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木と人間
人間は酸素なしには生きてはいけない。その点、実に森林は我々の生に大きく貢献している。今回は木について思索にふける。
木と人間の違い
木と人間は違う。解っている。そんなことは誰でもわかっていると。しかしある部分に着目したい。それは私たちは一本一本の木を判別することができるのか?という点だ。
人間にはそれぞれ名前がある。無論、同姓同名の場合はあるものの、存在としては唯一無二の存在であると言っていいだろう。(クローン、ドッペルゲンガーを除いて)
しかしながら木はそうではない。
確かに木材に詳しい人なら木の種類といった名前で判別できるかもしれない。
だが、例えば目の前にヒノキ科ヒノキ属の木がたくさん生えていたとしよう。その木を見分けることは果たして可能だろうか。ここで言いたいのは、一人一人見分けることのできる人間のように一本一本に差異を見出すことができるか?と言うことである。
これは推測だが専門家でもこのような芸当はできないだろう。
もっとも、何百年も定住していれば判別はつくかもしれないが。
まして木に全く知識のない我々一般人からするともはやその木がどの種に属しているかも知らない。従ってどんな木が目の前に在っても私たちはそれを「木」と言う。ソシュールではないがシニフィアン(言葉)の数だけシニフィエ(イメージ)がある。
この場合我々は木を「木」という言葉でしか表せない。従って目の前にいかなる「木」があろうともそれを「木」としか思わない。
同じ種どうしの木に差異を見出すことは可能か?
人間なら上の問いに対して可能であると言える。なぜなら顔があるからだ。また性格や体つきも個人によって様々である。人間が人間を見た際に受け取れる情報は多岐に渡るため、人間という種どうしで差異を見出すことはたやすいことだ。
そのように考えると、私たちにはとても見分けがつかないような木でも、木にとっては同じ種同士の木で差異を見つけ出すのは簡単なことなのかもしれない。
もっとも木に意思はないと思われるからそんなことは確かめようがないのだけれども。
ここで現実には考えられないような妄想をしてみたい。
100年後に地球外生命体が地球にはるばるやって来たとする。
彼らと意思の疎通を図ることに成功し、以後彼らと地球人は互いの星を行き来するようになった。
とある場所で友人関係にある宇宙人フィフォと人間のAくんが談笑していた。その時に話す内容は以下のようであった。
フィフォ「私が地球に行く前、私はあなたたちにそれぞれ名前があることを知らず、『人間』という言葉しか知らなかった。だからあなたたちの違いと言うのが具体的にわからなかった。」
A「そうだろうね。だって僕たちも君たちに会うまでは『宇宙人といったら』と頭に思い浮かべるイメージは一つしかなかったんだよね。複数思い浮かんだとしてもそれは種類であってその種類どうしの差異なんて思い浮かばなかったんだよ」
フィフォ「あなたたちに名前があると知りその名前を念頭に置くことで人間はみな違うということが当たり前にわかるようになった……」
特にA君の発言には注目すべきところがあるだろう。これはシニフィアンとシニフィエの関係であり、我々にとって種同士の差異をイメージすることは難しいことを示唆している。なぜならそれらにはシニフィアン(名前)が無いからだ。
終わりに
我々はこのように同じ種同士(柴犬だったら柴犬同士の)差異を瞬時に思い浮かべることは難しい。それは我々の思考が言語に規定されていることを示す何よりの証拠ではなかろうか。
私も自身の思考を狭めないように長年ほったらかしにしてある辞書や手を付けていない古典を(時間があれば)開いて、語彙を習得することに努めたい。
……時間があれば。