「日本人とユダヤ人」講読
野阿梓
第十講 ヒルレル(1)
1
文庫版の第八章「再び「日本教徒」について」に、
「これは偉大なるラビ・ヒルレルの言葉に通ずるものがある。ヒルレルは、日本では知られていないが、ルナンによればイエスの精神的な父であり、また、パウロの師ガマリエルの祖父である」(一三三頁)
――とあります。
しかし、この文章を私が最初に読んだ一九七一年から今にいたるまで、日本ではヒルレルは無名のままです。
とはいえ、たとえば、ブリタニカ国際大百科事典はイギリス本国版の翻訳ですから(日本語版は七五年が初版)、さすがに記載があります。「コトバンク」サイトに掲載されています(※1)。以下です。
「ヒレル(英語表記)Hillel:[生]前七〇頃[没]後一〇頃 ユダヤ教のラビ。バビロン生れ。四〇歳頃エルサレムに遊学し、パリサイ人の指導者となった。当時パリサイ派内で有力であったシャンマイ派に対抗して、演繹と類推をもとにした律法解釈の方法を「七則」にまとめ、進歩的論理主義の立場に立った。また倫理の面では、律法全体の精神を「自分にとっていやなことを隣人に対してするな」という、キリスト教の黄金律を逆に表現したような形で要約し、異教徒や改宗者に対しても開かれた態度で接した。シャンマイ亡きあと、ヒレルに従うものがヒレル派を形成、律法解釈の主流を占めた」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)
「紀元前後のユダヤ教の律法学者で、イエスよりも年長の同時代人。生没年不詳。〈シャンマイ派〉と並んでパリサイ派ラビの律法解釈に大きな影響を与えた〈ヒレル派〉の創始者。ユダヤ教徒の日常生活、祭儀、儀礼行為に関する宗教的規定(ハラハー)を旧約律法(トーラー)から導き出すための諸規範を定めた。シャンマイに比して穏健な判断を示し、後七〇年のユダヤ戦争以後はヒレル派がユダヤ教全体に対する指導的立場となった。[大貫隆]」(平凡社世界大百科事典 第二版の解説)
※1)https://kotobank.jp/word/ヒレル-121909
しかし、ウィキペディアの「Hillel」は日本語版の項目はまだ有りません(ヒレル主義はあります)。まあ、ウィキペディアは英語版を見ればよいのですが。しかし一般的にいって、日本人クリスチャンはユダヤ教やユダヤ人の歴史における会堂(シナゴグ)の存在と意義とを軽視しているのか、ユダヤ戦争以後、そこからユダヤ教の中核だった会堂とその支配権を確立したパリサイ派の学統を見ようとさえしていないように思えます。ことに新約の福音書におけるパリサイ派とイエスとの舌戦は、ヒルレル(派)の存在を知らずして語りえない気がするのですが、不思議な黙殺のされ方に見えます。しかもルナンによればイエスの精神的な父だ、と言われるヒルレルにしてさえ、まったく言及されません。
国会図書館のOPACを見ても、原語の翻字「Hillel」では六〇件のヒットがありますが、大半がノイズで、しかも英語文献ばかりです。日本語で「ヒレル」と検索しても、肝心のヒルレル関係書はほとんどありません。固有の民族宗教で著名だからといって、それが他の国で注目されなければならないという理はないでしょうが、ルナンがイエスの精神的な父とまで呼んだ人物に対して、日本のクリスチャンの異様なまでの無関心が気になります。
大学図書館所蔵を調べるCiNiiでも同じことで、キーワードを換え、いろいろ試したのですが、日本語文献は一九五〇年刊の大畠清「イエス時代史の研究:イエス時代のユダヤ教の研究を中心とせる」と、五七年刊の杉田六一「ユダヤ王ヘロデ」のわずか二冊にヒレルへの言及があった以外は、一般人の目に触れにくい大学紀要をのぞくと、特に最近での文献はほぼゼロです。
