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第三章 新月の夜
エリヴェットが空想の世界に想いを馳せている頃、光の国のお城では、美しい青年に成長した一人の王子が、深く思い悩んでおりました。その王子の名前は、シュヴァン。そうです、鍛冶職人エライアスと水の妖精ソフィアの間に生まれた、一人息子でした。
エライアスが亡くなったあの夜、ビジタシオン修道士はシュヴァンを連れてこの城を訪ねました。そして、王様に直接お話し申し上げたのです。ビジタシオンは、この赤子を王子として育ててください、と言いました。エライアスから聴いた不思議なお話の全てを、そのまま王様に話して聴かせました。
「この赤子は私たちの女神、白鳥の女王に仕える水の妖精の息子。彼に与えられた短剣に描かれている白鳥は、この国と王家を守る生き物のはず。あなた方が愛をもってこの子を育てれば、この美しい短剣を持つにふさわしい、立派な王子となるでしょう」
王様は、窓の外で誇らしげに風にたなびく王家の旗を、そしてその紋章の白鳥を眺めながら、じっとこの言葉を聴いていました。王様とお妃様の間には、子供が一人もいなかったのです。二人とももう若くはないのに、次に王様になる子供がいないということは、二人の悩みの種でした。特にお妃様はそのことを心に病んでしまって、長い間ご自分の部屋にこもりきり、病気がちになっておりました。
赤子を引き取れば、お妃様の体調は良くなるかもしれません。王様はシュヴァンを自分の息子として育てることを、ビジタシオン修道士に約束しました。その夜からシュヴァンは王子になりました。お妃様はこのことをたいそう喜び、シュヴァンを本当の息子のように愛おしんで育てました。お城の周りに住む貴族たちは、しばらくお妃様が人前に姿を現さなかったのは、お腹に王子を宿していたからだったのだと考えました。そうしてシュヴァン王子は周りの人々にも受け入れられ、光の国の新しい希望として、心優しく、たくましく成長していったのです。
若者になったシュヴァン王子にもエリヴェットと同じように、幼い頃から自分の心臓と同じほどに大切にしているものがありました。エライアスが贈ったあの短剣です。シュヴァン王子は本当の父親の存在を誰からも知らされてはいませんでしたが、この短剣を眺めるたびに彼は、言いようのない懐かしさや温もり、心の奥底に眠る微香のような記憶がふわりと香り立つのを感じていたのでした。
一言話すごとに真珠を紡ぐのかと思われる清らかな唇と、豊かな影を落とす高い鼻を持ち、冠を頂く漆黒の髪は艶やか、心の優しさをそのままに映し出す青い瞳の輝きは日ごとに増すようで、王子の姿はまさに光の美しさでした。
ところがその光を曇らせる悩みが彼を襲ったのです。きっかけは王様と王子と、その側近の者たちだけに宛てて書かれた、一通の秘密の手紙でした。それは光の国の北にある、影の国の女王から送られたものでした。女王は、光の国と影の国の、途切れてしまった友好関係を取り戻すために、女王の娘リエンヴェルネとシュヴァン王子を結婚させようというのです。もしも、この手紙が来るまでの何年もの間、光の国が影の国に宛てて送っていた、国の救済を申し出る手紙が毎回はねつけられていなかったら、シュヴァン王子は喜んでリエンヴェルネとの結婚を承諾したことでしょう。しかし実際には、影の国をこの女王が治めるようになってから、国の周囲には高い壁を築いて他のどの国とも関わりを持たなくなり、光の国が出した手紙に返ってくるのは、冷たい言い回しの返答ばかり。それが今になって突然、友好関係を取り戻そうというのですから、それは何かの策略であるに違いないのでした。シュヴァン王子は、自ら丁寧にお断りの手紙を書きました。ところがその丁寧さが、かえって王子を苦しめることになりました。手紙を受け取った影の女王は、王子が自ら手紙の最後に綴った名前の文字に、ある呪いをかけたのです。女王は恐ろしい魔法使いでした。
その呪いは、新月の真夜中に姿を現しました。シュヴァン王子が眠りにつくとすぐに、なんと彼の背中に大きな黒い翼が生えたのです。そして窓から飛び立つと、まっすぐに北へと飛んで行きました。影の国では、新月の夜にしか姿を現せない不気味な影のような、煙のようなものが、地面の近くを不安定な動きで飛び交っていました。翼は女王の城へ王子を連れて行きました。今では光の国の人間が誰も見たことのないその城は暗く、重々しい石造りで、周りのものにいくつも奇妙な影を伸ばさせているのは蝋燭ではなく、ぼんやりと意思を持っているかのように浮遊する無数の鬼火でした。玉座の前に放り出されたシュヴァン王子を、女王は冷たく嘲笑うような目で見つめました。彼女はたくさんの黒い花を紡いでできたリボンをシュヴァン王子の首に巻き付けました。そして王子の周りをゆっくりとぐるぐる回りながら、青い唇をほとんど開かずに、わざとあわれっぽい目をして言いました。
