人生に目標は必要なのか?
先日、知人同士の飲み会で、あまり親交がなかった知り合いからふと「斉藤さんはどうなりたいんですか?」と聞かれた。
その言葉を聞いて、ぼくは就活時代のことを思い出した。
とあるベンチャー企業を受けた時に「それで、君は将来どうなりたいの?」と聞かれたのだ。面接を担当していたデザイナーの方は、スティーブ・ジョブズに憧れていて、「俺はいつかiPhoneのような製品をデザインして世界一のクリエイターになりたい。」と言っていた。
ぼくは「特にどうにもなりたくないです。」「創作活動が続けられれば地位とか名誉は別にどうでも。」と返答した。そのあと面接官からは「はぁ...それで優秀なクリエイターになれるのかな?」というため息まじりの返答があった。面接の結果は不採用だった。ベンチャー企業に入社するには、強い意志や目標が必要だったのだろうか。
飲み会での何気ない質問で、7年前の自分が今の自分と重なった。就活生からベンチャー起業家へと立場が変わった今でも、価値観は意外と変わらないようだ。創作活動が続けられればそれでいいという考えは、今も昔も変わらない。ガッツリ金を稼いで億万長者になりたいとは思わないし、世の中を変えてやろうとも思わない。自分のペースで作品を作っていき、少しずつでも評価をしてもらえたら嬉しいなという等身大の価値観しかない。
デカい目標を持って生きることが正解だと信じてる人は、他人にも目標を持つことを押しつけてきがちだ。目標を持たない人を見下すフシがある。
ぼくはデカイ目標を持ったり、何者かに成り上がろうという野心を持つ人を否定するつもりはない。「俺にはこういう目標があるんだよね」「こんな人間になりたいんだ」という話を人から聞くのは、どちらかというと好きな方だ。
ただ、「目標を持て」「野心を持て」という価値観を押しつけるのだけは勘弁してほしい。そういう人に限って、身の丈に合わない無茶苦茶な目標設定をしている場合が多い。達成できない目標の沼にいる不安をかき消すために、他人を同じ沼に引きずりこむ行為はやめてほしいものだ。
これは特定の人物に対する批判ではない。どちらかというと、「目標を持たねばならない」という洗脳教育を人々に施してしまった社会に対する批判だ。
テレビ、雑誌、ネット、SNS...。どんなメディアを見ても、大きな目標を持って努力する人がもてはやされ、発信力を高めていく。社会には、家族と休日を過ごすだけで満足なサラリーマンや、友達と学校に通えるだけで幸せという女子高生、任天堂のゲームさえあれば生きていける小学生など、それだけで幸福に生きている人がたくさんいるはずなのだが、どうやらぼくが普段目にするメディアには生息していないらしい。彼らは伝説の生き物なのだろうか。捕まえた人がいたらぼくに連絡をしてほしい。一攫千金をプレゼントしよう。
人生がゲームとするならば、ぼくはマインクラフト(レゴブロックのようにブロックを使ってものを作るゲーム)のようにそれをプレイしたい。なんの目的もなく地を切り開いてはブロックを積み、なんとなく出来上がったものに名前をつけ、またそれを壊し...こんな風に、破壊と創造を楽しみたい。RPGのように「魔王を倒す」「世界を救う」といった大きな目標を設定し、そこから逆算するようにストーリーを進めていく人生は苦手だ(テレビゲームとしてのRPGは大好きだが)。
目標や野心を持ち、それを公に披露して共感を集めながら夢を実現する。そういう生き方が自然とできる人は今のご時世はたいそう幸せだろうなぁと思う。
目標や野心を持ったりそれを人に言うのが苦手だという一方で、作品を評価されたいと思うのはエゴだろうか。そういうタイプの人は、どう生きればいいのだろう。
このような悶々とした気持ちを吐き出すチャンスが7年ごしに、飲み会の何気ない会話という形で回ってきたのだが、すでに飲みすぎていて上手く答えられたかどうか記憶が定かでない。
二日酔いの気持ち悪さが消えても、この悶々とした気持ちは消えなかった。
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@斉藤ノブヨシ