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小さな妖精譚―白いゆりの妖精

 もう何年も前のこと、森の中を流れる川のそばに、ひっそりと、一株の白いゆりが咲きました。とても上等で美しい花を、八つもつけていたのに、誰の目にも触れません。そこは静かな川でしたから、生き物たちはほとんど来なかったのです。
 このお話は、その美しいゆりを咲かせた妖精が、川の調べに乗せて、静かに語った物語です。

 物語の始まりは、夏の初めの夜明けでした。妖精は、谷底を流れるゆったりとした川のそばを選んで、そこに一つ、彼女がこれまでに咲かせたことのないほど美しいゆりを咲かせました。花びらはしっとりとして柔らかく、まだ夜明け前の白い気配をたっぷりと溜め込んでいるようでした。朝日と同じ色をした雄しべは、上品に輝いていました。くるりと可憐に反り返った花びらの先には、清らかな涙のように朝露が下がり、辺りにはこの上なく優しく、甘く、どこか寂しいような香りが漂いました。
 妖精はこの素晴らしい花を咲かせたことを、心から誇りに思いました。彼女は、その花と同じくらい美しく、清らかでした。彼女はこのゆりを、自分一人で見ているのは残念だと思いました。世にも立派なこのゆりは、見る者の心を落ち着け、癒し、憂いを払う力を持っていたのです。彼女はこの花を、虫たちにも動物たちにも、人間たちにも見て欲しいと思いました。妖精は辺りを探して、誰かの来るのを待ちました。

 ところがこの谷底は、実にひっそりとしていました。本当はそれが、花にとっては良いことでもありました。花は落ち着いた、空気の良いところが好きなのです。けれども妖精は風よりも身軽な体で、谷を登りました。するとそこに、一匹のテントウムシがいました。妖精はうたうように言いました。

「テントウムシさん、おいでなさいな
 きれいなゆりが咲いたのよ
 森の奥、静かな谷底で
 夜明けと同じ色をした
 きれいなゆりが咲いたのよ」

 テントウムシはこれを聞いて、その素晴らしいゆりの花を一目見てみたい気持ちになりました。けれどもそれ以上に、谷底へ行くのが怖いという気持ちがありました。川の近くへ行って、うっかり流されてしまっては大変です。このテントウムシは、ずっと森の上のほうに住んでいたのです。テントウムシは谷を降りるのが怖いと言う代わりに、こう言いました。

「夜明けの色をしているのなら
 輝く星を持っているの?
 私は七つも持ってるわ。
 私のよりも立派な星を
 そのゆりが持っていないなら
 見に行く気にはならないわ」

 妖精はがっかりしてしまいました。ゆりの花びらは雪のように真っ白で、一点の班もなく、星と言えるようなものはなかったからです。妖精は諦めて、テントウムシにさようならを言いました。

 妖精は森の中を歩きました。すると、一羽のウサギが飛び出してきました。妖精はウサギにも、うたうように言いました。

「森のウサギさん、おいでなさいな
 きれいなゆりが咲いたのよ
 森の奥、静かな谷底で
 夜明けと同じ色をした
 きれいなゆりが咲いたのよ」

 ウサギはこれを聞いて、それほどきれいなゆりならば、一目見てみたいという気持ちになりました。けれどもウサギは、とてもおなかが空いていました。大急ぎで何か食べられるものを探していたのです。そこでウサギはこう言いました。

「僕はおなかが減っている
 タンポポ、アザミにシロツメクサ
 おひさまの下の野草なら
 いくらだって食べられるけど
 ゆりを食べる気にはならないな
 ひっくり返って死んじゃうもの」

 妖精はまたもやがっかりしてしまいました。どんなに美しいゆりでも、もちろんウサギが食べるのには向きませんし、だいいち、大切に育てたゆりを食べられてしまうのもやりきれません。妖精は、ウサギにさようならを言いました。

 妖精はゆりの咲いているところへ戻って、水をやったり風を当てたりと、丁寧にお世話をしてやりました。妖精がうたをうたうと、ゆりはますます美しくなりました。すると妖精は元気を取り戻して、今度は川を下って行ってみようと思いました。ずっと行くと村に出て、人間たちに出会えるかもしれません。
 妖精は、ときどき魚や川の妖精たちに挨拶したり、おしゃべりをしながら、流れの上を跳ねていきました。彼女は楽しくなって、ますます速く、流れを跳び越すように飛んでいきました。するとようやく、森は終わって、なおも流れを下ると家々が見えてきました。彼女は、うたを聴いてくれる人間を探して、村の中に入っていきました。
 
 村にはたくさん人間たちがいて、それは賑やかでした。ところが困ったことに、人間たちは誰も、妖精のことが見えない様子でした。そうです、人間の中で、妖精が見える人は少ないのです。森から初めて出てきた妖精は、そのことを知りませんでした。彼女はほとんど一日中、せわしく動き回っている人間たちに向かって、うたうように同じ言葉を繰り返して言いました。

「村の人々よ、おいでなさいな
 きれいなゆりが咲いたのよ
 森の奥、静かな谷底で
 夜明けと同じ色をした
 きれいなゆりが咲いたのよ」

 けれどもその言葉に耳を傾ける人は、ついに一人もいませんでした。妖精は心底がっかりしてしまいましたが、もうできることはありません。彼女はとうとう諦めて、森に引き返す道を辿り始めました。
 そのときです。どこからか、小さな声が聞こえてきました。

「それほど美しいゆりならば
 どうか私も見てみたかった
 この羽が軽く羽ばたくうちに
 この瞳が光を宿すうちに
 さようなら、私はもうおしまい
 どうもありがとう
 すてきなうたを、最期に……」

 見ると、妖精の足元で一匹の美しい蝶が、今まさに、最期の羽ばたきを終えたところでした。蝶の羽は欠けもせず、汚れもせず、本当に美しいままです。ゆりの妖精は泣き出しました。

「ああ、蝶々さん、さようなら
 きっとあなたは夜明けの国へ
 かぐわしいゆりの、咲き乱れる国へ」
 
 人間たちは、お構いなしにそのすぐそばを通り過ぎてゆきました。ゆりの妖精と亡くなった蝶は、何度も踏まれそうになりました。人間たちには姿が見えないのですから、それも仕方ありません。ゆりの妖精は、ひとしきり泣いたあと、涙を拭いて、両の足ですっくと立ちあがりました。そして、覚悟を決めました。彼女は蝶を抱きかかえて、歩き始めました。蝶の羽は、まるで花びらのように、しっとりとしていました。

 妖精は、長いこと歩きました。川の流れのそばを、蝶を大切に抱きかかえて、歩いて登って行きました。日がとっぷりと暮れても、歩き続けました。暗い夜の森の中でも、歩き続けました。そうして、夜が明ける頃、彼女はゆりの咲く谷に帰り着きました。一晩、彼女がそばにいてやらなかっただけで、ゆりの花は元気をなくしていました。妖精は、蝶をゆりの花のそばに埋めてやりました。

 谷底が、朝の光でいっぱいに満たされました。ゆりの妖精は、新しいうたをうたいました。すると、ゆりの花はたちまち元気を取り戻して、昨日よりもますます美しく咲き乱れました。そこは静かな谷ですから、美しいゆりは、誰の目にも触れません。今でも、その蝶のために、ゆりは清らかに咲いているのです。かぐわしい香りを漂わせて。

「涙の谷にも 花咲き乱れ
 香りもゆかしく 喜び満たす」


おしまい

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