「かわいそうに。光の国の連中は、光のない夜にはずいぶんと無力なのね」
王子にもこの言葉は聞こえていました。けれども自分の思うように体を動かせず、息をするのもやっとでしたので、何を言い返すこともできませんでした。女王はふっと鼻で笑うと、黒い鳥の羽根でできた仮面を王子の顔に取り付けました。すると王子はほとんど意識もなくなり、女王の魔力に操られるまま城を飛び立つと、陶器の国に飛んでいきました。王子は陶器の国の上の空まで来ると、そこで首にかけられたリボンの黒い花を一つ一つちぎっては落としていきます。黒い花の花びらは煤でできた膜のように薄く干からびていて、地面に当たると粉々に砕けて飛び散り、細い煙となって空気をたゆたうのです。
そうして一晩中花をばらまき、首にかかった花が全てなくなる頃には、東の空が白み始めていました。翼は王子の城へと向かい、そこでようやく魔力から解放されました。朝になり、ベッドに放り出されたシュヴァン王子はぐったりと疲れ切っておりました。忌まわしい黒い翼は消え失せていましたが、背中の痕は焼けるようで、魔力に操られていた全身がギシギシと痛みました。黒い羽根でできた仮面だけは消えずに、王子のすぐそばに転がっていたのですが、王子はそのことにも気付かず、ベッドに倒れこむなりすぐに眠ってしまいました。少し時間が経ち、シュヴァン王子を起こしに来た従者は、王子の様子を訝しく思いましたが、あれこれと尋ねるのは失礼だと思ったので、何も訊かずにおきました。
この恐ろしい呪いは、新月の夜になると毎回王子を襲いました。次の新月ではガラスの国、その次の新月では鏡の国、また次は陶器の国、というように光の国から生まれた三つの国の上を飛び回って、黒い花を落としていくのです。そして、新月の夜の次の朝に、不気味な仮面とともにぐったりと倒れこんでいる王子の姿に、従者のいたずらな好奇心は募るばかりでした。王子がこの苦しみを誰かに相談しようとしても、それを阻む魔法が彼にとりついていました。このことを口に出そうとすると言葉に詰まり、胸が締め付けられて、次第に息ができなくなってしまうのです。シュヴァン王子は一人で、この呪いと戦わなければなりませんでした。はじめのうち、王子は自分が何をしているのか覚えてはいましたが、女王が自分を使って何をしたいのかは、分かりませんでした。しかし何ヶ月も経ってようやく、その呪いの本当の恐ろしさを知り、そして女王の企みを悟ることになったのです。
ある日、光の国のお城に悪い知らせが入りました。王の従者が重々しく言うことには、
「国王陛下、伝令がお伝え申し上げます。陶器の国、ガラスの国、鏡の国におきまして、近頃似たような異変が起こっております。それぞれの国では、通常の輝きが薄れ、黒い霧のようなものがはびこり、どこからともなく何重にも重なった悲鳴のような叫び声がこだましております。その上、町じゅうの建物や街道にひびが入り、国が崩れ始めているとのことで御座います」。
シュヴァン王子がこの知らせを聞いて思い当たることは、ただ一つでした。あの黒い花が効き目を現し始めたのです。影の女王は、王子を使って三つの国を荒廃させようとしていました。国力が弱まった影の国がそのまま戦っても、光の国に太刀打ちできないことが分かっていた女王は、まず三つの国を自分の支配下に入れることで、光の国を滅ぼそうとしていたのです。そしてその仕事を自分ではなくあえて、王女リエンヴェルネとの結婚の申し出を断ったシュヴァン王子にやらせるほどに、女王は冷酷だったのです。
やっかいなことに、王子の他にもう一人、この悪い知らせを聞いてあることに思い当たった者がありました。それは、シュヴァン王子の従者です。彼だけが、恐ろしい黒い仮面と、新月の次の朝に倒れる王子の様子を知っている人物でした。従者は、三つの国の異変は全て王子の仕業だと思い込みました。そして王子には何も言わずにこっそりと、大臣や司教や、王様に告げ口をしたのです。
「月明かりのなくなった新月の夜、王子はきっと黒い仮面をつけて、何か悪い魔法を使っているに違いありません」と。
このことは、シュヴァン王子をより苦しめました。告げ口は噂となり、噂は目に見えぬ形で、しかし着実に城の中に染み渡っていきました。周りの者の態度はどことなく冷たくなり、皆言葉には出さずとも、王子を疑うような、恐れるような視線を向けるようになりました。
次の新月の夜、シュヴァン王子は首に黒い花のリボンをかけられることを、できる限り拒みました。すると女王は少し驚いたような顔をしてみせて、
「ようやく呪いの意味が分かってきたようね」
と言いました。そして、魔法で難なくリボンを巻きつけてしまうと、こう付け加えました。
「私はお前に一度チャンスを与えたわ。これはお前自身が選んだ答えよ」と。