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わたしには、わたしにできることしか、できないけれど。

やや昼夜逆転気味です。だから、仕事の時間は少ししんどいことも多いですが、今は仕方ないと思っています。眠りたいと思う時は、仕事の時間でない限り、コンコンと寝ています。家族は特に何も言いません。今のわたしを癒せるものは眠りしかないから。父の死からもうすぐ一月が経過します。

先程まで、子どもの充実しない勉強にイラついていましたが、夜が更けていくとともにどうでも良くなってきました。そもそも子どもの勉強のことは、あくまで子ども自身の問題であると思います。だから、子どもに勉強は促すけれども、そして子ども自身を助けてくれるような経歴となるに越したことはないけれども、究極はどうなっても問題ないと思います。それよりは異常なほどの長時間勉強であっても、そこからすくい取れる学びの力を自分に蓄えてほしい。きっと長い人生に役立つから。

そんな子ども自身の問題である子どもの勉強よりも、今のわたしにはこの世から去った大切な人々との対話が重要なのです。今、父のことを思い出すことは自分の中で父という存在の物語を完成させる大切なプロセスだと思っています。父がこの世に存在しなくても、わたしの意識に残る以上、何となくフェードアウトしてしまうことは出来ないし、もしそんなぞんざいな扱いをしたらこの後のわたし自身もうまく生きていけない気がします。

そしてこの世での縁はそう強いものでなくても、わたしの印象に残る重要な存在が幾人かいます。すでに過去の関わりとなってしまっていても、風の噂にこの世を去られたと聞いた時に、心にぽっかりと穴があいたように感じる人。森鴎外の孫で外科医の小堀鴎一郎さんは、著書で「二人称の死」という言葉を使っておられますが、その死が特別なものに感じるそんな存在の人の死。もう二度と会えないと思うと、様々に悔いが残り、かつての自分に物足りなさを、そして今の思いに悔しさを覚えます。

いずれわたしも死ぬ。死ねば父をはじめ、そうした方々に会えるのならそれも良いと思う。けれど、死んだ後のことはわからないのだから、不確実な死後のことよりも、今は今を生きるしかない。自分にとって素通りできない存在の人が亡くなれば、生きている間にどんなに密度の濃い関わりだったとしても必ず悔いは残るから、どう生きていけばいいのかということに正解はない。ないけれど、今を精一杯生きるしかない、そう思うのです。

今を精一杯生きることは、やはり子どもの生きていく力をつけてあげることと、仕事をきちんと全うしてわたしのできることで、周りの人の力になっていくしかないわけで。勿論、わたしには、わたしにできることしか、できないけれど。