「日本人とユダヤ人」講読
野阿梓
第九講 ヤムニア会議
1
文庫版第七章に、
「ユダヤ人が庶民一人一人に至るまで、はっきりユダヤ教徒という自覚をもつに至ったのは祖国喪失の後である。事実、旧約聖書が最終的に編纂されたのは紀元一〇〇年のヤムニアの会議においてであり、タルムドの編纂はそれ以降である」(一一五頁)
――とあります。
さて、ヤムニア会議とは何でしょうか。
というか、そもそも、旧約聖書とは一体どういうものだったのでしょう。
一般の日本人は旧約と新約の区別が付かない人が多いと思います。旧訳・新訳と誤解している人もいますし、どだい、新約聖書が出来たから、旧約聖書と呼ばれるようになったのです。つまり「(イエスによる)新しい契約(New Testament)」があって、だから以前のものを「古い(=旧)契約(Old Testament」と呼ぶようになった。
これを言語学では「レロトニム(後付け語、再命名)」と言うそうです。たとえばジャイアントパンダが見つかって、そちらがポピュラーになったので、それより前からいたパンダは「レッサー(=より小さい)パンダ」と呼ばれるようなものです。
キリスト教的な「新しい契約」の概念や、それの参照元であるユダヤ教の「旧い契約」など、クリスチャン以外には判るべくもないし、誤解されても仕方ないでしょう。書店に並んでいる聖書を一瞥だけして、中身まで確認しないで、それが一冊の本だから、中に二つの文書が収録されていることさえ想像だにしない人だっていると思われます。人間、自分の人生に関係のない分野であれば、そういう本の読み方だって、批判されるいわれはありませんから、こうしたことを海外では、教養以前の一般常識なのだ、と言われても「?」な人が多いのではないかと思われます。
神話時代は措くとして、モーセ率いるユダヤ人のカナン侵攻がいつだったか……第一講でも触れたように、それがもし紀元前一二〇七年の事績を伝える「メルネプタの石碑」にある時代からだったとしても、算えて三千年ほどの、内千年の歴史が「旧約聖書」にあり、二千年前の数十年間の記録が「新約聖書」にある。といった面倒な区別など、クリスチャン以外の一般人には、およそ無縁の事がらでしょう。
しかしながら、これは、ユダヤ教徒からすれば腹立たしいはずです。こっちの方が古いし原典なのに、新参者が出てきて名乗った手前、伝説時代を含めれば数千年も前から旧約に相当する文書は厳然として存在してあるのに、「古い契約」などと後塵を拝する羽目になるなど。しかし、初期キリスト教会が(コリント書簡での言及などから)、イエスと神とのちぎりを「新しい契約」と名付けたことで、旧約は旧約になってしまったわけです。もっとも、これを日本で憤るユダヤ人は少ないと思われます。統計では日本に在住するユダヤ人は八百人ほどしかいないからです。まあ、だからといって、新約が出来たから、そっちは旧約です、はないよな、と思わないでもありません。
ただし、ユダヤ人の側にも問題があって、確かに旧約文書は長いことありましたが、それが正式に統一した文書として宗教的に編集されたことはなかった。いわゆる編集された「正典」ではなく、「マソラ本文(ほんもん)」として、宗教的、歴史的、その他の文書として、漠然とした文書群として在っただけなのです。マソラとはヘブライ語で伝統の伝承を意味します。
とはいえ、マソラ本文の写本は恣意的に追加や上書きされたわけではなく、老朽化した写本はゲニザと呼ばれる会堂内の墓地にある保管庫に収蔵され、手続きを踏んで焼却されており、複製としての写本は、だから残存しません。しかし、その際には必ず厳密な規則に基づき「記憶に頼って記さず、元の写本を読んで写すように」とのルールに従って受け継がれたため、非常に古い文書も新しい文書も、内容的にはほぼ同一です。死海写本内のテキストが照合しても殆ど内容が変わっていないことで証明されています。