この二冊は、簡単な目次を見ると、ともにヒルレルの思想およびシャンマイ派との対立などを考察した本格的な研究書だと思われます。著者は官学と在野の差はあれど、両者とも古代イスラエル学者で、内容は信用できそうですが、いかんせん古すぎる上に入手が極めて困難です。要するに七〇年当時はもとより、現在においてさえも、「日本人とユダヤ人」に言及された「ヒルレル」が何者なのか、判っている人はごく少数だ、ということでしょう。当時、「日本では知られていないが」と注釈のあるのが、判る気がします。
ただ検索の際にも面倒だったのですが、ヒルレルは古代にあって、ユダヤ教の教えにおいては崇敬されるべき著名な人だったためでしょう、同姓の著作者がやたら多いので、現在も「ヒレル某」という著作者は大勢います。最近ではリベラル派の自由主義を唱えるヒレル・スタイナー等がそうです。上述の検索結果はそうしたものを除いたものです。
生前のイエスと論争した反イエス派の筆頭として、「パリサイ派=律法学者」としては、普通のクリスチャンも馴染みがあるのでしょうが、イエスの死後、特にユダヤ戦争の後、神殿が破壊されて凋落したカヤパなど神殿に拠ったサドカイ派に代わって台頭したパリサイ派のその後の歴史については、驚くほどの無視のされ方です。まあ、正直なところ、キリスト教徒としては、イエス時代だけが重要で、磔刑後から現在に連なるユダヤ教がどうあろうと構わないのでしょう。
しかしながら、初期キリスト教会はイエスの死後、二百年ほどかけて完成されたものですし、その期間の、ことに紀元三〇年以後のユダヤ教の歴史に無関心ではいられないはずです。さらに、前出のフルッサーを始め、「我と汝」の哲学者マルチン・ブーバーなど他ならぬユダヤ教の碩学たちがディアスポラの二千年間かけて培った叡智によって、現在のクリスチャニティも逆照射して考察されているのですから、日本は知らず、海外では絶対に無視してはならないはずなのですが、わが国では、不当なほど、イエス以後のユダヤ教に関しては知られていません。
これはイエス以前の時代でも同じで、日本のクリスチャンはピンポイントでイエス時代(というか、その公生涯の三年間)のユダヤ教にしか興味がないようです。どれほど偉大な思想家でも、その文化圏から逃れられないように、いきなりポンと偉大な思想家が独自に誕生するはずもなく、イエスとて、当時のユダヤ教の中から生まれたわけなのですが、そこには目がいかない。イエス以前のユダヤ教の蓄積なくして、イエスは無かったはずなのですが、どうもそう考える日本人クリスチャンは少ないのか、ことさらユダヤ教とキリスト教とを切り離して考えたいものか。
かくて、ヒルレルは「日本人とユダヤ人」から半世紀たった今でも、わが国のクリスチャンの間ではほとんど顧みられず、また知られてもいないのです。むろん、これは一般信徒のことであり、専門の神学を修めた人は違うのでしょうが、彼らはおそらく原書で海外の文献や専門書を読むのだと思います。
なお、一般的に現在、ヒルレルという表記はなく、どの資料でもヒレルですが、私は慣れた「日本人とユダヤ人」での「ヒルレル」に従って、以下の記述でもそれで通したいと思います。戦前、マレーネ・ディートリヒをマルレーネ・ディートリッヒ、と呼んでいたようなものです。いまだに「若きウェルテルの悩み」とか「ワルサー拳銃」と記述している人が多いのですから、まあ、好いでしょう。
さて、ヒルレルに関するいくつかの記事は、紙媒体やネットなどに散見されますが、相互にまちまちで、一定していません。時には、同じリソースでさえ、経時的に内容を変えているほどです。なお新約には彼に関する言及は一切ありません。これは、おそらく活躍の時期のせいでしょう。
