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夢うつつに思う。

設定しているアラーム音とは違った音がして、父からショートメールが届く夢を見ました。あ、と思って開こうとしても開けないまま目が覚めました。悔しい、旅立った父からのメッセージを受け取れなかったと思いました。もちろん、わたしのスマートフォンにメールなんて届いていません。

父に向けて、独り言を呟くようになりました。会うことはもう叶わないと思うと無性に会いたくなります。明日は病院に面会の予約を取っていた日でした。もしかしたら、わたしのこともわからなくなっているかもしれないけれど、それでも会ってこようと思っていました。けれど、もう間に合いませんでした。

60歳男性の透析患者さんの余命は10年弱だそうです。父は58歳から透析を受けていた記憶があります。そうすると、12年以上頑張ったのでした。しかも、5年前までは現役で働いていました。70歳で死んで欲しくなかった、と思うと悔しくてたまらないけれど、よくぞ70歳まで戦ったと思うと、賞賛したい気持ちになります。当初、東京オリンピックまで生きたいと言っていました。1年延期した東京オリンピックが終わってからすでに2年、父は生ききって、そして静かに旅立ったのでした。

気づくと父の写真を眺めています。今日からは仕事に戻りました。「お帰りなさい」「お久しぶり」「無理しないでください」あたたかな言葉をかけてくださる人もいました。生徒には、「身内に不幸がありまして、お休みをいただきました。皆さんにはご迷惑をおかけしました。生きていると色々あります。でも頑張っていこうと思います」と語りました。生徒の気遣わしげな表情を温かく感じました。とても甘えてくる生徒がクラスに一人いて、今日はひたすらわたしについて来るので、雑談をたくさんしました。大変に可愛いですね。元気をもらいました。

父の遺骨の入ったペンダントに語りかけます。何もない時にだって気付けば語りかけています。瞼を閉じれば、父の姿が浮かびます。スマホを手にすれば、父の写真を見ています。気づけば、いつでもどこでも父が浮かんでいます。これはもう、父がそこいらじゅうにいると思ったほうがいいのかもしれません。

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こんなふうに考えてしまうわたしは、まだ全く立ち直っていないことを自覚しています。年明けから眠る時間が増えました。何にも考えたくなくて、寝ていました。寝ている時間だけは苦しみから解放されていました。今も同じです。休みの日は寝てばかりいます。

子どもの勉強は、だけどわたしにとって最後かもしれない希望の光です。父は、祖父、すなわち父の父をお風呂の事故で亡くした時に、まるまるした男の子を産んでくれと言っていました。当時は結婚もしていませんでしたが、実際、その3年後に全然まるまるしていない男の子を授かりました。子どもは生まれてから今日までずっと華奢な子ですから、ちょっと思っていたのと違ったかもしれませんが、父はとても可愛がってくれました。父がとびきり喜んでくれたわたしの子どもが幸せになるために、わたしはなんでもしなくてはならないと思います。

受験は小さなことかもしれないけれど、子どもにとっては最初の試練です。また、中高時代に一生の友達ができるかもしれません。行ってみないとわからないけれど、とにかく子どもの行きたい学校に行ってほしい、自分が6年通うと決めた学校を全うし、できることなら誇りに思ってほしい、その支援は、わたしの最後の希望の光。父から私、そして子どもにつなぐ命です。大切に大切に、これからを生きて行きたいと思います。