むろん、それ以前にも、旧約聖書は七十人訳(LXX)がありました。当時、地中海文明の華と謳われたアレキサンドリアにおいて、紀元前三世紀から紀元前一世紀までにLXXとしてギリシャ語へと翻訳したのは、確かに作業の主体はユダヤ人のラビたちでしたが、それを命じたのはエジプトのファラオであり、ユダヤ人の文書ではありませんでした。これでは正統性を主張するのはむずかしいでしょう。
第五講の「ギデオン」の項目でも述べたように、「旧約聖書(タナハー)」がユダヤ人自身によって「正典」としてまとめられたのは、紀元一世紀ですが、「正典」として編纂されたのは、ユダヤ戦争で、紀元七〇年に聖都エルサレムが陥落し、再建されたソロモンの神殿がローマ軍によって破壊されてからでしょう。バビロン捕囚も民族離散の危機でしたが、今度はそれから立ち直って、ようやく神殿を再建し、さらには、まがりなりにも王国として復興した後の壊滅ですから事態は深刻です。
形ある神殿が、文字通り跡形もなく破壊された以上、そしてその復建が困難である以上、民族的アイデンティティを保つためには言葉によって民族を一つにまとめる象徴が必要だ。指導者はかく考えて、タナハーを編纂したはずです。
ちなみに「タナハー」とは、セム系言語の常として子音だけで母音がないため、書かれた文字だけではどう発音するのか不明なため、収録された文書「モーセ五書(トーラー(=律法の意))」「ネビイーム(預言書)」「ケトゥビーム(諸書)」の各頭文字、TNKに母音を補って「タナハー」と通称しています。
ユダヤ戦争で神殿が破壊されたことで、それまで神殿の権威に拠って大祭司職などを専有していたサドカイ派は衰退し、代わって、会堂(シナゴグ)に拠っていたパリサイ派が台頭します。ユダヤ戦争には第三勢力のエッセネ派も加わって戦ったとありますが、戦後、エッセネ派がどうなったのか、よく判りません。参戦したなら壊滅したと推察されますし、実際、発掘されたクムラン洞窟内の死海文書にはユダヤ戦争およびそれ以後の記録は見つかっていません。平和主義者であるナザレ派は、おそらくこの戦争には加わらず、勢力を温存したのだと思われます。また、この後、バル・コクバの乱が起きた時には、彼がメシア(=救世主)を名乗ったため、イエスをメシアと定めるナザレ派は乱に加わりませんでした。
2
戦争を生き延びたラビたち宗教指導者たちは、エルサレム陥落から二十数年後、紀元九〇年代に、どうにかユダヤ戦争の余燼がおさまった頃、ローマ帝国の許可を得たうえで、ヤムニアに学校を建てて、会議を開きます。これがヤムニア会議です。ヤムニア(Jamnia)とは現在のヤブネ(Jabneh)のギリシャ語読みで、大体、イスラエルの南西部、テルアビブの南に位置する沿岸都市です。エルサレムから陸路で六〇キロほど離れています。
ヤムニア会議(Council of Jamnia)とは名前はそうですが、一般的な意味の会議が開かれたわけではなく、そこではユダヤ人のラビによる評議会が主宰する長い議論のはてに、マソラ本文から(旧約に相当する)ヘブライ語聖書の「正典(カノン)」が作られた、と信じられてきました。七〇年に「日本人とユダヤ人」が書かれた当時は、これを疑う人はあまりいなかったと思われます。
ヤムニア会議での重要な決定は、旧約聖書のギリシャ語訳である七十人訳聖書(LXX)の検討で、そのうち幾つかの文書はヘブライ語聖書にルーツを持つものではない、としてLXXが正統なものではないと排されました。残ったものが「正典」であり、それ以外は「外典」とされました。
またヤムニア会議で、この頃、すでに台頭しつつあったユダヤ教ナザレ派もユダヤ教の会堂(シナゴグ)からの排除が決定されたと言われています。ユダヤ教とキリスト教が岐れた時でもあったわけです。