ウィキペディア英語版によると、ヒルレルは、紀元前一一〇年にバビロンに生まれ、紀元一〇年にエルサレムで死んだ、とされています。百二十年生きたことになります。功績としては、ミシュナとタルムードの開発に関連したユダヤ人の優れた宗教指導者、賢者、学者であり、タンナイムのヒレルの家の学校の創始者であった。とあります。孫のガマリエルほど高名ではありませんが、一応、息子であるシメオン・ベン・ヒルレルと区別するためか、「大ヒルレル(英語:Hillel the Elder)」と呼ばれています。タンナイム(Tannaim)とは、トーラーに関する註解や議論をミシュナーと呼びますが、この完成がほぼ紀元一世紀から二世紀にかけてで、それ以前の賢者の尊称です。
もっとも、異説では、ヒルレルとシャンマイで「ズゴス」の時代が終わり、それからタンナイム期に入ったともあります。タンナイムとは「教師(タンナ)」の複数形で「賢者たち」の意味です。この期のラビとしてはガマリエル一世、ヨハナン=ベン=ザッカイ、ラビ・アキバ、そして、単にラビと呼べば、この人を指すと言われた「首長(ハナシ)」ラビ・ユダがあり、彼の指導によって紀元二〇〇年頃にミシュナがまとめられた、とも言われています。
ここで、ユダヤ教の啓典について簡単に記しておきます。
「後述する宗教規範文書「ピルケイ・アヴォット」によれば――、
1)ミシュナとは「くり返しによる教え」というヘブライ語で、紀元前五世紀から紀元二世紀までの律法(トーラー)の解釈と口伝律法の集大成であり、紀元一世紀頃のタンナイム(賢者たち)であるヒルレルとシャンマイの解釈を中心とし、紀元二世紀にベン・ユダ・ハナシが編纂したものである(ゆえに、イエスの時代には、ミシュナーはまだ成文化されておらず、口伝律法の状態であった)。
2)その後、ミシュナーの注解が書かれ、それが「ゲマラ」である。ゲマラはアラム語で「完了」を意味する。二系統あり、イスラエル系のゲマラは紀元三九〇年にテベリアにて編纂され、バビロニア系のそれは紀元五〇〇年頃に、ラビ・アシュとその弟子のラビ・ヨセフによってまとめられた。
3)タルムードは、紀元前五世紀から一二〇〇年かけて議論を尽くされた律法解釈の集大成である。その中心にはミシュナーがあり、ゲマラと中世以降のラビたちの注解が付加されている。タルムードも二種類あり、エルサレム・タルムード(紀元五世紀)とバビロニア・タルムード(六世紀)である。後者はアラム語とヘブライ語で書かれ、分量的には、散逸した前者の三倍ある。通常、タルムードと言えば、後者を指す」
他方、ブリタニカ国際大百科事典(小項目版)がありますが、これは珍しく日本語版があり、書物(二〇一七年刊)としても販売されていますが、ネットでも見られます。こちらでは、ヒルレルは紀元前七〇年頃に生まれ、紀元十年に死んだとあります。八十歳の生涯です。ウィキペディア英語版とは四十年も差があります。
現在もですが、古代において、一二〇歳は有りえない長命なのですが、ユダヤ教においては、ユダヤの偉大な人物は一二〇歳まで生きた、という伝統的な考え方があります。だから、一二〇歳というのは実年齢というよりも、その人物が偉大であったことの美称に近いものであるため、おそらく、ウィキペディアの記述よりはブリタニカの方が正確でしょう。ちなみに、モーセや前述のラビ・ヨハナン、そして律法学者のラビ・アキバなどが一二〇歳まで生きたとされています。旧約の九六九歳まで生きたメトセラほどではありませんが、どれも伝説だと思われます。
さらに、現在、ブリタニカ百科事典(Encyclopeadia Britannica)は紙媒体を廃してオンラインのみになっており(二〇一二年第一五版から)、その最新版(英語版)を見ると、「紀元前一世紀から紀元一世紀の最初の四半期に活躍した」とあるだけで生没年については明示的に記述していません。平凡社世界大百科事典(第二版)にも、「生没年不詳」とあります。より慎重になっているようです。つまりは確実な文献が少ないものと思われます。当時あったとしても、ユダヤ戦争の混乱で散逸したのでしょう。まあ、二千年前の人物ですから、正確な生没年の詮索などは措きます。確かなのはヒルレルが生前のイエスと会うことはなかったということです。ルナンが「精神的な父(師)」という表現を用いているのは、そのためですが、調べていくと、事情はもう少し複雑になります。
