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「日本人とユダヤ人」講読


             野阿梓


   第十一講  モーセ


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フロイトが論じている「父親殺し」とは、一種、妄想的とも見えるユダヤ人的な発想による、古代のエディプスコンプレックス解明の理論です。

これは、私の管見ですが、おそらく、今の日本人の若い人には、フロイトの言っていることが理解できない、と思います。彼のユダヤ人的思想とか、個人の特性とか、いろいろ事情があるのですが、今の日本では考えられないほど、フロイトは非常に抑圧された、厳父の下で、育ったようです。ユダヤ人家庭の、家父長の権限はとても強いと言われますが、それだけではない、フロイトの家庭および彼の父親が、とりわけそうだったことによる、それは抑圧だったように見受けられます。

しかし、フロイトは、それを普遍化して語りますので、今の私たちの家庭環境とはまるで異質な光景がそこには立ち上がってくるのです。とにかく、十九世紀的なユダヤ人家庭の、非常に子供を圧迫する強い父親像が、そこには在った、と考えて下さい。フロイトの理論は、すべて、そこから発しています。だから、今の私たちを取り巻く、それほど「強い父親像」が中心でもない一般家庭では、あまりよく判らないかも知れませんが、当時のユダヤ人家庭では、「強い父親」というのは当たり前のことでした。

そして、上記の、簡単に略述した、フロイトの「父親殺し」理論とトーテミズム論を少し解説します。

人類が最初にこの惑星の頂点捕食者(トッププレデター)となった時、その一族を率いていたのは、「原父」とフロイトが呼ぶ凶悪な父親でした。強力な腕力と知力を持ち、一族を支配し、族内のあらゆる女と性交し、時には逆らう子やその女を殴り殺して喰ってしまうような暴戻なる専制者です。女や子供たちは、ひたすら彼を畏れ、戦々恐々と暮らしていたことでしょう。
ところが、ある時、今まで畏れおののいていた子ら兄弟たちは、その支配の恐怖心を克服して、一致団結し、その原父を殺害したのです。そしてその肉を喰らったのだ、とフロイトは言います。これは、別に「未開」の蛮行によるものではありません。むしろ最初の「文化」です。文化とは「人間の作ったもの」だと言い換えても好いでしょう。つまり、それまで自然にはなかったものです。おそらく史上最高の文化は「宗教」だと思われますが、フロイトの理論では、宗教より先に禁忌や禁止がきます。むろん、親に逆らうこと、人を殺すこと、ましてやその肉を取って喰らうことは、最大の禁忌(タブー)です。だが、彼らは、あえて、それを行ったのです。

カニバリズム(食人行為)には多くの誤解がありますが、その最有力な要件は、殺害とセットになった儀礼的なものであり、ほかならぬ自らが殺した相手の「全ての力」を自分が獲得するための手段なのです。原始的な思考では、相手の力は相手の肉体に宿っているのだから、それを喰らうことによって、我が物にする。という理屈です。むろん、多少は食人行為によって、すなわちより高いハードルの別な禁忌を犯すことで、父親殺しの罪を転化し、他のものに変えようとする心的規制が働いている。そうした心の動きが、すでに「文化」なのです。宗教への萌芽と言っても好いでしょう。

だから、この「儀式としての食人行為」には、かならず、殺害に加わった全員が参加しました。この伝承が時間とともに歪み、「原父」は動物へと変容し、彼らは自分たちが殺害した父の代わりに、その動物をトーテムとして崇めた。というのが、フロイトのトーテミズム論の理解です。

しかし、数世代が経ち、こうした「忌まわしい記憶」は封印されたかに見えて、いつなんどき揺り返し、よみがえるかも知れない。否、絶えず、その識域下の恐怖に怯えながら、古代人は過ごしていた。だからこそ、代理の動物(トーテム)を崇めるのです。そして、ある季節が来ると、それは彼ら(の祖先)が「原父殺し」をした時ですが、皆が集まって、かつて自分たちの祖先が行ったように、聖なるトーテムの動物を捕らえ、殺し、その肉を皆んなで共に食すのです。この聖餐の儀式により、一族の結束が強く固まる。古代の文化とは、そういう怜悧で暗い理知を彼らにもたらした。それがフロイトのトーテム理論の理解なのです。

付言しておくと、およそ人間が集団として存在した時、その共同体や行為のすべてに「未開」という言葉は当たりません。これは西洋以外の社会を全て西洋より劣ったものと見る、西洋中心主義の偏見であり、文化人類学者のレヴィ=ストロースが説いたように、西洋社会が「未開」の部族だと決めつけた共同体だって、立派な「文化」です。文化とは、畢竟、「人間が作ったもの」の総称であり、そのうちの最大の成果が「宗教」でしょう。その共同体が宗教を持っている場合、そのプロセスで、カニバリズム(食人行為)や初穂儀礼の生贄などがあったとしても、それは、けして野蛮な行為ではない。それは彼ら宗団の中にあるロジックによる宗教的儀礼の一部であって、はたから見て、西洋人が、いかにそれを残虐だから野蛮だと考えても意味はない。

古代ローマで反乱を企図した人間を磔刑に処すのと、大革命のギロチンと、そして太古の食人行為のどれが一番の蛮行か、今の道徳律で問うても無駄なことです。その時代や環境によって、暴力的なことは、いくらでもあったでしょうが、だからといって、それを一律に野蛮だ、と極めつけるのは、西洋社会の倨傲でしかありません。

たとえば、沙漠の民が一人の反逆者を群れから「追放」する(ほとんど死刑に等しい)罰も、ギリシャのポリスにおける貝殻追放も、さらに仏革命のギロチンでさえ、すべて等しなみに、それは社会の規範にのっとった共同体内部の処刑であって、蛮行ではありません。レヴィ=ストロースは、そもそも「未開社会」という言葉自体を否定しています。

これは、先述したサイードの「オリエンタリズム」や「ポストコロニアリズム」の先駆的思索とも言えます。文化人類学者のレヴィ=ストロースが二十世紀半ばすぎに、ソシュールの構造言語学を方法論としてたどり着いた、この「野生の思考」に、フロイトは独自の精神分析学の手法によって、早くも二十世紀初頭には到達していたのです。つまり、フロイトの描くトーテミズムでの原父の殺害や食人行為は、断じて蛮行なのではなく、完成された文化なのであり、その一つの結末である。それがフロイトの、それなりの洞察によって達しえた古代の心的メカニズムの解明なのです。

それゆえ、同様のことが、古代において、モーセの場合にも起きたのだ、とフロイトは唱えます。
モーセは、エジプトで奴隷だったハビル人にとっては、強く大きな権力を持つ解放者であると同時に、いつだって抑圧的な強権的支配者でした。しかも血族ではないから、疑似的な原父です。だからこそ、より強い反撥があって、そこに古代の英知のメカニズムが働き、彼らはレビ人らの護衛をかいくぐり、モーセを襲い、殺害し、その肉を共に喰らったのです。こうしたことは、古代では何度もくり返されてきたことだった、とフロイトは断言している。