細かいことを言うと、「ベン・シラ書」や「マカバイ書」を外典として正典から斥けた、とか「伝道の書」と「雅歌」の正統性が長く議論となって、紀元二世紀まで決定できなかった等、いろいろ細部では異同がありますが、今の新共同訳に収録されている文書全てが、この時に正典とされています。
また、ヤムニア会議の間にも、紀元一一五年から一一七年にかけて、第二次ユダヤ戦争(いわゆるバル・コクバの乱)が起きたため、ラビたちはヤムニアを捨て、ガリラヤに移って会議を続けました。
ところで――、
以上は七〇年当時まで信じられてきた事実です。
今ではそうではない。この本が刊行されて半世紀たちますが、その間、誰もここに対して指摘はしてこなかったようです。さらに言えば、不思議なことに、ウィキペディア日本語版の「ヤムニア会議」項目には、この学説をほぼ全肯定した記述がなされています(英語版では、まるで異なります)。
しかしながら、この学説は、二世紀末に編纂されたミシュナーの記述やその他の文献から解き明かしたユダヤ歴史学者ハインリッヒ・グレーツが一八七一年に唱えた論に基づいています。画期的な論文だったために、十九世紀から二十世紀半ばまで、これを疑う学者がいなかったようです。ユダヤ人の碩学がユダヤ教の聖書について、長大な論文を著したのだから、疑問の余地はない、と思われたのか。当然ながら、ベンダサンの記述もこれを元にしています。
グレーツはポーランド生まれのユダヤ人で、ドイツのイエナ大学で博士号を取得し、その後ポーランドはブレスラウのユダヤ正教学校の校長をへてユダヤ神学校で歴史学の教鞭を執った人ですが、シオニズム運動に近い民族主義者でもあり、主著「ユダヤ人の歴史」では強硬な反キリスト教論を唱えたことでも有名です。十九世紀は大らかな時代だったのか、彼はそれだけキリスト教について批判的でありながらも、晩年近く、カトリックの牙城とも言うべきスペインは王立アカデミーの名誉会員になっています。十九世紀中葉までは、反ユダヤ主義(アンチセミティズム)はまだ未然の状態にあり、グレーツは幸運な時代に本を著し、そして死去したようです。「反セム主義」という用語の初出は無神論者のエルネスト・ルナンが書いた「イエス伝」で、これの刊行は一八六三年のことでした。
ところで、この「ユダヤ人の歴史」という大著(全十一巻ある)を刊行したことによって、グレーツは、初めてユダヤ人自身の視点から包括的なユダヤ人の歴史を書いた最初の歴史家の一人に算えられるのですが、その大胆な意見に対しては批判も多く、特に一九六〇年代以降、ヤムニア会議において、マソラ本文の定義づけから「正典」を選別していった、という学説は、その後の検証では過ちとされ、現在では誰も信じていない、という状況だそうです(英語版のウィキペディアの項目による)。一説には、ユダヤ教正典の制定は、ハスモン朝時代に遡って行われた、とも言われていますが、文献的証明がないので歴史の闇の中です。
しかし、とにかくヤムニア会議で正典が決定づけられた、という学説は今では否定されているのです。英語版のウィキペディアも書き換え合戦が多いのですが、根本的なところでは、現行テキストが尊重されているようです。しかし、NHKの「一〇〇分de名著」(二〇一四年)などではヤムニア会議説を採っていて、日本国内では、まだそちらの学説が主流のようです。
二千年ほど昔の話ですから、異論異説があるのは当然でしょうが、ここまで当否が真っ二つに分かれている本の評価が、和英のウィキペディアの同一項目で併立しているのは異状に見えます。出来れば統一してほしいものですが、ウィキペディアンの頑迷な人は本当に頑迷で、最終的には不毛な書き換え合戦になるそうですので、当分、日本語版はこのままでしょう。私は、できるだけ和英両方を見て自分で判断するようにしています。
3