それらの記述の信頼すべき点で判ることは、当時、パリサイ派は二つの派閥に分かれ、ヒルレルはその一方の穏和派の旗頭であり、反対派のより頑迷であったシャンマイ派と派閥抗争をしていた、ということです。一説によるとシャンマイ派は、ローマ帝国に対しては、ほとんど熱心党に近い強硬派だったとも言われ、一時期には、シャンマイ派が武力によってパリサイ派の実権を握ったとも言われています。そして、七〇年にユダヤ戦争で国家が廃滅し、神殿が破壊されて後は、シャンマイ派も衰退しています。すなわちヒルレルのパリサイ派が台頭することになります。というより、それしか、もう国家が壊滅したその時、ユダヤ教を後世に伝えうる人材はなかった、というべきでしょうか。
ヒルレル派の創始者がヒルレルであったように、シャンマイ派の創始者はシャンマイでした。彼は、紀元前五〇年に生まれ、紀元三〇年に死んだとされています。伝承通りだとすると、同時代人としては、年長者のヒルレルの活動が、かなり遅れたことになります。これも伝承ではヒルレルは最初の四十年を市井の一労働者として過ごし、次の四十年を学者として過ごした、とあります。しかし、ほぼ同時代を生きて、ともにパリサイ派を支えたというのが実情でしょう。
公平を期すため、シャンマイ派についても、上述のブリタニカと平凡社版の大百科事典の解説を引きます(※2)。
「シャンマイ(英語表記)Shammai 紀元前後のユダヤ教の指導的律法学者。パリサイ派に属し、ヒレル派に対立して、モーセの律法に対する厳格性、異邦人に対する偏狭性を固守した。また、パレスチナのローマ権力としばしば紛争を起した」(ブリタニカ版)
「紀元前後のユダヤ教の律法学者。生没年不詳。ヒレルの創始になる〈ヒレル派〉と並んでパリサイ派ラビの律法解釈に大きな影響を及ぼした学派〈シャンマイ派〉を創始した。旧約律法(トーラー)を解釈して、日常生活、祭儀、儀礼行為に適用するにあたり、ヒレル派に比してより厳格な立場をとった。反ローマの急進的な抵抗運動を展開した熱心党に思想的に近かったといわれるが、後七〇年のエルサレム滅亡後はその影響力を失った。[大貫隆]」(平凡社版)
※2)https://kotobank.jp/word/シャンマイ-76640
ヒルレルより更に短い解説しかありませんが、面白いことに、ブリタニカ版でのシャンマイの項目の「Hillel」の表記だけ「ヒルレル」になっています。ある時期には、こちらの表記が一般的だったのかも知れません。
いずれにせよ、二人ともイエスが死ぬ前の世代の人物であり、それぞれ「ヒルレルの家」「シャンマイの家」と呼ばれる一党を率いていたようです。「家」とは原語では「בית(Beit)」で、これは現代ヘブライ語の「ベト(Beth)」と同じ意味だと思われます。ヘブライ語の第二文字「ベート/ヴェート(ב)」(ギリシャ語のβ)と似た発音ですが、これはヘブライ語の文字が一種の象形文字から来ており、ベートは「家」を表していたからです。その語義は多岐をきわめていて、「家」「組織」「機関」と様々です。先の日本の小学校に相当する「書物の家」の原語は「Beth sefer」、英統治下で、移民活動を進め、イスラエル建国に一役買った「移民組織」は「Aliyah Bet(アリヤー・ベト)」でした(移民組織の正式名称は「非合法移民機関(ハ・モサド・レ・アリヤー・ベト)」で、建国後、ここから派れて「ユダヤ人連絡庁」と「イスラエル諜報特務庁(モサド)」が生まれます)。
だから「ヒルレルの家」と言っても実際にそういう建物があったわけではなく、かといって単純に門閥でもなく、一種の文化センターだった、と考えるのが正しいでしょう。特に神殿破壊以後、対抗勢力のシャンマイ派が衰退しても、ヒルレルの家は残りましたから、それが単なる派閥の名だったら「家」の箇所は違う名前になるはずです。
