリが人間を動かすことができないように、俺たちは誰かの胸をうつようなお笑いができない…

電話がつながる。
「あぁ。相羽?いつもの場所来て。そう。公園な」

真夜中、公園に行く。
ブランコに座る。
少しだけ揺られていると相羽が来る。
隣に座る。
きぃきぃという音が鳴る。
長い沈黙の後で相羽が落ち込んで言う。
「…まぁ今回は仕方ないよ。ほら、参加組数も過去最高って言ってたしさ。でも今回は3回戦まで行けたわけだし、次は準々決勝――」
「もう辞める」
「…ん?」
「もうお笑い、やめるわ」
「なんで…」
「なんで?いや、もう十年もやってるのにまだバイトて食いつないでるし、同期とか周りの奴はテレビ出てるかとっくに就職して幸せそうな生活送ってるのに俺たちはボロボロのアパートにずっと住んでるし疲れたし、彼女も愛想つかして離れていっちゃうしさ…正直もう30過ぎたら転職もかなり厳しくなるし、ここらでもう辞めるべきだと思うんだよ」
「……」
「もういいんだよ。現実見ようぜ。相羽」
「…は?」
「エム=ONE優勝とかさ。…多分俺たちには何か足りないんだよ。才能とかセンスとか何か足りないんだよ。俺もそうだったけどお前もピンの時全然面白くなかったじゃん。そりゃ諦めたくないよ。俺だってお前と優勝したいよ。でもさ…無理なんだよ。十年もやってダメだったんだか――」
「るせぇよ!どいつもこいつも!もぅ、んなの聞き飽きたっつーの!9999回くらい『現実見ろ』って言われてきたっつーの!あぁ!こんなかぎかっこ何か無くたって俺は喋れるんだい!ポイッ=」ほらな。言ったろ?やればできるんだよ。たいていのことは本気出せばできるんだよ。「面白くない」!?んなの自分が一番わかってるよ!俺たちのお笑いは万人受けするタイプのお笑いじゃないし、毎回お笑い賞レースも予選落ちだし、先輩に「お前らおもんないな」って何百回も何万回も言われてきたし、現実見ろなんて親にも7年前のガールフレンドにも同期の辞めてった奴らに散々いわれてきたんだよぉ!」
「……」
「でもさぁ…」
相羽の眼から涙がこぼれていく。
ブランコの音がいつの間にか止んでいた。
「笑ってくれる人はいるんだよ。それでも…ファンになってくれるひとはいるんだよ…この前野菜渡したときにさ…『いつも見てます。応援してます』って…俺のお母さんとおんなじくらいの年のおばさんだったけどさ…それでも俺すっげぇうれしくってさぁ…」
「……」
「笑わせてぇんだよ…楽しいんだよ…嬉しいんだよ…お前と漫才やってウケまくってる場所にいたいんだよ…」
「……」
「と…とにかくお前が辞めても俺は辞めねぇよ。俺にはお笑いしかないからな…」
そういうと、相羽はおんぼろアパートに帰ってしまった。

翌日。
俺は堤防を歩いていた。
帰りにコンビニで買った酒を飲みまくって寝て眩しいなって思って起きたら夕方になってて頭がぼぉっとしていたからさらなる眠気覚ましと運動不足解消とメンタルを整えるために散歩をすることにした。

犬のお散歩をする老人や野球をしている子供たちがいる。
夕日の光が川に反射してキラキラしている。
そんな時、ふと相羽の言っていたことを思い出す。

あれは相羽とコンビを組んで数か月が経った頃だったろうか。
「あの、もしよかったら茄子いりませんか?いや、友人が畑やってまして、その手伝いにたくさんもらっちゃって…」
「あの、もしよかったら人参いりませんか?」
「あの、もしよかったら大根の葉っぱいりませんか?おひたしにするとうまいんですよぉ~これが!」
「あの、もしよかったらパクチーいりませんか?そうですそうです健康にいいっていいますよね!白痴白痴パクチーなんつって!」
「あの、もしよかったら玉ねぎいりませんか?(中略)あぁ…ありがとうございます。実は自分お笑いやってまして…もしよかったらライブ来てください!」
ひとしきり渡し終えると相羽が戻ってくる。
「…また通行人に野菜+チケットテロしてるのか」
「テロって言うなよ。人聞きの悪い。一人じゃ食べきれないからさッ★」
「だからって見知らぬ人にあげるのって…」
「いや、今回はまだ次のライブまで結構日にちあるからそれまで野菜取っとくのたいへんだしさ…本当は来てくれるお客さんにあげたいんだけど、まぁそれはそれでまたそん時にもらってこればいいしさ」
「お前はホントいろんなものもらってくるよな…この前もどらやき100個くらいもらってたじゃねーか」
「あれは被災地のボランティアに行ったときにもらったどらやきだったんだけど保存がきかないらしくて。いやー、でも通りすがりの人も喜んでくれて良かったなーあっはっはっは!」
どらやきテロもしてたのか…なんか仏に見えなくもないかもな…
「…なぁ、相羽はどうしてそこまでできるんだ?」
「ん?」
「いや、お笑いやってるのも確か『人を死ぬほど笑わせたい』とか言ってたよな?それ自体が楽しくてたまらないって。何がお前をそこまで動かすのかなって…いや、ごめん自分で言ってて何言ってんのかわかんなくなってきたけど」
「うん。俺もよくわかんないけど…最近ふと思うことがあってさ」
「といいますと?」
「俺はみんなの虚数解になりたいんだ」
「虚数解?」
「そう。ありえない存在なんだけど、それは正解なんだ。ほら、さっきの野菜配ってたのもさ、普通ありえないだろ?勿論渡す野菜は採れたてで品質が悪いものは渡してない。そんな新鮮な野菜をただで、しかもたまたま道を通っただけでもらえるんだ。でもその配る行動が間違ってるなんて誰も思わないだろ?」
「そりゃそうだ。仏だと思っちまったくらいだよ」
「損得とか、理屈とか、意味とかそういうのを一旦考えず、自分がされたら嬉しいなって思うことを本当にするんだ」
「それが虚数解になるってことか…」
「まぁ、なによりさ」
相羽がこっちを見て言う。
「そっちの方が、面白いじゃん!?」

あぁ。そうだ。そういう奴だった。
どこまでも馬鹿で不器用で笑い以外のことには一切無頓着で…
それでもあいつは本当にいいやつで(いいやつっていう表現はあまり好きじゃないって言ってる人いたけど)底無しにいいやつで優しくて、お笑いに真っすぐで人を笑かしたくてそれを楽しんでて…
始めたての頃大すべりしてヤジまで飛んできた時にはネタが終わった後、相羽が大泣きして「俺、面白くないのかな…?」って鼻水ありえないくらい垂らしてそれを俺のシャツにべとってつけてきてでもその真っすぐで純粋な姿がなんか羨ましくて俺も泣きたかったけどなんかあいつのこと見てたら一緒にエム=ONEとりたいって気持ちがすごく湧いてきて…「面白いよ。だって俺と組んでるんだから」って言って俺も鼻水垂らして笑い合って…

ああ、そうだ。そうだよな。

今、俺があいつにできること。
それは俺があいつの虚数解になること。
覚悟は決まった。
限界なんて知るか。お笑いに限界なんてねぇんだよ。
俺はあいつの虚数解になる。
そう思って俺は携帯を取り出し、メールを送る。

『昨日はごめん。今日からお前の虚数解になるからそこんとこよろしく』


解に落つ(全7回) 完


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