そう。例えば、少しく事例は異なりますが、日本神話でヤマトタケルは、そのタケルの名前を彼が討伐した熊襲(くまそ)の長から受け継いでいます。これは一種の呪術的な「野生の思考」であり、自分が殺した他の部族の長の名を自ら冠して名乗ることで、その力を我が物にし、同時に、自分が殺害した相手の荒ぶる魂を鎮める鎮魂の意味をもっています。そうしなければ、おそらく「祟る」からでしょう。日本では、古来から、不条理な死に方をした人が神となって祟る、という文化があります。だから、どういう理由があったにせよ、古代においてさえも、敵部族の長を騙し討ちで殺すのは禁忌に触れることでした。

人を殺してはいけない、という禁忌は、人間が集団生活をするに際して、最初に生まれたタブーの一つでしょう。だが戦いとなったらそれを犯す必要がある。国家がそれを正規兵には許すのです。だが、ヤマトタケルの場合は正規戦ではなく、彼は、一個の特務工作員でした。美青年のヤマトオグナ(またはオウス)が女装して酒盛りに婢として加わって、油断した敵将を殺した。これは、いわば騙し討ちで、しかも、白色テロですから、どうしても疚しさが残る。弱者が強者を倒したジャイアントキリングではなく、その逆でした。

ヤマト国家の東漸と勢力拡大のために、あえて汚い手を使った。当時、ヤマトは弱小の国家ではなかった。だのに、いわば卑怯な手を使って成功した。いかに父天皇の直命とはいえ、ヤマトタケルがやましく感じるのは、当然です。やましさは、心の弱い隙です。その隙間から、祟りは忍びこむ。それを払拭するために、自分が屠った相手の名を自らに冠する。そのことで、敵将の武勲を称えつつ、その力を自分が譲り受ける、といった心的規制が働くわけです。これが古代の英知でした。

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こうした古代の知恵は、なにもかもが無秩序だった先史時代から、太古の長い時間をかけ人間が学び取って、「文化」を形作る際に、獲得していった、それこを「野生の思考」に他ならない。だからこそ、フロイトは、やや矯激に見える考察としても、そこまで洞察して、血まみれのトーテミズムの真実を暴いたのです。ヤマトタケルは父親を殺して、その肉を食ったわけではないが、やったことは、ある次元で見れば、同じ禁忌の侵犯であり、同じことなのです。

モーセの場合、それが、ふたたびくり返された。しかも、先史時代ほど古いことではなく、すでにエジプトに文明が起きていた時代です。しかし、沙漠に追いつめられ、不安と畏怖におののき、ただひたすらに原初の思考が命じるままに、彼らはモーセを仆し、殺害し、その肉を共に喰らったのです。

食人行為は措いても、確かにモーセを民が殺害しようという場面は旧約には、いくつかあります。民数記には、モーセがカデシュから十二人の斥候を出した後、その報告が絶望的なものが多かったため、民の不満は爆発寸前となり、

「なにゆえ、主はわたしたちをこの地に連れてきて、つるぎに倒れさせ、またわたしたちの妻子をえじきとされるのであろうか。エジプトに帰る方が、むしろ良いではないか」。彼らは互に言った、「わたしたちはひとりのかしらを立てて、エジプトに帰ろう」。
そこで、モーセとアロンはイスラエルの人々の全会衆の前でひれふした」(第十四章第三節から第五節)

――といった事態となり、モーセは石打ちで殺されかけたことがありました。しかし聖書のどこにも実際に民がモーセを殺害した、という具体的な記述はないのです。あったとしたら、こうした伏線を張り巡らせることで、巧く隠蔽したのだ、と思われます。しかし、そうした小手先の隠蔽は、素人は騙せても、フロイトのような深い人間心理の洞察者には通用しなかった、と見るべきでしょうか。
ただ、フロイトも、モーセがどうやって殺されたか、そこまでは判っていません。石打ち刑ではなさそうですが、一人が殺ったわけではないらしいから、激昂した集団が襲いかかった押し伏せたか何かしたのかも知れません。まあ古代の話ですし、この際、方法は問題ではないでしょう。

とはいえ、方法はともかく、仮にも偉大なる指導者モーセの殺害は、解放者であり支配者である存在、すなわちハビル人にとっての「原父」に等しい人間を我が手にかけて殺した、という「原罪」となります。当然ながら、思い出したくない記憶です。しかし、人間は、ある行為をした後で、それを忘却しようとしても、意識下にその罪の根が残ります。

そこで、出エジプト記から申命記にいたる四つの書が「捏造」されたのです。あるいは、核心的な部分だけ隠蔽して新しく創り出されたのです。こうしてハビル人は、「父親殺し」を「原罪」として、その集団的深層意識とでも呼ぶべき心理の奥底に隠して、ヘブライ人となった。モーセが作ろうとしていた新しい一神教の民「ユダヤ人」が、皮肉にも、彼の死を転機に、ここに真に生まれたのです。と同時に、物語の構成を乱すほどの細やかさで、厖大な量の「律法」がそこには埋め込まれました。
モーセ五書が物語と律法をない交ぜにしているのは、そして無数の矛盾を孕んでいるのは、きっと、そのせいでしょう。さらにモーセの物語に律法成立を織り交ぜることで、余計、真相が判りにくくなるよう、工夫した。これもまた、編集者たちによる、一種の隠蔽工作だったのかも知れません。モーセの死後、新生ユダヤ人によって捏造された、全て預言者モーセが神の言葉を預かって、その立法をなした、という偽わりの「律法の神話」とともに、ここに新しい一神教の宗教「ユダヤ教」とその民とが完成しえたのです。

――というのが、フロイトの唱えたユダヤ人の発生の秘密でした。
なんとも恐るべき話です。ユダヤ人であるフロイトが、いかに無神論者を自認していたとはいえ、こうした物語、ないし説話を語ること、それ自体が異常です。自分たちの民族や宗教的規範にとって、最重要な禁忌を決然と冒しているに等しい。と同時に、本当にそんなことがあったのか。確実な証拠があるのか、と誰もが思うでしょう。しかも、その批判も、フロイトは承知の上で、この論考を慎重に公開したのです。戦争を予兆する暗雲たなびく欧州において、もはや誰にも迷惑のかからない亡命先にたどり着いた彼は、病に冒された身で、最後の遺言として、またユダヤ人である自分のアイデンティティを賭けて、乾坤一擲の勝負に出た。

エジプト人の高官(あるいは王族だった可能性もある)モーセは、イクナトンの遺した一神教をハビル人に伝えましたが、それは、この一族にとっての原罪への贖罪の深化から、さらに極端な宗教的純化をとげ、ついには、アマルナ革命でイクナトンが信仰した以上の、ただ一つの神への信仰が形成されていった。アマルナ時代には、アテン神はまだ神々の中の一柱であり、その最高神にとどまって唯一神としての神格をおびていなかった。それをハビル人たちは、モーセ殺害の隠蔽のために、本当にイクナトンが望んで果たせなかったのかも知れない一神教へと転化させたのです。

だが、その「原罪」ゆえに、第一世代の(直接、モーセ殺害に関わって、その肉を喰らった)人々は、約束の地、カナンには行けなかった。むろん、それまでに死んでいる=殺害されたモーセもまた、たどり着くことは出来なかった。あれほどの献身と自己犠牲をはらって暴戻なる神の言葉にしたがったモーセでさえ、約束の地を踏むことが許されなかった、その真の理由が血の色した大文字で、ハビル人らの額には記されています。すなわち、率いていた民によって殺されたから、原父モーセはカナンの地にたどり着けなかったのだ、と。