アカデミックの世界では(理系文系を問わず)十九世紀に正しいとされた学説が、二十世紀で完全に否定される、といったことは珍しくありませんから、私は両方を見比べて、英語版の方の説を採ることにしました。つまり日本語版の項目の記述は間違っている、と判断したわけです。誰か判りませんが、この項目の日本語版記述者は、上山安敏著「宗教と科学、ユダヤ教とキリスト教の間」という二〇〇五年刊の本一冊を典拠として上げて、上記のような論を展開していますが、上山安敏氏は法学者で、宗教学が専門ではありません。この項目の書き手は、日本語版とは反する英語版項目を完全に無視しているので、あまり信用できません。聖書学や宗教学に関しては、やはり海外の方が遙かに先進的ですから、それを全く(批判的にすら)触れもしない、という態度は感心できません。
上山安敏氏は大正一五年生まれ、京都大学の法学者で、ウェーバーの影響下にあり、社会学的手法により専門の法学以外の著作が多い由です。が、しかし、私は、ごく最近、彼に似た人たちが著した「ふしぎなキリスト教」なるトンデモ本を読んでいるため、余計に信用が出来なくなりました。一言でいえば、ウェーバーは十九世紀の偉大な学者であったが、二十世紀以降のその追従者たちは、学者としては概ね二流以下のようだ、というのが私の感想です。
なお、ハスモン朝は、第五講のギデオンの項目でも触れたとおり、紀元前一四〇年頃から紀元前三七年まで(ヘロデ朝に取って変わられるまで)、セレウコス朝の支配から脱して一時的にもせよ、ユダヤ国が復興した時代ですから、これを採ると、ユダヤ聖書の正典編纂の時期がかなり早くなります(といっても、ヤムニア説で紀元一世紀から二世紀、ハスモン説で紀元前一世紀から前二世紀の差ですが)。
そのハスモン朝説にも何の証拠もない以上、ユダヤ教の聖書の正典化がいつだったかは、今のところ判らない、と判断するのが最善とは言わないまでも次善の策でしょう。判らないことを、あれこれ詮索するより、それが紀元前二百年であろうが紀元百年であろうが、関係なく(どっちみち今から二千年近く前の出来事なのですから、誤差三百年程度でどっちに特定されたところで大して意味があるとは思えません)、正典化される前からあった文書が、それがいつであれ、正典化されてから、ユダヤ人の民族精神にどういう変化を及ぼしたのか、それを見極めることの方が大切だと思われます。
いずれにせよ、ユダヤ人が国家として滅びかけた、ローマ帝国の支配下(=ユダヤ戦争)か、ヘレニズム国家(セレウコス朝)の支配下(=マカバイ戦争)か、その文化的弾圧から民族的アイデンティティを奪回し、確立するために正典が成ったと思われます。当事者のユダヤ人ではない私としては、たかだか二、三百年ほどの差で、どちらになっても構わないのです。ただ一点、「日本人とユダヤ人」が書かれた一九七〇年の時点ではグレーツ博士の説に対する批判も出尽くした頃ですから、「旧約聖書が最終的に編纂されたのは紀元一〇〇年のヤムニアの会議においてで」ある、という説は残念ながら、くつがえることになりますが、それは七〇年時点でも覆しておいても好かったのではないか、という気がして、ちょっと複雑な気持ちです。
私が「日本人とユダヤ人」を百回以上も再読しているのは、読む度ごとに、新しい発見があるからであり、それは、たとえば「地の民」の講読で述べたように、そこに書いてあることが間違いだと判ったとしても、それは私にとって、読むことの「発見」なのです。私は、いかなる意味でも信仰をもつ人間ではないため、聖書を読むことでさえ、それはクリスチャンが聖書を読む行為とは、かけ離れた何かです。むろん、だから私にとって重要な書だからといって「日本人とユダヤ人」もまた、そこに間違いがあれば、くり返しそれを読むことで、気づいた時点で、自分の読書体験を修正していく。そうしたことが読書の豊かさだと思っています。逆にいえば、「日本人とユダヤ人」という本によって、私は、そういう本の読み方を教えられた気がします。間違ったら、間違ったことを明らかにして、訂正する。なんら恥じるべきことではない。それを下手に隠蔽しようとしたりする心根ことが、真理から自らを遠ざける行為です。そうした本の読み方を、私は「日本人とユダヤ人」で学びました。
