私の履歴書

私の履歴書 
この記事は福岡県青年司法書士協議会の機関誌に寄稿したものを加筆修正したものです

1 学生時代
(1)小学生
 福岡の片田舎に生まれた私は自他共に認めるエキセントリック少年としてすくすくと育ちました。が、中学校がなぜだか厳格で3年間のうちに小学生時代に培ったエキセントリックぶりが全てそぎ落とされ、そこら辺にいる中学生になっていました。
(2)高校生
 第一希望の公立高校に落ちた腹いせで一生懸命勉強しました。一生懸命勉強した理由はそれだけでなく、祖父の愛人の男(今考えてもよくわかない)が家に来て暴れたり、叔父に金を貸したヤミ金と対峙したりするなどして、法学の知識の必要性を痛感したからというのもあります。その頃、資格の雑誌を見て司法書士になりたいなと思いました。今だったらどっちもやっつけられると思います。愛人を作るような祖父なので事業でも大きな借金をして、自宅を売って返済しました。
(3)大学生
 早稲田大学法学部を目指しましたが残念な結果となり、浪人するお金もないので仕方なく明治大学法学部に進みました(今では明治でよかったと思っています)。いつしか司法書士になる夢は忘れ去りました。風変わりであった私はなぜだか国際関係論に興味を持ち、本を読みあさった結果、「労働(ノドン)1号」というミサイルが日本に飛来してくるかもしれない危険性に気がつきました。大学の友人に「ロウドウ1号(当時はノドンとは読めない)が飛んでくる、気をつけろ!」と吹聴して回るも、誰からも相手にされませんでした。その後、私の(いや専門家の)予測は的中し、平成5年5月にノドンが能登半島沖に墜落しました。臆病な私は自分や家族をノドンから守るため防衛官僚になる決意をしました。
 防衛官僚になるため留年してまで受験勉強に勤しみ、国家公務員Ⅰ種試験に合格はしましたが、防衛庁からは内定を頂けず、すごすご福岡に帰ることにしました(ちなみに、公安○査庁という官庁から内々定を頂きました。学生時代に朝鮮戦争と湾岸戦争を比較したレポートを書いて、社会人の前で発表したことが評価されたようです。あのまま奇跡的に採用されていたら今頃立派なスパイになっていたかもしれません)。

2 公務員時代
 福岡県の教育委員会の職員として、筑後地区の山村の小学校に派遣されました。当時、生徒数60数名、職員数10数名の長閑な学校でした。ここでは、事務職員としての仕事の他に、運動会、キャンプ、地域のマラソン大会などに参加し、今にして思えば私の人生の中で最ものんびりとしたときであったように思います。が、ここでも風変わりな私はいずれ遂行される公務員改革の恐怖に怯え、不動産鑑定士になるための受験勉強をはじめました(学生時代の教訓に学び、「いずれ公務員はリストラされる気をつけろ!」と吹聴して回ることはありませんでした)。

3 鑑定事務所勤務
 平成9年に不動産鑑定士の2次試験に合格しました(一発合格です)。意気揚々と就職活動をしましたが、その頃は山○証券が経営破綻した時期で就職先がなく、公務員を続けながら就職活動をするという全く持っておかしなことをやっていました。
 就職先が決まり、久留米市の鑑定事務所と福岡市の鑑定事務所で実務の経験を積みました。
 鑑定事務所では、通常の不動産鑑定評価のほか、地価公示、地価調査、相続税路線価の評価、固定資産の評価、競売の評価というオーソドックスな鑑定事務所でのお仕事のほか、所長が再開発に長じていたことがあって、市街地再開発事業に関する仕事のお手伝いもしました。今でも、自分が担当した再開発ビルに行くと、少し感慨深いものがあります。
 不動産競売の評価では、いわゆる「占有屋」にも遭遇しました。車で現地に乗り付けた瞬間、事務所から屈強な男性5~6名が現れ、車を取り囲まれ、途方にくれたこともありました(暴対法施行前の話です)。政治結社を名乗る右翼の街宣車が駐車されている対象物件に所長と執行官が入っていき、30分以上出てこなかったときは本気で警察に電話をしようと思いました。今となっては楽しかった?思い出も多いですが、正直、競売の評価は心が痛みました。所長から「お金を払えなければ自宅が取られるのは資本主義の掟だ。お前もいい加減大人なのだから、それくらいわかれ」と何度も言われましたが、心の整理がつかないままでした。このとき、もしかしたら法律家になれば、もっと別の視点で困っている方々のお手伝いができるような仕事ができるかもしれないと考えるようになったのだと思います。

4 受験予備校講師(大原簿記専門学校)
 私にはサラリーマン経験がなかったし、まだ30代前半で、鑑定士として独立するのも早すぎるだろうと思ったので、受験予備校の講師として就職しました。講師は、講義のほか、営業活動もしなければならず、毎月のノルマに追われ、売り上げが上がっていない月には上司からどやされるという典型的な「サラリーマン」の経験を積むことができました。
講師としての幅を広げるために資格試験も挑戦しました(いや、させられました)。入社した年に、宅建、マンション管理士、管理業務主任者の試験に合格しました。結果、私のあだ名は資格マニアになりました。
講師をやることによって、相手にわかりやすく伝える(あるいは伝えようとする)技術を学ぶことができました。そのほか、別府にある私立大学の非常勤講師を経験させてもらったり、人前で話をしてもあまり緊張しなくなったりと、ここでの経験は現在も役に立っていると思います。

5 司法書士を目指した経緯
 「サラリーマン」の経験も積んだことから(サラリーマンがしんどくなったことから)、上記予備校の非常勤講師になり、司法書士の受験勉強を開始しました。不動産競売のことが頭から離れなかったのだと思います。妻も子もいたので、働きながらの受験勉強でしたが、何とか4回の受験で合格できました。  
 受験期間中に、父の会社が倒産しました。父のためにマイホームを担保として提供していましたので、自分の家が競売申し立てされました。色々手を尽くして任意売却で乗り切りました。鑑定事務所で得た知識や経験、司法書士の受験勉強で得た知識が大変役に立ちました。
 司法書士なって母の自己破産の書類作成をしました。当時はかなりつらそうでしたが今では孫も3人いて楽しく暮らしています。
 仕事を失った父は10年ほど行方不明になっていました。多くの方の協力により死亡の直前に再会を果たすことができ、昨年見送ることができました。

4 最後に
 今では、司法書士・行政書士として楽しく仕事をやっています。令和3年3月より第15回実務修習生として不動産鑑定の勉強を再開しました。可能な限りではありますが、困っている人の役に立ちたいなと思いながらお仕事をさせていただいています。




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