モーセがエジプト人であり、イクナトンの少し不完全な一神教を伝えるべく、奴隷のハビル人たちを率いて脱エジプトを図ったまでなら、他の空想的な想像力を逞しくする小説家にも描けたかも知れない。だが、これほど人の心理の奥底までえぐるような魂の深淵の物語は、フロイトにしか、描き得なかったでしょう。

しかも、モーセ殺害を、ハビル人たちは自分たちが「神に背いたことの罰」だ、という風に解釈し直して、隠蔽し、美しい神話として造りかえ、残したのです。モーセを殺害した事件は巧妙に伏せられ、代替として異神を拝跪したり、神に背いたりした罪とその罰とが捏造され、それゆえにエジプトを脱出した第一世代は四十年間も沙漠を彷徨うことになった。贖罪のために、罰を受けたことになった。そうやって「真実」を歪めたのです。
さらに、モーセは長い年月の間に、あたかも神経症者が古い記憶の中の心的外傷がフラッシュバックするごとく、遠い将来には、ふたたび救世主として再臨するかも知れない。それが亡霊のように再現することは恐怖以外の何ものでもない。だから、ハビル人たちは必死に知恵をしぼって、考えぬいた。モーセは血まみれの、おれたちが殺した姿では顕れない。むしろ、栄光と光耀につつまれて、その時は艱難辛苦の瀬戸際にある我々を救済すべく、顕れるのだ、と。つまりモーセ殺害の隠蔽工作は、ついに、メシア思想にまで変貌をとげていました。

それが数百年の間に形を変え、口伝の伝承として第二世代の人々へと伝えられ、カナン侵攻後も、伝承として受け継がれた。さらに数百年後、それは民族存亡の危機である、遠い将来のバビロン捕囚の時期において、旧約(旧い契約)の書として、再編纂されモーセ五書となったのです。

以上が、フロイトの打ち樹てた理論でした。
私は、これに向かい合って、ただ茫然とするしかありません。薄弱な証拠の上に、途方もない臆断に臆断を重ねた結果は、フロイトがくり返し、まるで強迫観念のように信じていた「父親殺し」の再現だった、というのですから。

それを読む、現代の私は、どちらかと言えばアニミズムに近い八百万の神が統べる日本に生まれ育ち、多少は西洋的な知識にもそまっていますが、やはり心の底には否応なく日本人の血が、そして知が宿っている、あるいは眠っている(らしい)。そういう存在です。だから、フロイトのこの説に、簡単に「はい、そうですか」と了承は出来かねます。

しかしながら、苛烈なほど厳密かつ緻密に組み立てられたこの理論に対しては、脱帽するしかありません。それを信じるかどうかは、ちょっと脇に措いて、フロイトのロジックの構築力には、すぐには抗しがたいものがあります。一個の人間の精神の奥底を長い長いあいだ、視つめつづけ、分析し続けたフロイトだからこそ、到達した知の最果ての洞察でしょう。いかにその理屈が空論だからといって、すぐさま捨て去ることは出来ない、真正面から抗堪しえない、戦慄すべき異様な迫力があります。

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さらに驚嘆すべきは、フロイトがこのような狂気じみた論考を記した「動機」です。

フロイトは、この後、つづけてモーセを殺したことの意味を問います。
それは、ユダヤ人なら誰もが持つ、ディアスポラの民ならではの、終末思想と救世主思想です。モーセにではなく、ヤハウェの神に選ばれた我々だからこそ、ユダヤ人全員にとって、その慚愧の念や悲傷、たえがたくやり場のない自他への憎しみ、といった昏い感情全ては民族全員の負の遺産となった。しかし、それは、いわばユダヤ民族の集団的深層心理に抑圧されてしまった。
しかし、眠れば夢を見るように、その深層心理は、ふいに顔を現す。そして、それはいつの間にか、やがて――それがいつなのかは判らないが――、この世が終わる時、終末のその日には、きっと自分たちが殺したモーセがよみがえり、さらなる悲惨な運命が見舞った時にこそ、自分たちを必ず救済してくれる、といった救済者=メシア願望となって、ユダヤ人=ユダヤ教の中に根付いたのです。
つまり、フロイトにとっては、ハビル人がユダヤ人となった契機は、モーセ殺害と同時にその隠蔽。そして隠蔽したことによる、逆説的な、モーセ復活への期待不安にも似た希望でした。「苦難の僕」がいつの時代の思想か判りませんが、モーセ時代になかったことは確かでしょう。しかし、現代に生きるフロイトがそれを認識しないはずもなく、さすれば、罪咎なくして殺害されたモーセは、やがて救世主として栄光のうちに、復活するに違いない。
それが長い長い時間の流れとともに、いちどは手にしたソロモンの栄華が夢のように消え去り、今では異邦人の敵意の中で、絶望のドン底に在りながらも、なおバビロン捕囚の暗黒の日々に今一度の栄光の夢として、救世主(メシア)たるモーセが自分たちを救済しに降臨しにくる。そのはずでした。
それを捕囚期の知識人たる祭司たちは、滅びゆく民族の、かすかな希望として描き、モーセ五書として著したのです。

と思いきや、なんというドンデン返しか。モーセ殺人事件の、およそ千二百年後、バビロン捕囚から解放され、神殿を再建し、ふたたび民族として復活したユダヤ人は、さらにもう何度目かのディアスポラをくり返しながらも、その時、ローマ帝国の圧制下、パレスチナの地で、かろうじて王国を樹立し、民衆は終末思想のうちに、来たるべき救世主=キリストを待ち望んでいた。当時は、もうヘレニズムの波により、メシアはすでにキリストというギリシャ語になっていました。エルサレムの第二神殿に拠るわずかなサドカイ派らを除けば、シリアや地中海沿岸に散ったディアスポラ・ユダヤ人たちは「キリスト」をこそ、待ち望んでいたはずです。それは、モーセの復活であった、より古代の希望は薄く消えて、誰でもよいから、とにかくキリストが待望されていた。

それが、そこに、いきなりナザレのイエスなるユダヤ教改革派の領袖が顕われるや、彼は、イザヤ書「苦難の僕」さながら、ユダヤ人の全ての罪を被って死んでいったのです。深夜、違法に開かれたサンヘドリンの掟に抵触する逸脱した審理によって涜神の罪で死刑を宣告されながら、なぜかローマの刑統により十字架の磔刑という処刑方法で、みじめに死んでしまった。ユダヤ人だからこそ判る。もし、これで、彼イエスが復活したとしたら、それこそまさにメシア=キリストの復活に他ならないはずでした。ユダヤ人が一千数百年の間、求めつづけた救世主たる、かつてはモーセの再臨のはずだったのです。

しかるに、それは、突然、イエスが残した原始キリスト教団の残党や、生前のイエスとは会ったこともないパウロら得体の知れない「使徒」どもによって簒奪され、新しいユダヤ教改革派が、新しい宗教「キリスト教」となってしまったのです。それは正しくユダヤ人が待ち望んだ救世主のはずだったのに、ヘブライの精華たる「苦難の僕」を体現したのは、そしてその教えと福音をひろめたのは、ギリシャに感れた異教的もしくは異端的な、まがいものの新宗教だった。