それゆえにこそ、この本は私にとって重要なので、今さら、そこに間違いがあっても、なくても、その重要性は少しも損なわれるものではないのです。
4
さて、ヤムニア会議にて、タルムードが検討され、それがユダヤ教正典になったかどうかはともかく、その契機となった気持ちの好い事がらを一つ記して、この短い項目を終わりたいと思います(タルムードに関しては第三講の「地の民」の項目で触れましたので省きます)。
ユダヤ戦争の際、ローマ帝国じたい、大変な内乱の時期を迎えており、六九年には皇帝ネロが自死に追い込まれ、地方属州叛乱の平定どころではなくなります。ユダヤ戦争鎮圧に向かったヴェスパシアヌス将軍が、鎮圧軍を控え、しかしローマへ帰還することも出来ず、仕方なく、長男のティトゥスに後任を託したことは、すでにこの講読の1にて記しました。
以下は、このティトゥスが主役となります。実は、彼は、ヤムニア会議と切っても切れない関係性にあるのです。
ここで思い出してほしいのが、パウロが最後にローマへ皇帝への上訴のために待機していたカイザリヤでの出来事です。その時、新総督のフェストに表敬訪問をしたヘロデ王アグリッパには連れがいました。使徒行伝では、
「数日たった後、アグリッパ王とベルニケとが、フェストに敬意を表するため、カイザリヤにきた」(第二十五章第十三節)
「翌日、アグリッパとベルニケとは、大いに威儀をととのえて、千卒長たちや市の重立った人たちと共に、引見所にはいってきた。すると、フェストの命によって、パウロがそこに引き出された」(第二十五章第二十三節)
このベルニケ(ベレニス=Berenice)は、アグリッパの娘です。
複雑なのは、古代には固有名詞が足りなかったものか、同じ名前がくり返されることで、正確には、彼女はヘロデ・アグリッパ一世の娘であり、アグリッパ二世の妹でした。そしてまた、先代のヘロデ大王の妹であるサロメ一世の娘もベルニケという名です。ここでいうベルニケは、区別するためかキリキヤのベルニケとも呼ばれますが、キリキヤのベルニケは、その父であるヘロデ・アグリッパ一世の母ベルニケの孫に当たります(つまり祖母と孫娘が同名です)。さらに言えば、このキリキヤのベルニケは、ワイルドの詩劇で洗者ヨハネの首を所望したとされる(ヘロディア王妃の娘)サロメとは従姉妹の関係になります。おそらくヘロディアが、そしてサロメがそうであったように、キリキヤのベルニケは美貌の王女だったと思われます。
まあ、それは措くとして、このキリキヤのベルニケが、実は、ヤムニア会議の影の立役者となります。
事情は、こうでした。エルサレムがローマ軍に包囲された時、高名なラビ・ヨハナン=ベン=ザッカイは、今度こそエルサレムは破壊され祖国は滅びることを予想しました。ヨハナンは一説には、パウロの師ガマリエルと同じ、ラビ・ヒルレルの弟子だったとも伝えられています。そこで、彼は機略をめぐらし、まず自分が病気で倒れたと弟子たちに振れさせ、やがて病没したと虚報を流しました。その時代、エルサレムの墓所は城外にありましたので、包囲するローマ軍との折衝で、死者の葬りだけは許されていたらしく、弟子たちは柩を抱えて城外へ出ます。ラビを所定の位置に置くと、彼らはまた包囲されたエルサレム市内に戻りました。周囲はローマ軍将兵が並んで監視していたと思われますから、なんとものんびりした感じですが、古代の戦争など、こんなものかも知れません。エルサレムは城壁都市でしたので包囲戦になると判っているし、兵士たちも長期戦の構えです。だから、そういうことも出来たのでしょう。