ところで、この二大派閥の内部抗争の話を知って、私は、ようやく新約の福音書に出てくるパリサイ人の、時として真逆にも思える性格の多様性(というか分裂ぶり)の由来が判ったと思いました。イエスは普段は穏和な態度と話し方をするのですが、パリサイ人に対しては、常に攻撃的で容赦ない罵倒で応えています。いわく「まむしの子」「偽善な律法学者」「盲目なパリサイ人」「白く塗りたる墓」と、さんざんです。この中にはサドカイ派も含まれているのですが、ほぼ同列にイエスは罵倒しています。
しかしながら、福音書では、同時に、イエスの下には、パリサイ派でありながら、イエスの教えを請う人もありますし、パリサイ派であると同時に、ユダヤ教改革派のイエスの教団に染まっている人も少なからず、います。私には、長いこと、どうしてこう両極端な人たちが、ユダヤ教の同一の派閥の中にあるのだろう、と不思議に思っていたのですが、なんのことはない、その宗教指導者の二大巨頭が率いるパリサイ派の中で、すでに派閥闘争が起きていたのです。そして、おそらくは頑迷なシャンマイ派がイエスを亡き者にせんと謀り、論争を挑んでいて、罵倒されていた。だが、イエスにより近い党派がナザレ派に接近し、それがヒルレル派だった、ということでしょう。ルナンが言うように、イエスが、パリサイ派内のヒルレル派の言説に触れていて、それに教化を受けたなら、それも至当なことになります。そして、これならば、福音書での、やや混乱した記述も、すんなり理解できます。
具体的にパリサイ派の親イエス派が誰だったかと言うと、まず、福音書(つまりイエス生前の物語)で、磔刑に架けられたイエスの遺骸を引取にきた「アリマタヤのヨセフ」がいます。ヨハネ書では、
「そののち、ユダヤ人をはばかって、ひそかにイエスの弟子となったアリマタヤのヨセフという人が、イエスの死体を取りおろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトはそれを許したので、彼はイエスの死体を取りおろしに行った」(第十九章第三十八節)
――とあります。
このアリマタヤのヨセフの事跡については、四つの福音書のどれにも記してありますので、わりと確かな事実だったと思われます。まとめると、
「アリマタヤの金持で、ヨセフという名の人がきた。彼もまたイエスの弟子であった」(マタイ書第二十七章第五十七節)、「彼は地位の高い議員であって、彼自身、神の国を待ち望んでいる人であった」(マルコ書第十五章第四十三節)、「ここに、ヨセフという議員がいたが、善良で正しい人であった。この人はユダヤの町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた。彼は議会の議決や行動には賛成していなかった」(ルカ書第二十三章五十節から五十一節)
――といったもので、珍しく全福音書が一致しています。
残念ながら、この人がパリサイ派であったとはどこにも書いてないのですが、まあ、常識的に考えて、サドカイ派ではないでしょうから、パリサイ派だったと思われます(※注)。裕福であり、サンヘドリンの議員であり、そしてイエスの弟子(支持者)でもあった。パリサイ派の中にも、すでにイエスの生前に、ナザレ派に改宗した人がいたわけです。おそらくヒルレルの思想を受け継ぐ人だったのでしょう。
※注)パリサイ派とサドカイ派の決定的な相違点は、奇跡や霊性の肯定か否定にあります。使徒行伝には次のようにあります。
「元来、サドカイ人は、復活とか天使とか霊とかは、いっさい存在しないと言い、パリサイ人は、それらは、みな存在すると主張している」(第二十三章第八節)