しかも、その際、聖都エルサレムに集った群衆としてのユダヤ人たちは、カヤパ党に扇動され、卑劣な無責任の総督ピラトに使唆されて、叫んだのです。ピラトの責任放棄的な言葉「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」に応えて、「すると、民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」」と(マタイ書第二十七章第二十四節から第二十五節)。
そこに集まった暴徒たるユダヤ人たちが、誰も自覚しないうちに、それは、恐るべき罠が自己完結した瞬間でした。その瞬間からユダヤ人は唯一人の救世主を失ない、イエスが、キリスト教だけに、その座を占めるに至ったのです。
すなわち、フロイトが考える、本当の救世主=メシアは、モーセの復活する姿であるはずだったのに、そこに横合いから突然、ユダヤ人の精華を横奪したのは、イエスと名乗るナザレの田舎者で、それを弘めたのは、ギリシャ感れしたヘレニストが作る新宗教「キリスト教」の萌芽たるパウロの伝道旅行でした。

その後、パウロがイエスの刑死を独自の解釈で、イエスの「贖罪」を歴史的以前の源泉へと連れ戻し、この罪の意識を「原罪」と名付けた。すなわちイエスの「贖罪」とは、フロイト的には、太古の昔、まだユダヤ人となる前のハビル人たちの集団が、モーセ=原父を殺害したことの「罪」の償いのはずでした。それなのに、その罪はイエスによって歪められ、ユダヤ人、否、全世界の人間すべての罪を被って、イエスは磔刑で死んでいった、という全く異なる解釈に書き換えられ上書きされてしまったのです。そこからイエス=キリスト教が発生したのだ、とフロイトは言います。この場合、パウロにだけ焦点を合わせるのはフロイトの真意なのか、初期キリスト教会の端緒をパウロ一個へと、象徴的に求めるレトリックなのかは判りません。

ところが、たかが一地方の民族宗教であるユダヤ教の、そのまた一分派にすぎないはずだったユダヤ教改革派のナザレ派は、いつの間にか、イエスの死後、パウロたちの宣教活動(使徒行伝)によって、すなわち「初期キリスト教会」は、オリエント世界一帯で台頭してゆきました。そして、ユダヤ教徒が与り知らぬ、異邦人にまで「イエス=キリスト教」の教義の布教が拡がった結果、ついには紀元三一三年、キリスト教はローマ帝国の国教となってしまいます。

しかしながら、その過程で、ユダヤ教史上、最大の簒奪――それは、キリスト教におけるイエスの贖罪行為は、宗教上の革新をもたらす、という、初めて一神教が世界宗教へのテイクオフをするという、かつてない画期的な掠奪をなしたのです。つまり、(ユダヤ人にとっての)父なる神の廃位と除去という結果にいたったのであります。
これにより、ユダヤ教という一民族宗教であり、かつまた「父親の宗教」は、キリスト教という世界宗教であり、かつまた「息子の宗教」へと変貌をとげた。パウロは(彼自身にそういう自覚があったとは言えないまでも)、結果的に、表向きは、それまでのユダヤ教の教義を継承しつつ、同時にそれを根こそぎに覆し、強奪して、まったく新しい新宗教「キリスト教」を誕生せしめました。

実はエジプト人だったモーセの習俗に淵源する、今やハビル人ならぬユダヤ人の宗教ならではの割礼さえも廃止し、本筋ではユダヤ教の教義を少し変えただけの、より寛容で受け容れやすい教義として、広く異教徒や異邦人にも布教することによって、それを普遍的な世界宗教に変えてしまったのです。

かつて、四百年前にファラオたるイクナトンが試みたアマルナの「革命」より凄まじい、それは宗教の「改変」であり、「誕生」でした。なんとなれば、その改変や誕生による利得には、この新興宗教の母胎となった当のユダヤ人は一片も有りつけなかったからです。そして、ここに一つの民族宗教を丸ごと横から掠奪した、歴史にも稀なる宗教の簒奪行為が成し遂げられたのです。

だが――と、フロイトは言います。
それがパウロの企図した結果かどうかはともあれ、イエス=キリスト教は、ユダヤ教がその民族的潜在意識の「罪」から深化させた一神教の精神的な純度と高みとを失ないました。
特に、ローマ帝国の国教となったキリスト教は、ローマ帝国の版図全域への布教の際には、妥協に妥協を重ねて、そこかしこ属州の地元の土着宗教と野放図にも習合せざるをえなかった。なによりも、本家たるユダヤ教にとって断じて許せない偶像礼拝を、キリストの磔刑図像への拝跪として行い、それどころか、ユダヤ教徒が想像だにつかない、聖母マリアへの偶像礼拝を平然と行う。
さらに、各地の地母神信仰は、マリア信仰に習合します。それは、マリアという名で混沌と合一した、聖母マリアだか、マグダラのマリアだか、もはや判別すら付かない異端邪宗の宗教と成り下がってしまった。しかし、ローマ帝国の武力に屈して属国となった、その版図内における無数の(かつて独立国だった属州が有した)民族や宗団は、少しずつ、自らも変容しながら、受容したキリスト教をも自在に形を変えて取りこんでいった。
水が方円の器にしたがうように、相手に合わせて相手を取りこむ兇しい奇怪な「イエス=キリスト教」というアモルファスな普遍的世界宗教に、ローマ帝国のあらゆる土着の民族宗教は、ただ一つ、ユダヤ教だけを除いて、統合されていったのです。
ユダヤ教徒には、それに大して文句を言う立場にすら在りませんでした。なんとなれば、その時、無謀な独立戦争=反乱によって、ユダヤは国家として廃滅していたからです。ここに、捕囚以来、最大のユダヤ教の危機が襲いかかりました。自分たちの宗教から派生したはずの、しかるに、まったく醜悪なまでに形を変え、姿を変じた新宗教が、自分たちを滅亡に追いやった巨大帝国の国教と化して、立ちはだかったのです。いかに細かい歴史の綾を説いて足掻いても詮なきこと。
すでに趨勢は決していました。大本のユダヤ教をないがしろにしつつ、その衰退を横目でほくそ笑みながら、キリスト教は、実にユダヤ教からテイクオフして世界宗教への道を着実に歩んでいったのです。

それは、もとより厳格厳密なるユダヤ的な一神教ではなく、アマルナ革命で葬り去ったはずの、呪術的なアメン神信仰の世界と似たり寄ったりの、多神教的宗教世界の世界的受容でした。この時代に、まだイスラム教は誕生していませんから、およそ人類史始まって以来の、一神教による世界宗教の誕生であり、しかも、その母胎となったユダヤ教には、キリスト教の開祖イエス=キリストを殺害した犯人あつかい、といった屈辱と汚名まで着せられて、宗教強奪は完成していました。

ユダヤ教の秘めたる創始者モーセも、またユダヤ人にも断じて許しがたい偶像礼拝を、さらにイクナトンから始まるエジプト起源の割礼なき者たちへの禁じられた布教も、キリスト教徒たちは恬然と行なってはばからない。悪しき邪神バアルへの拝跪とも思える奇怪きわまりない異形の世界宗教が、中東(オリエント)どころか、地中海沿岸一帯を、さらには未開のヨーロッパからアフリカに至るまで、掩い尽くさんばかりの勢いで、広がっていったのです。
それは今や、ローマ帝国という強大な後ろ盾を得て、全世界を支配しつつあり、しかも原型は微塵もないながらも、元をただせば、自分たちのユダヤ教から派生したものだという。足摺さんばかりの恥辱と屈辱とが、一民族宗教たるユダヤ教には投げつけられ、そればかりではなく、キリスト教紀元より以前からあった、優秀なる民族なるがゆえの、そねみや妬みから来る差別と迫害は、前にも増して、こんどはキリスト教徒から近親憎悪的に、襲いかかる。まさに法難といってもよい時代になってしまった。