そしてラビ・ヨハナンは、立ってローマ軍の陣地へと入っていき、司令官すなわちティトゥスに面会を求めます。驚いたのはローマ将兵ですが、これは許されて、ヨハナンは敵の司令官との面会を果たします。その席上、彼は、かつてヨセフスがティトゥスの父ヴェスパシアヌスに告げたのと同じ予言をするのです。すなわち「あなたは、やがて次の皇帝となるだろう」と。フェストは、これによってヨハナンを殺すことが出来なくなります。
そこでヨハナンは、フェスト将軍に言います。ヨセフスに較べると、ずいぶん謙虚な願いでした。
「エルサレムを攻略する将軍として名を挙げ、やがて皇帝となるであろう、あなた、ティトゥス閣下に、たった一つだけ、お願いをしたい。ユダヤ人のために小さな学校を一つだけ残してほしい」と。それも「たった十人の学生が入るだけの小さな一部屋の学校でよいのです」と告げました。
ローマ帝国の高官の子弟たるティトゥスには理解できないでしょうが、ユダヤ人が聞いたら、すぐにその意味が判ります。ユダヤ教の規約では、ユダヤ人男性が十人集まれば、礼拝が出来る一つの場所として認められていました。それが会堂(シナゴグ)の始まりです。会堂をそうたらしめる最小単位が十人なのです。すなわち、ラビ・ヨハナンは自らの生命を賭けて、敵将と取引をしたわけです。むろん、敵国ローマに寝返ったという汚名も顧みず、彼がとった行動にはそれを遙かに凌駕するだけの深淵な叡智が在りました。たとえ自分の生命と引き換えにしても、ヨハナンがやりたかったことは、よしんば国が滅び民族が今度こそ離散したとしても、なおその中心たる学び舎の建立にこそ、目的があったのです。
ところで、四人の皇帝が次々と交代したことで、四皇帝の時代と呼ばれた内乱のローマはヴェスパシアヌス将軍が入城し、皇帝に推されることで平安を取りもどすのですが、この時、彼はもう六十歳でした。そして九年後にはみまかります。次の皇帝はティトゥスです。
彼はこの間、奇しくも父が皇帝になった紀元七〇年にエルサレムを陥落させ、占領しています。ついで熱心党の残党約千人が逃げ込んだ天然の要塞マサダの攻略に三年を費やしています。七三年、マサダは玉砕し、ユダヤ戦争は終わりますが、この間のいずれかの時期に、ティトゥスは美貌のユダヤ王の娘、ベルニケと出会い、恋に落ちるのです。その後、彼はローマに凱旋し、父を補佐してローマを共同統治しました。ローマでのベルニケはほとんどティトゥスの妻として暮らしていました。今でいう事実婚です。ベルニケは恋多き女性で、これまでも数々の浮名を流してきたのですが、今回の恋は国境と民族と宗教の壁に阻まれた最も困難なものでした。
そして残念ながら、ユダヤ人の娘をローマ皇帝の妻に迎えることは、ローマでは、かつてのカエサルやアントニウスとクレオパトラの関係を連想させ、市民が不安に思ったため、元老院はこの婚姻を拒否します。それで、やむなくティトゥスは彼女との結婚を断念し、ベルニケは愛人の地位に甘んじるしかなかったのですが、しかし、このことでティトゥスは逆に市民の支持を得たと言われます。もっとも、在位たった二年で彼もまた死去することになります。紀元八一年。まだ四二歳の若さでした。
一説には弟ドミティアヌスから毒殺されたとも、また中東に征旅した際に罹ったマラリアが原因とも言われています。
愛するティトゥス帝がこの世を去った後、シャロンの薔薇たる異邦の美姫ベルニケもまた歴史の中から消えています。ユダヤに戻ったのか、それとも異境の地で死んでいったのか。誰にも判りません。しかし、彼女との恋がティトゥスの心に、一人のユダヤ人との約束を刻みつけたのは確かでしょう。
どの時点で、ティトゥスがラビ・ヨハナンの言葉を思い出したのかは判りませんが、皇帝になった彼は律儀に彼との約束を守って、もう滅亡した国家ユダヤのために、イスラエルのヤムニアに、学校を作ることを許したのです。ヨハナンの命がけの機略は功を奏したことになります。