これを敷衍して、ワイルドのサロメにもサドカイ派とパリサイ派が「天使などいない」「いや、いる」といった論争をヘロデ王の前で繰り広げる場面があるわけです。
さらには、パリサイ派の大立て者として、使徒行伝で、ペテロたちがサンヘドリンに召還されて、その場にいた議員たちが彼らを殺そうとしていた時に立って、彼らを擁護したガマリエルがいます。使徒行伝の、
「ところが、国民全体に尊敬されていた律法学者ガマリエルというパリサイ人が、議会で立って、使徒たちをしばらくのあいだ外に出すように要求してから、一同にむかって言った、「イスラエルの諸君、あの人たちをどう扱うか、よく気をつけるがよい」同書第五章第三十四節から第三十五節)[この間、最近起きた騒擾とその(ローマの弾圧による)離散について語り]
「そこで、この際、諸君に申し上げる。あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」(第五章第三十八節から第三十九節)
――これによって大祭司カヤパが率いる反ナザレ派のサドカイ派までが、一言の反論も出来ず、やむなくペテロたちの助命に和するのです。ガマリエルという人は当時、相当な権威や敬意を払われていた人物なのだということが判ります。実際、彼の家系はユダヤ教の中で卓越した立場にあり、ユダヤ戦争後、大祭司を務めていたアンナス家が没落した後、サンヘドリンの長(ナーシー)の地位に就きます。そして、このガマリエル一世は、ヒルレルの孫であり、かつまたパウロの師でした。もっとも、パウロはこの時期、まだペテロたちナザレ派の迫害者の側に立っていましたから、ガマリエルの弟子の中にも、諸派があったようです。
パウロとの関係は、本人自らが後に人々に語っています。使徒行伝では、
「そこで彼は言葉をついで言った、「わたしはキリキヤのタルソで生れたユダヤ人であるが、この都で育てられ、ガマリエルのひざもとで先祖伝来の律法について、きびしい薫陶を受け、今日の皆さんと同じく神に対して熱心な者であった」(第二十二章第三節)
――とあります。
穏和な学風で知られるガマリエルの門下生にしては、パウロは、ナザレ派の弾圧など、やたらめったら過激な行動に出ている気がしますが、それはこの際、措きましょう。
さて、エルネスト・ルナンの「イエス伝」は、私は乱読期の高校の頃だったかに図書館で借りた岩波文庫版をとばし読みした、かすかな記憶はあるのですが、全く内容を憶えていません。今回読み返して、理由が判りました。この文庫は昭和一六年初版で、いま私の手許にあるそれは二〇一〇年刊の三二刷なのですが、その間まったく改版されていないのです(版組が昭和一六年のままです)。
私はわりと昔から古い戦前の本などを読んでいて、世代のわりには、こういった本も読めないことはないのですが、この本は全編、旧かな旧漢字(旧字体)のオンパレードです。「全體(体)」とか「舊(旧)字」「變(変)化」といった漢字が、ぐいぐいこれでもか、というくらいルビもなく頻出するので、古書に不慣れな人が読破するのは結構きついでしょう。しかも活字は細かい。私は老眼が入っているので小さい活字に目が疲れました。言わでものことを付け加えると、むろん昭和一六年当時の人は、この本をたやすく読みこなせるだけの旧漢字への慣れがあったのです。
岩波書店は、これだけロング・ベストセラーなんだから、せめて新字体にするとか工夫したら、どうなんだろう、と思ってしまいました。私が古い本を読めるのは、少年時代に、実家にあった総ルビの旧漢字で版組が組まれた古本で、「吾輩は猫である」などを読んだせいなのですが、まだルビがあればともかく、ルビ無しで、この旧かな旧漢字の羅列には、若い人は拒絶反応を示すだろうと思います(総ルビの「猫」などを読んでいると、しだいに旧漢字に慣れてきて、そのうちルビ無しの本でも自然に読めるようになるのです)。