だがしかし、そうしたユダヤ教徒には許容しがたい布教の際の妥協や懐柔によって、ユダヤ教の鬼子たる魔物のごとき「キリスト教」は、ハール神やモロク神よりも悪質に、確実にローマ帝国の版図いちめんに拡がっていく。そして、我が民族は、国家すら持たない。
なによりも、これらの現実は、世界史的に見れば、「キリスト教」の凱旋であり進歩となり、ユダヤ教はそれ以来、いわば「化石」と化したのだ、とフロイトは言います。

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当たり前のことですが、ユダヤ人たるイエスは、ユダヤ人の「救世主=メシア=キリスト」としてユダヤ教の聖典の真髄である「苦難の僕」の死を死ぬことで、同胞たるユダヤ人の「罪」をあがなったのです。他の民族のことなど、イエスは知る由もなかった。ユダヤは外へは閉じた宗教社会で、しかもイエスは高い知性はあったが、ガリラヤというユダヤでも中心から外れた土地で育ち、ユダヤの外部など知ろうともしなかった。エジプトもローマもヘレニズム世界も、彼とは無縁の存在でした。

もちろん、イエスは全くの世間知らずや、国際的な感覚に無知な人間ではありませんでした。
マルコ書には、賢しら顔のパリサイ人から「皇帝に納税すべきか否か」と聞かれ、一デナリ硬貨を持ってこさせて、その表面に皇帝の肖像画が刻印されている(つまりユダヤ教では禁じられた偶像がある)コインについて彼らに「これはだれの肖像、だれの記号か」と訊かれ、パリサイ人らが「カイザルのです」と答える。するとイエスは「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」と機知に富んだ受け答えをしている。パリサイ人らはイエスに驚嘆した、とあります(第十二章第十四節から第十七節)。
その程度には、じゅうぶん世界を認識しておられた。だが、本来、ナザレに生まれ、その村からあまり出ることもない人であっったし、布教したのも、故郷がその一部であったガリラヤ湖畔一帯にすぎない。最後にエルサレムに登りますが、それは死ぬためであった。ローマも含めて、ユダヤ教徒以外の世界中の人間を救おう、などという分に外れた考えはなかったのです。

もとより、後の「公会議」で決められた「初期キリスト教会」の教義や、ましてや「三位一体」などというイエスが一度も口にしていない、それどころか新約のどこにもそんな記述もない「キリスト教の教義」など、イエスの与り知るところではありませんでした。
にも関わらず、キリスト教が普遍的な世界宗教になった時点で、それは一個の民族宗教からテイクオフし、同時に、ユダヤ教の持つ「原罪」意識、つまりモーセという「原父殺し」の罪も解消されてしまった。当然のことながら、ユダヤ人以外の異邦人に布教すれば、そうなります。なぜなら、彼ら異邦人には、そうした古代の沙漠で起きた、一部族の殺人である、モーセ殺しの原罪などとは、まったく無縁だったからです。
ましてや、彼らに宣教しているのは、その死せるイエスとは生前に一面識もなかったパウロなのですから、そんな民族の祖性が伝わるべくもない。一度も会ったことのないイエスをキリストとして、彼が「神の子」としてわれわれの罪をあがなってくれたのだ、と言われて、それを信じる他ない。モーセの故事来歴などは、忘れる以前に、土台、伝わるべくもないのです。

ただ、「苦難の僕」の理念は、ほぼ等しく共有されていたので(モーセの時代に「苦難の僕」はまだありませんでしたが、そういう迫害された民族の一神教の思想を突きつめた地点に、その叡智が生まれたはずです)、「神の子イエス」をみすみす殺されてしまった。あるいは殺してしまった、という「原罪」はあった。だが、それはモーセに淵源するものではなかったし、同じ旧約を聖典として分かち持っていたとしても、ユダヤ教徒とキリスト教徒には、絶対に共有できる「罪」の意識ではなかったのです。

ここに二つの、本来同根であった宗教の決定的な断絶があり、民族的な深層心理にまでおよぶ、ユダヤ人独自の真正一神教は、世界宗教たるキリスト教によって弊履のごとく捨て去られた。否、むしろユダヤ教側からのナザレ派=初期キリスト教会の排斥が生まれた。ユダヤ戦争後のヤムニア評議会で、ナザレ派の会堂からの追放令が出されたことを思い出してください。
彼らはローマとの絶望的な独立戦争に敗れ、国家としてのアイデンティティを喪失し、かろうじて地方の会堂で、細々とトーラーやタルムードの研究は続けたが、とうてい、それは地中海沿岸一帯を掩いつくすキリスト教の威風と較べるべくもなかった(そもそも、ユダヤの地に残る多くの民衆は、自分たちの「外の世界」が、そうしたユダヤ教の分派を僭称するキリスト教が、一世を風靡しつつあるなどといった由々しき事態にあることすら、知らなかったでしょう)。

しかし、すでにローマ帝国の国教となったキリスト教は、もはや一地方の民族宗教など眼中になく、あまねく地中海地方からさらにガリア(ヨーロッパ)や北アフリカにまで拡がっていきました。その間、シリアという属州のさらに一地方において、ユダヤ人は無謀で絶望的な独立戦争を数度にわたってローマにくり返し挑み、ために国家として敗滅し、民族は離散流浪して、もはやキリスト教の宗教的簒奪に異を唱えることすら出来ない状況にあったのです。

その頃、あの裏切り者のヨセフスは、ローマの地中海地方独特の燦々たる陽光の下で、ユダヤ古代誌やユダヤ戦記をのんびりと書いていた。その中には、エジプトで立身出世したモーセが将軍職に就き、遠くエチオピアまで遠征した、などといった挿話もふくまれていた由ですが、その真偽のほどは判りません(この挿話は、山本七平氏の「禁忌の聖書学」によれば、ハリウッド映画「十戒」でも言及されているそうですが、私には記憶にありません)。
ともあれ、なにをするにも、誰にも、もう何もかもが、手遅れだったのです。

換言すれば、ユダヤ教はキリスト教により、自らの「厳父」の「原罪」ごと、その教義を簒奪され、それを「神の子」イエス=キリストによって「父なる神」の「原罪」へと浄化されてしまった。さらに、そのユダヤ人の「原罪」の浄化の恩恵に、当のユダヤ人が与ることは、しかし、永遠になかったのです。

ユダヤ人であるイエスが磔刑をもって償ったのは、本来、ユダヤ人だけの罪を贖うはずだった。だが、イエス=キリストという存在が、ここに立ち現れます。それは、もう一個のユダヤ人ではない。一つの民族の枠を超えた世界人、否、世界の救世主=神人です。ヤハウェを素朴なアラム語で「アバ(お父っつぁん)」と呼ぶ粗野な田舎者にして「神の子」。それは正統的なユダヤ教では、絶対に認められない神概念でした。

