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月灯りの下で
さゆりは過度な運動はできないとのことから僕らは水族館や映画館など、観賞を楽しむ場所に行った。時には二人で有名な図書館にも行った。
2か月すると僕もようやくさゆりの要望通り、敬語を使わず、「さゆり」と彼女のことを呼べるようになった。
ある日僕が
「こんな日がずっと続くといい」
と言うと、さゆりは
「不確定な未来に身をゆだねること。それを人は希望と呼ぶんだよ、凪人」と言った。
今日は水族館でデートをしていた。
魚の泳ぐ姿もどことなく非日常的な感じがして悪くは無かったが、それにも増してさゆりが可愛かった。さゆりは子供のように魚を眺めている。僕は魚よりも横にいるさゆりを眺めていた。さゆりがこちらを見る。
「ごめん、さゆりがめちゃくちゃ可愛い」
「...ありがと」
「あ。」
「あ?」
「ごめん。いつの間にか声にでてた」
「ふふっ」
さゆりは笑う。
「魚は何を考えて泳いでるんだろうね」
「さぁ?案外何も考えていないんじゃないかな」
「同じだよ。動物も人間もみんな同じだよ」
「どういうこと?」
「色んなことに後悔や喜びを感じるかもしれないけど、根本的にそれは多分一緒ってこと」
「クオリア?」
「まぁそんなとこだね」
「この魚たちはあとどのくらい生きるんだろう?魚の寿命って人間より長かったっけ?」
「さあ?でも少なくとも魚たちはそんなこと考えてないだろうね。魚には時間の概念がない」
「僕はそれってけっこう羨ましいと思ってしまうけど…さゆりは?」
「そうね。私も羨ましい。時間が人を幸せな気持ちにすることってあんまり無い気もするしね」
僕らはこんな会話を延々とする。
その後付き合い始めて三カ月。さゆりにあることを告げられる。
「入院することになった」
「…え?」
「やっぱり…よくはならないらしい。ごめんね」
「そんな、さゆりが謝る必要なんてないよ....」
二人の間に長い沈黙が流れた。
「どんな状況になっても僕はさゆりを支えるよ」
「…うん。ありがとう」
「さゆり、いつも一緒にいてくれてありがとう」
「何?急にどうしたの?」
「いや、何でもない。何でもないけど....!さゆりがいなくなる前にあと1000回くらいはありがとうって言っておきたいと思って」
「…!じゃあ私は2000回ありがとうって言おうかな?」
「え?」
「冗談だよ。でも、私も凪人に感謝しているよ。一緒に頑張ろうね。凪人」
さゆりは強かった。あの日から何も変わっていなかった。
「ねぇ…凪人。私思うんだ。この世界って…虚と実の入り混じった世界だよなって」
「虚と実?」
凪人は尋ねる。
「そう。言い換えると、概念と物質」
さゆりはか細い声で答える。さゆりの身体はずいぶん細くなり今にも消えてしまいそうだった。
「例えばね」
さゆりはそう言って窓を指さす。
「あそこにあるベンチってさ。鳥さんから観たらベンチじゃない訳だよ。この病院だってそう。ハサミだってみんなみんな役割を与えたのは私たちの思考。それが虚と実の共存」
「物質自体は虚にはならないの?」
「…いい指摘ですね。凪人君」
さゆりはこんなときでもジョークを飛ばす。
「物質という概念は虚だから物質は実でなく虚なのでは?という指摘ですね。でも、物質は確かにある。虚は無くてはならない。第一、知覚されるという所業がなせるのは、そこに物質があるからなんだよ」
「…痛む?」
「うん。もうずっと全身が痛い。しびれるとかのレベルじゃないねこれは」
「そろそろ寝た方がいいよ」
「いやだ。凪人と話してるときが一番楽しいもん....それに」
さゆりは間をおいて続ける
「今日が本当に最後かもしれない」
「なんだか最近意識がどこかへ飛んでいくの。意識を「私」と繋ぎ止めているのはこの身体で体が弱ってきているから、変える場所が無くなってしまうの。意識が飛んでいくときは変な感じで息もしていないの」
「さゆり…」
「あのね。凪人。私が死んでもそんなに悲しまないでね。私の事なんて忘れてはやく他の好きな人を見つけてね」
「そんなの…できないよ…できるわけない…!」
さゆりは自分の手を凪人の頬に当てて、涙をぬぐう。
「大丈夫。凪人は私の見込んだ人だから。きっと大丈夫。」
「…」
「凪人。あの日話しかけてくれて」
「....待って」
「一緒にいろんな所に行ってくれて」
「さゆり」
「たくさんいろんな話をしてくれて....ありがとう」
さゆりは眼を閉じる。
「さゆり?さゆり!待って!さゆり!」
呼出アラームが鳴ったのか気付けば病院の人が駆け付けていた。だが、為す術も無く、さゆりは死んだ。僕に伝えたいことを伝えて、死んだ。
その日の夜は月の見えない夜だった。
さゆりが死んだ。降りしきる雨の中、僕は黒いスーツに身をまとい、黒い傘をさして、さゆりの墓の前に立っていた。
凪人が両手に抱えていたのはきれいな桃色の花を咲かせたさゆりの花。
墓の前にそっと花を置き、両手を合わせる。
わかっていたことだった。それでも受け止めきれない自分がいた。さゆりがしてくれる話はどれも面白くて機知に富んでいて、楽しくて、可愛くて…
もう…二度と戻ることはできない…
さゆりはもうここにはいない。
あどけないさゆりの笑顔。この世のどんなものよりも美しいと思った、あの日。
あの日はもう帰ってこない。
僕は死ぬまで忘れない。
絶対に。
絶対に。