訳者の津田穣氏は明治生まれの京都大学仏文科の人で、他にパスカルの「パンセ」や、「家なき児」「家なき娘」などの訳でも知られた人です。そのせいか、旧漢字をのぞけば非常に丁寧で読みやすい訳文であり(初版が戦前で今も出ている本が旧漢字なのは氏の責任ではありません)、しかも原著にあるギリシア語までキチンと再現されています。戦争直前に、手作りの活字を作って埋めたものと思われます。随想というよりも、いっそ学術書並みの造りです。
この本は現在、絶版品切れですが、他に単行本で忽那錦吾訳「イエスの生涯」(人文書院 二〇〇〇年刊)が出ています。しかしながら、アマゾンのカスタマーレビューを見ると、それでも岩波文庫版の方を推奨する人がいます。理由は人文書院版は普及版で全二八章のうち二三章までしか訳されていない、他にも訳し落としがある、などで岩波文庫版を勧めています。しかし、まあ歴史的名著ではあるのですが、読めないとどうしようもないので、これを今の若い人に読め、というのは少し酷な気がします。読むなら人文書院版の古本をAmazonで求めるか、図書館で読むことをお勧めいたします。
あと、戦前の本(というか、原著は一八六三年刊ですから百五十年以上前の本)にしては、文章は平易なれど、「エッセネ派」や「グノーシス説」といった用語が何の説明もなく出てくるので、果たして、七〇年代(やそれ以前)の日本で、これを読んで十全に理解できた人がどれほどいただろうか、という疑問もあります。無数の注釈が付いているのですが、これは大半が聖書からの引用の引用元の注記で、エッセネ派もグノーシスも全く注釈がないため、戦前戦後の時点では誰も理解できなかったでしょう。
ルナンのこの書は明治三三年から早稲田大学の前身だった東京専門学校の出版部から訳書は出ています(耶蘇伝、といった表記ですが)。しかし、フランス本国は知らず、十九世紀当時の大半の日本人読者には内容が難しくて理解できなかったのではないかと思われます。七〇年代の日本でも、この二つの用語を理解し説明できる人は、よほど聖書考古学に詳しいか、異端の教義に通じた特殊な人たち以外には中々いなかったように思うからです。アニメやゲームでの普及により、今でこそ死海写本とかグノーシスとかいった用語は、特に若い世代において、人口に膾炙していますが、半世紀前には、ほとんど知られていませんでした。そういう意味では少なくとも七〇年代に、この本はかなり難解なものだったと言えます。
「イエス伝」は単独で読まれることが多いですが、これは(訳者が解説で細かく記しているように)全八巻の大著「キリスト教起源史」の第一巻に相当します。国会図書館のOPACで調べたのですが、日本では全巻の完訳は出ていません。人文書院から忽那錦吾訳で第三巻「パウロ」、第四巻「反キリスト」の二冊が出ていますが、他の巻は刊行されておらず、現在、「イエスの生涯」を含めていずれも絶版です。わが国では、ルナンは「イエス伝」の作者、という以外、多くの認識はないものと思われます。聴けば大概の人が本の題名は知っているが、実際には読まれていない名著、というのは多いものです。
とはいえ、日本で知られていないからといってルナンの「イエス伝」の画期性は不変です。二十世紀を代表するドイツの新約学者ルドルフ・ブルトマンは一九二一年刊「共観福音書伝承史」において、「原始キリスト教団によって宣教されたイエスは「宣教(ケリュグマ)のイエス」であり、それは必ずしも「史実のイエス」ではない」との問題提起をして、「史的イエスと宣教のキリスト」をくっきりと区分したのですが、そうした人間としての「史的イエス」の生涯を描いた書としてルナンの「イエス伝」は先駆的、というか、おそらく西洋社会で初めてのものでした。
ただし、手放しで誉められるか、というとそうではない。ルナンにも、この本にも、いろいろと問題は多いのです。
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