およそ、その時代に自ら進んでこの邪宗門の教会堂に立ち入ったユダヤ人は少なかったでしょうが、もし、いたら、彼らはおそらく驚いたことでしょう。またそのグロテスクなユダヤ教の戯画、ないしは模造品の厚顔さに思わず吐き気を催したかも知れない。「なんだ、これは。一体これは何なのだ」と問うたに違いありません。それほど、ユダヤ教から派生した、はずの、キリスト教の、あらゆる教義、儀式、装飾は、非ユダヤ的なものだったからです。

ところが、紀元一世紀から三世紀にかけての複雑な政治および宗教情勢の中で巧みに立ち回ったキリスト教が、メシアによるユダヤ人すべての贖罪、というイエスが行った真の行動とその結果を、彼らから永久に奪い去った。イエス=キリストがもたらした「罪の赦し」は、未来永劫にわたってユダヤ人には受け容れる術がないのです。何故というに、ユダヤ教とは、似て非なるキリスト教の教義は、断じてユダヤ人の相容れるものではなかったから。
いや、すでに国教化以前に、パウロの宣教に始まる初期キリスト教会の布教によって、情勢は明らかでした。なによりもそこには、パウロが体現した世界人=ローマ市民権を持つコスモポリタンの種子があり、パウロの遼遠なる宣教活動は、その大いなる播種でした。

確かに、一時期、ローマがキリスト教徒を迫害したことは有りましたが、そんなものは、過渡的な時期における、局地的、局時的な事件でしかなかった。
しかも、そこで迫害により殺害された、ペテロやパウロを先達とするキリスト者たちは、後にバチカンやビザンチンにより聖人に列せられ、崇められることになります。ユダヤ教では許されない、いや、それ以前に考えられも出来ない、一個人を崇拝し、あまつさえその肖像ですらイコン(偶像)として拝跪するなど!
旧約に記された、どんなに優れた預言者や王でさえ、貴富や卑賤の出自とは無関係に、神の前には等しく、平等でした。そういう世界観に生きるユダヤ人には、キリスト教の定めたヒエラルキー(聖秩)など、醜悪の極みだったに違いありません。最初の公会議をニケーアで開いたビザンチン(東ローマ帝国)がローマより優位だった時代はまだ好かったが、最終的にローマのバチカンが、生前のイエス生前のイエスが言った(とされる)、

「あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」(マタイ書第十六章第十八節)

――という隻語を根拠として、世界宗教の中心となれ、と解釈するのは、どう考えても無理がある。これらの言葉は、イエスがユダヤの地で口にした、象徴的な比喩であり、自分の死後に、離れて遠きローマはバチカンに、自分の名を冠したキリスト教の総本山をおっ建てろ、と言ったわけではない。と思われるのですが、歪曲した自己中な考えにより、バチカン=キリスト教会は、手前勝手に、イエス=キリストのお墨付きがあるのだ、と称して、バチカンを世界宗教の中心たる教会と定め、かつてその地のコロッセオで殉死したペテロを初代の教会の長=教皇に定めて、つづく二千年間、神の代理人としての地位を確保してゆくのでした。

しかも、その時、その時代に、ローマ帝国が代表する「世界」がもとめていたのは、実にそういう世俗的な宗教であり、聖なる社とは無縁の俗習ふんぷんたる世界体制だったのです。

本来、自らは(一時的なポーズにせよ)受けるのを拒否したユリウス・カエサルに戴冠されるべき世界の皇帝という椅子は、後に、もう一つの帝国であるバチカンという共同体の座でもあるペテロの椅子と対の存在でした。政教の皇帝の両輪が相回って、初めて巨大帝国は機能しえるのです。
それゆえ、時代がキリスト教を呼び寄せた、とも言えます。世界帝国となるローマにとって、もうギリシャ的な都市国家(ポリス)では、巨大に肥大化した版図を支えきれず、国内的にも、もはや直接民主制の共和制という政治体制が持たなくなっていた。そういう時代の難局に、キリスト教という精神世界の支柱はうまく嵌まったのです。
代わりに、世界宗教による属州の諸民族への精神世界の支配、という新しい武装をローマ帝国は有し、その版図の治世を、やっと乗り切ることが出来た。その時、はじめて名実ともに地中海、否、世界の「帝国」が成立した。そう。なるべくして、ローマがキリスト教を欲したのです。

その過程で、さまざまなものが零れ落ちていったのは、仕方ないでしょう。キリスト教の中でさえ、ネストリウスやグノーシスを始め、多くの宗派は異端として斥けられ、無数の小宗教が(ミトラ教のごとく(※))排除されていきました。むろん、ユダヤ教もその一つですが、国家を持たぬ流浪離散の民族宗教など、最早、なんの抗する力もなかった。
それも無理からぬことでした。かつて、不服従なる土民にも似たハビル人をかかえたモーセがシナイの沙漠で考え、ユダヤ教が数百年かけて築きあげていった厳密なる一神教などでは、とてもローマ帝国を支える柱たりえなかったのですから。

※)ミトラ教は、インド・ペルシャに起源を持つと言われる密儀宗教で、ササン朝ペルシアでゾロアスター教が国教となるまで、ことにアケメネス朝ペルシャ時代に西アジアで隆盛をみた、と称されています。アケメネス朝のアルタクセルクセス二世王は紀元前五世紀に、アフラマヅダ以外にも、ミトラス神の信仰を公認していますし、ササン朝ペルシャではゾロアスター教が国教化された時期に、ミトラスは太陽神ないし英雄神として広く信仰されていた、と言います。

ミトラ教がローマに至る、詳しいことは判っていません。最古の記録は、プルタルコスが記した(カエサルの舅であり政敵でもあった)ポンペイウスの伝記に、(現トルコの)キリキアの海賊の宗教として言及されています。ポンペイウスはミトリダテス王との戦役に際して、海賊が王を支援したことに加えて、彼らの密儀宗教儀礼についても記しています。海賊たちはポンペイウスによって討伐されましたが、後代の歴史家によれば、ポンペイウスはイタリア南部のカラブリアの彼らを定住させた、ともある由ですから、単なる海賊というより小規模な海洋民族だったのかも知れません。するとミトラ教は、彼ら東地中海の海洋民族にも信仰された宗教になります。

ただし、ローマ帝国も、キリスト教以外に精神的帝国の柱を求める動きはあり、紀元一五〇年代以降、ローマに姿を現してから教圏を拡大し、コンモドゥス帝(紀元二世紀)を始め、ミトラ教へ傾く皇帝も少なからずいました。キリスト教徒を迫害したディオクレティアヌス帝は、ミトラ教の太陽神ミトラス(ミスラ)の祭壇を築き、事実上、ローマの国家神として祀っています。ルナンが余計なこと(何らかの契機でキリスト教はミトラ教に取って変わられていたかも知れない、との言葉)を言ったため、キリスト教のライバルと見なされていますが、専門家からはルナンはミトラ教について何も知らなかったと言われています。しかし、多くの儀礼上で、キリスト教はミトラ教を参照したことは確かで、本来、初期ローマ帝政時代には一月六日だったキリストの聖誕祭(クリスマス)が、冬至と重なる、ミトラ教の神ミトラスの生誕の日である一二月二五日になったのは、ミトラ教の影響以外、考えられません。

