月灯りの下で 「くだらなくない」
「ねぇ、凪人。今からここを抜け出そうよ」
夜中さゆりの手を握りながら、ベッドに伏して寝ていた時のこと。
さゆりが僕をゆすって起こしたかと思うと突然先の突拍子もないことを言った。
「...本気かい?」
「もちろん」
抗がん剤治療を行ったことによってさゆりには軽度の脱毛の副作用が見られた。さゆりは今冬ということもあってニット帽をかぶってはいたが、前髪やうしろ髪がちゃんとはみ出している。抜けた自身の髪の毛を見てさゆりは顔をしかめていたが、少し毛量が減ったくらいで、ヘアスタイルに影響は無かった。
「ちょっと外にでるだけだよ。おんぶして」
「…わかった。行こう」
僕はそっとさゆりをおんぶする。さゆりの身体は温かくて、僕の首の前にまわされたさゆりの両手は細かった。
「凪人、今どきどきしてるでしょ」
「ふふっ。なんでわかったの?」
凪人はみんなを起こさないようそっと歩き、声をおさえて喋る。
「君の考えてることなんて、全部お見通しさ」
病院を抜け出して近くの広場に行く。今日は雪が積もっていて分からないが、晴れた日にはこの芝生の広場には患者や子供など多くの人でにぎわっている。
僕ら以外に誰もいない真っ白な世界。
凪人はゆっくりとしゃがんでさゆりをおろす。
さゆりが地面に足をつけると彼女は子供のように駆けだした。
「あはははっ!」
雪は止んでいて、空にはきれいな星空が見えた。
凪人はさゆりを追いかける。
追いかけっこをして、雪を投げ合い、転んで、笑って。
さゆりの服も、凪人の服も雪が染みて濡れてしまっていた。
足先は冷たかったが、そんなことは今二人にとって問題ではなかった。
こんな時間がずっと続けばいい。
これは二人が言わずもがなずっと感じていたことだった。
だからゆっくりと、ゆっくりと大事な時間を噛みしめて過ごすようにしてきた。
それでも。
いつかはやってくる。
「きっとどんなことでも本質的にはくだらないんだ」
さゆりが空を見ながら言う。
「くだらなくないように見えても、それは言葉という名の記号に騙されているだけなんだ」
星空の下で両手を広げ、満面の笑みを浮かべて振り返る君の顔は、月明かりに照らされ、僕にはこの世のどんなものよりも美しく思えた。
でも…
「…くだらなく…ないよ」
凪人はさゆりに告げる。溢れそうな涙をこらえて。
「じゃあ僕がさゆりを愛しているというこの気持ちも、この先さゆりが死んでしまって悲しいという気持ちもくだらないの?」
「…..うん」
「…じゃあ…じゃあ何で!何でさゆりは今、泣いてるの…?」
「…..」
君の泣き顔が僕の瞳に映る。
わかってるよ。
凪人は理解していた。
さゆりは自分に嫌われようとしている。多分悲しんでほしくないからだろう。
最近はさゆりが悲しそうな顔をしている。
さゆりは優しいから。
僕はさゆりが大好きだから。
だから
「僕は絶対にどんなことがあっても、さゆりが嫌いになることはない。何があっても好きでいる。だから、そんなこと言っても…意味ないよ」
あぁ…だめだ…泣いてしまうよ…
僕はさゆりを抱きしめる。
さゆりは静かに泣いていた。
「やっぱり...死にたくないよ…凪人と一緒にいたいよ...」