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人はなぜ結婚するのか
時代の変化に伴って結婚の形というのは大きな変化をみせてきた。これは「国家」という考えや固定観念がその都度変化してきたことと大いに関係していが、今回はこの結婚に焦点をあてて思索にふける。
結婚の意味
人はなぜ結婚するのか。この問いに対してはさまざまな側面からの解答が得られるであろう。
まずは社会的側面。日本では婚姻届けを提出した後めんどくさい手続きを色々経て苗字が変更されるが、そもそもなぜ苗字を変更させるのかというと「一体感があるから」「絆を感じさせるため」などの理由を耳にすることが多くある。
また「結婚した(婚姻届をだした)」という行動が一つの称号のようなものとして社会に認知されているというきらいもあるだろう。
つまり結婚とは「家族」であることを示すための手段として行われるということがわかる。
経済的側面もあるのだろう。つまり結婚をすることで配偶者控除など金銭面でのメリットが得られる。仲睦まじくしており、こどもにかけるお金も膨大であることから結婚しない手はない。といった場合も考えられる。
しかし私はより深い問題に取り組みたい。
問題:なぜ夫婦と呼ぶ必要があるのか
結論:私にはわからない
「夫」とか「妻」とかさらに言うなら「彼氏」「彼女」という言葉がある。しかしながら私はこの境界線がわからない。つまり「なぜあなたはあなたの恋人を夫(妻)に仕立て上げたのか」と言うことだ。
知人にこのような質問をぶつけてみたことがある。その人曰く、「肉体的な関係=その境界線ではない」といった。では境界線は何なのかと私が問うと「一緒にいていいと思える存在」と答えた。
うん。なるほど。
しかし、例えば電車などの込み合った状況はどうなるのか?つまり彼らは一緒にいると言えるほどの近しい距離にあるじゃないか。え?なるほど、物理的距離ではなく心理的距離のことか……
友人に対しては一緒にいていいと思わないのかい?と私がその知人に問うと友人に対する一緒にいてもいいという感情と恋人に対する一緒にいてもいいという感情は異なるのだという。
うーん。わからない。
言わずもがな、私は何かの感情が欠損している。性愛は解る。愛と言うのもこれでも長らく生きてきたためなんとなくは解る。
しかし、その愛に関連して人との関係に名前を付与して身分的な虚像を創り出す意味が解らないのだ。
愛(エロス)に厳密性を求めてはいけない。そんな声が何処からか聞こえる。
しかし何と言うのだろう。私が言いたいのはなぜ身分的な虚像を作り出す必要があるのか。そしてその境界線は何なのか。さらになぜその身分に対して満足感を憶える人がいるのか、といったことがわからないのだ。
暫定的な私の仮定として、おそらくそれは経験によらない「信じる」行為が存在するために境界線が曖昧なのではないか、という仮定が挙げられた。
その身分が自分にとっての他者の要素となり、また呼ばれる身分が自分のアイデンティティになる。
経験によらない「信じる」行為はおよそ不確定なものだから厳密性を求める私とは相性が悪いのやもしれない。
こんな風にどうしようもなく思索にふけっていると、いつの間にか日が暮れていた。
いつか真に知人を理解できる日を夢見て、この記事を終わりとしたい。