しかしながら、紀元前一世紀から紀元四世紀までの間のローマ軍の軍人の中で人気があったというミトラ教と、ペルシャのそれが同じものであったかどうかさえ、今となっては不明です。元々、ペルシャ圏でのミトラ教は下層民の間の密儀宗教とされ、その神像は人身獅子頭で有翼の姿で描かれていました。他方、ローマに残る優れた彫像は、人間の顔かたちで有翼でもありません。その多くの図像や彫像で牡牛を屠っている姿があり、なんらかの意味があると思われますが、ペルシャでのミトラ神像に牡牛殺しは見当たらず、そもそも、ミトラ教において、この像が主神ミトラスであるかどうかさえ、判っていません。

キリスト教は、内部の敵(異端)にも厳しかったですが、外部の敵(異教)にも厳しく、紀元五世紀までには、ローマの版図からミトラ教の影は消えました。しかし一時は相当な広範囲に教圏をもっていたことが、たとえば最近のロンドン市内の金融街でのミトラ教寺院の発掘調査やドナウ地方の遺跡から発見された碑文などでも判っています。

しかし、ルナンの言葉で過剰に評価されている嫌いはありますが、教圏のひろがりは、必ずしも勢力の大きさを意味しません。七十年代にSF界でも幻想文学者としても知られたルーマニアの宗教学者ミルチャ・エリアーデは、
「実際にはローマ市内のミトラ教会でさえ百人規模の集団でしかなかった。ある時期には百箇所ほどのミトラ教聖所が存在したローマ市でさえ、信徒数は最大一万人に満たなかっただろう」と述べています。
ミトラ教に関する知見は、ベルギーの考古学者フランツ・キュモンが十九世紀末から二十世紀初頭にかけて刊行した浩瀚な大冊「ミトラの謎」で広く知られましたが、現在ではキュモンの解釈の多くが批判されています。

なお、ミトラス神は、一説に仏教の弥勒菩薩(マイトレーヤ)の起源とも言われており、この場合、インド・イラン祖語から直接、由来する名前となり、語源的には「契約」の意味をもちます。仏教説話におけるゴータマ・仏陀の次にブッダとなる未来仏である弥勒は、五十六億七〇〇〇年万年後に再臨すると言われています。ミトラス神は、アーリア人が南アジアに侵入した時代に遡るインド神話のうち、女神アディティの子らアーディティヤ神群の一柱を指しますが、この混乱の因由は不明です。さらに、ユダヤ教の秘教カバラでは「生命の樹(セフィロト)」における第一のセフィラ「ケテル(王冠)」を守護する天使メタトロンの語源になったとも言われています。
キリスト教の迫害に衰退し、現在は消滅したとはいえ、ミトラ教の奥深さと時代を経て見つかる、なお広い往時の影響力がうかがえるでしょう。


しかるに、フロイトは、これらキリスト教の変容に、なおミトラ教と初期キリスト教会の葛藤や融合を見ているようですが、今はそれは措きます。フロイトの言わんとすることは、要するに、パウロが起こしたことが、第二のモーセ運動であり、新しい宗教の創造だった。それゆえ、イエスの幼年時代の物語には、モーセのそれと同様の説話がまとわりつくようになった。
もともとパウロは生前のイエスと出会ってすらいないのだから、彼には、自覚的に、自分がキリスト教という新しい宗教を起こした、という認識はなかったはずです。パウロは、天啓による「回心」によって、あくまでもユダヤ教の改革を企図していた。異邦人にさえ寛容な宣教を目指して。だがしかし、彼の活動は、新約の物語をして、イエスがモーセに成り代わり、帰ってきた「原父にして息子」、という両価性をおびて、ついには世界に降臨する結果になったのです。

初期キリスト教会の背景には、ローマ帝国の絶大な武力と財力の支援があるので、布教は簡単に弘まった。オリエント全域にあった無数のグノーシス主義は、たび重なる公会議で異端として排斥され、確執があったミトラ教とは、クリスマスなどの儀礼として取りこむことで解決していった。
いみじくもエルネスト・ルナンが、「もしキリスト教の成長がなんらかの致命的な病によってその成長を止められていたら、世界はミトラ教化されていただろう」と言ったような、歴史のイフは全くなかったのです。そもそもルナンはミトラ教について何を知っていた、というのでしょうか。
モーセが生きてこれを見たなら、おそらく、一驚したでしょう。キリスト教という宗教は、彼が意図した以上の変幻自在で不定形な、しかも強靱な粘り強さで、欧州全域を掩っていった。しかも、いかに不完全であれ、にも関わらず、なお、それが一神教であることには、変わりはないのです。

そして――、
ユダヤ人は二重に「父親殺し」の神話を体現する羽目に陥ってしまった。とフロイトは言います。
すなわち、今度は隠蔽された、シナイ半島の誰も見ていない荒野の出来事なんかではなく、古代帝国の史書=歴史にも明記された明瞭な形でもって、違法なサンヘドリン裁判の挙げ句、「神(の子)を殺した民」として非難されることになった。という要約によって、キリスト教徒がユダヤ人を迫害する理由にしています。
すなわち、ここには、多くの未だ秘められた策みがあるのです。フロイトは、ただ単に、思いつきで、実はエジプト人だったモーセの殺害が、ユダヤ教の発端だ、という空理空論を組み立てたわけではありません。実際、彼が生地ウィーンにいる時期には、けして公表できないほど危険な文書として、死病に冒された老碩学の遺言のようにして、書かれ、刊行されたのです。それは――、
「なぜユダヤ人はキリスト教徒から迫害されるか」
という恐るべき設問への、古代の深層にまで淵源して答える「最終的解決」だったのです。
「それはユダヤ人が父親モーセとその子イエスを殺したからだ」と。

かくして、フロイトは、この書によって、二つの殺人事件を解決しました。モーセと、そしてイエスの。彼らが、なぜ殺されなければならなかったのか。それは、すなわち、いかにしてユダヤ教が成立したか、また、いかにしてキリスト教が成立できたか。その二つの謎に同時に応えるものでした。
フロイトは、宗教的にはイエスの磔刑により、
「ユダヤ人は父親殺しを認めなかったが、キリスト教はそれを認めた。同じことをしたが、我々はそれを認めて、それ以来、その罪を償ってきた」
というキリスト教のキャンペーンが可能となり、ここにキリスト教内の反ユダヤ主義(アンチ・セミティズム)がユダヤ人の子孫を歴史的にくり返し迫害する「正当な理由」を作りだした、と考えているようです。ねじれた歪な思考ですが、ユダヤ人側の理屈としては、理が通っていないわけでもない。そこが怖いところでもあります。

   19

ここで初めて、フロイトが、一体なにを目的にして、この論考を書いていたかが明らかになります。

彼は、ただに書斎に籠もる一思索家ではなく、世界の情勢にも鋭い広い目を配っていました。当然のごとく、ナチスの台頭するドイツが(その国内にゲルマン人がいる、という理由で)彼の住むウィーンとその祖国オーストリアをも併合(アンシュルス)することは判っていた。かつてレーニンが唱え、米のウィルソン大統領によって「承認」された「民族自決の原則」の拡大解釈によって、ナチスは必ずや我が祖国オーストリアを併呑するだろうことを知っていたのです。そして併合された暁には、そこに住むユダヤ人がどう処理されるかも知り尽くしていた。
だからこそ、ロンドンに亡命する遙か以前より、彼はこの不可思議な論考を企図し、死の床に至るまで、心血を注いで書きつづけたのです。