学校といっても、教育機関ではなく、イェシバ(Yeshiva)と呼ばれる研究施設です。今なら(タルムードの)大学に相当します。伝承では本当に十人のラビたちが、そこに詰めて、トーラーやタルムードの研究を続けたと言われています。これがやがて、ヤムニア会議(評議会)と呼ばれることになります。辞書によっては、ここがユダヤ人の新しいサンヘドリンとなった、ともあり、また別の文献では特に、「アカデミック・サンヘドリン」と記載されていることもあります。
第二次ユダヤ戦争が始まるまでには、おそらく拡充されて、大規模な研究およびエルサレム神殿の中にあったサンヘドリンの代替として、宗教的な最高法院となったのかも知れません。
バル・コクバの第二次ユダヤ戦争によって、ユダヤを再び制圧したハドリアヌス帝は、エルサレムからユダヤ人を放逐しました。それまでローマ帝国はユダヤの特殊な事情を勘案して、エルサレムに総督府を置かず、海沿いのカイザリヤに置くなど、穏便な政策を取っていたのですが、ここで一気に強硬策に出ます。カイザリヤに駐屯していたローマ軍もエルサレムに常駐することになります。しかも、この叛乱は、バル・コクバの乱だけではなく、すなわち、ただユダヤ一地方の突発的な騒擾ではなく、各地のディアスポラ・ユダヤ人と呼応しての、全ローマ的叛乱だったから、とも言われています。
当時、ディアスポラ・ユダヤ人が多かったリビアのクレネ(キュレネ)、エジプト、クプロ(キプロス)、メソポタミアで同時多発的な叛乱が起こったのです。バル・コクバの乱もその一つでした。これを総称して「キトス戦争」とも呼ばれます。キトス(Kitos)とはローマの将軍であり、バル・コクバの乱があった際にユダヤ属州の総督で、鎮圧に成功したルシウス・キエトゥス(Lusius Quietus)の名にちなみます。
ローマ帝国の版図内にはいろいろ、まつろわぬ民族がいて、ローマの皇帝たちを悩ますのですが、一国家でもない、散らばった離散民族が呼応して叛乱の狼火を上げたのは恐らく初めてでしょう。事態は深刻です。その後、これら全ての叛乱を鎮圧したハドリアヌス帝は、あらゆる根源がイスラエルとエルサレムにあることを察知し、諸悪の根絶を図って、イスラエルは「パレスチナ」に、エルサレムは「アエリア・カピトリナ」に改名され、ユダヤ人は二度とその地を踏めぬよう厳令を出します。割礼は禁止され、ユダヤ教の祭礼も、安息日さえ禁じられました。むろん、ユダヤ教の律法を教えたり学んだりすることも死罪を意味しました。
しかしながら、ラビ・ヨハナンが残したヤムニアの学舎は、その後、ガリラヤのティベリアに移り、ユダヤ教の研究を続けたということです。サンヘドリンの記述にも、第一次ユダヤ戦争の後は、ヤムニアに移り、第二次ユダヤ戦争の後にはガリラヤのティベリアに移ったとあるので、合致します。迫害もあったでしょうから、第二神殿時代のような壮大さは失なわれていたとはいえ、サンヘドリンという政祭一致の宗教法の裁きと、同時に学術的研究のセンターだったのは間違いないでしょう。
ヤムニア評議会がユダヤ聖書の正典を決めたのではなくとも、ヨハンナの遺した学びの灯し火が、ユダヤ教の宗教と文化の精華を、国家の廃滅と民族流亡の時代からも、なお救ったのです。
他方、ローマは。先代の皇帝トラヤヌスはハドリアヌスの義父でもありましたが、その時代でローマの版図は最大になっていました。しかし、ハドリアヌスは、ここにきて一転、拡大政策を中止し、より現実的な国境安定の政策へと転換した、歴史的転機が、このバル・コクバの乱をふくむキトス戦争でした。後代、トラヤヌスの前のネルバ帝からハドリアヌスを含み、マルクス・アウレリウスまでの五賢帝の時代がここに確固たるものとなり、パクス・ロマーナの時代となります。しかし、この時、すでに足下まで帝国瓦解の兆しが来ていたのでした。
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