記録によると、彼は、この本を三部構成とし、第一、二部をウィーンにて書き終え、自らが編集する精神分析学の雑誌「イマーゴ」に投じました。そして第三部の草稿も書いてはいたが、祖国での公表は同胞を危難に晒す畏れを考慮して、手控えざるを得なかった。三八年には、その一部を娘のアンナ・フロイトが、国際精神分析学会で代読し、そして三九年の夏に、亡命先のロンドンで仕上げ、公表したようです。
これには証言があり、彼の同時代の友人であるユダヤ系小説家アーノルド・ツヴァイクはフロイトのこの論考について聞かされていて、ぜひ公表すべきだ、と勧めた由ですが、フロイトは自分の論文がオーストリアのカトリック正統派の反撥を買うことで、同業の、そして恐らく同じユダヤ人の精神分析家たちが全員失業することさえ予見し、ためらっていたと言います。

要するに、内容がキリスト教徒の憤激を呼ぶだろうことをフロイトは予め予想できた。言い換えれば、そういう危うい内容だった、ということでしょう。それかあらぬか、ロンドンに亡命してからは、仲間たちのことを懸念しなくてもよくなったせいか、わりと自由闊達に書いているようです。もっとも、第二次大戦が始まってすぐに死去したフロイトは知る由もなかったのですが(漠然とした不安は抱いていたようですが)、彼の妹たちはナチスの絶滅収容所で殺害されています。

その当時に明かされた、この論考の目的とは、すなわちフロイトの真の目的とは、「我々ユダヤ人はなぜ差別され迫害され続けたのか。なぜそうなるべくキリスト教徒たちに印象づけられたのか」というものでした。しかし、それを公開することで、当然のことながら、キリスト教徒だけではなく、ナチスドイツもそうですが、欧州全体のフロイトの弟子たちが危険に曝されることを、彼は危惧したのだ、と思われます。そして、その危惧は不幸にして当たりました。ただし、それは彼の論文とは無縁のところで当たったのです。
三九年の開戦時に、ナチスドイツがあのようなホロコーストを実行するとは、世界中の誰も想像だにしていなかったのであり、フロイトを責めることは出来ません。

精神分析学は彼が開いた学問ですから、その弟子たちを庇うのは、学父たるフロイトにとっては当然のことでした。が、すでに、ヒトラーが政権を獲った一九三三年には、ナチスの圧力によって、ドイツ精神分析協会の会長だったユダヤ人のエルンスト・クレッチマーは会長を辞任し、後任というか、新たに設立された国際精神分析協会の会長にスイス人のユングが就任していました。フロイトとユングは一時期は友人でありましたが、後に決別しています。
しかし、三八年にナチスドイツのオーストリア併合が始まり、墺国内でもユダヤ人弾圧が始まると、ユングはフロイトやその同胞らの身を案じて、自分が会長を務める協会にドイツ国内のユダヤ人の精神分析医を受け容れ、論文発表の自由をも確保する、という打診をするのですが、フロイトは頑なにこれを拒絶し、ために、少なからずフロイトの弟子たち精神分析医が強制収容所に送られる羽目になりました。
スイス人のユングは、フロイトの弟子でもなく、若い心理学者で、それが、会長職についたのは、当時の欧州情勢からいっても、非ユダヤ人の会長が必要だったからでした。フロイトとしては、二十歳近くも年少のユングが自分の功績を横取りしながら、いわば敵であるのに味方の顔をするのが自尊心の強い彼には耐えられなかったのかも知れません。

同じユダヤ人のクレッチマーは、ナチスに協力し、SSの支援メンバーに名を連ねることで迫害の時代を生きのびたのですが、他の多くの精神分析医はガス室で死を迎えました。戦後、これらのことで彼やユングらを非難する声もありました。しかし後からでは何とでも言えます。
ユングはフロイトより二回りほど年少でしたし、彼の弟子でもなかったにせよ、先達の精神学者としてフロイトを尊敬し、ナチスに抗すべくユダヤ人への支援をしていた、とも伝えられます。最終的に、彼がフロイトと決別しなければならなかった日に、帰り道でユングは恐ろしい妄執に押しつぶされそうになった、と伝えられています。フロイトの巨人さが窺えるエピソードではあります。
誰もが自他ともに誠実であろうとして、それが可能な時代ではなかったのです。ましてや、ナチズムという巨大な狂気の機械が支配する戦争の世界において、後になって、安全地帯から、誰かれを批判することは、あまり有意義なことには思えません。

こうしたナチスの残虐行為を予測したか、否かは不明ですが、「モーセと一神教」で、フロイトはこう記しています。

「彼ら(キリスト教徒)のユダヤ人憎悪は根本においてキリスト教憎悪なのである」

すなわち、キリスト教徒も、また自らの「原罪(=神の子を殺した、という負い目)」を抱えている。それを「転化」するために、ユダヤ人は格好の標的だった。そういうことでしょう。そこには、図らずも、二重の「父親殺し」の主題が底流しています。しかし、ロジックのアクロバットも、こうなると考えものです。いくらなんでも、飛躍しすぎではないか。誰もがそう思うでしょう。土台、モーセがエジプトの高官で、彼が元はシリアのならず者集団だった奴隷のハビル人たちを解放して「出エジプト」した。という「歴史小説(History Romance)」さえ、一種の「ファミリー・ロマンス(家族小説)」以外でなくて、なんでしょうか。

付言すると、「モーセと一神教」の三四年時点での草稿では「人間モーセ、ある歴史小説(英題:The Man Moses, a historical romance)」という標題でした。そしてフロイトの精神分析学では「家族小説」とは文字通りの意味ではなく、たとえば恵まれない育ちの子供が「今、ここにいる自分は本当の自分ではなく、実はどこかの王子様であり、家族も皆いつわりの家族で、いつか本当の王家の人々がここから救い出してくれる」といった幻想にかられる症例を指します。フロイト的には、エディプスコンプレックスによる、この仮想の物語が「家族小説」ならば、この文脈でいう「歴史小説」が何を物語っているかは、言うを俟たないでしょう。


この本については、たとえば特異な「編集工学者」松岡正剛氏も言及していて、ネット上の「千夜千冊」八九五夜(二〇〇三年十一月二一日)には、次のようにあります。

「恐ろしい本である。引き裂かれた一冊である。
ヨーロッパ文明の遺書の試みだった。おまけにこの本は人生の最後にフロイトが全身全霊をかけて立ち向かった著作だったのである。それが「モーセ」という神の歴史に立ち会ったユダヤ者の謎をめぐるものであったことは、フロイトその人がかかえこんだ血の濃さと文明の闇の深さを感じさせる。(中略)
本書はなぜ恐ろしい本なのか。モーセの謎とフロイトの謎が二千年の時空を超えて荒縄締めのように直結してしまっているのが恐ろしいのだ。直結していながら、そこに法外な捩れと断絶と計画がはたらいているのが恐ろしい」(※注)

※注)https://1000ya.isis.ne.jp/0895.html

確かに、フロイトが最初の仮題として付けた「歴史小説」というタイトルが表すように、一種の妄執による幻想、それも集団的幻想としてならば、成立するかも知れませんが、この奇天烈なる論文の正価は、今の私には値札が付けられなかった、と申し上げておきます。


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