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「日本人とユダヤ人」講読


             野阿梓


   第十二講  ロープシン(2)


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私は、やはり七〇年前後の(日本での)言説ですが、戦争体験のある人から「戦争に行って人を殺したことのない君たち、今の若者はまだ「大人」じゃないんだ」といった言葉を聞いたことがあります。それを聴いた私は非常に腹を立てて、(お前たちだって、好きで戦場に行ったわけじゃないはずだ。赤紙で召集され、行った先の戦場でやむをえず敵を殺して、それが成人への通過儀礼だ、などというのは、自分の意志で人を殺したわけではない殺人への、卑劣な言い訳にすぎない)などと思ったものです。なにしろ不眠症の反抗期のガキですから、まあ、多少のことは、ご寛容ください。

しかし、七五年に大学に進学して、語学研修の名目で、パリに行った私は、同じユーロサントルの教室で知り合った同世代の欧州の若者たちから、「君はもうサービス(兵役)を終えたか」と訊かれて、とっさに答えに窮しました。つたない仏語で、「いや、ジャポンにはセルヴィスがない。だから自分はアルメー(軍隊)には行っていない」と答えると、相手が、ため息まじりに「それは君たちジャポネーは運がいい」と言われるのは、すこしだけ苦痛でした。
七〇年代当時、冷戦下の欧州各国では、NATOがワルシャワ条約軍と対峙して存在していましたし、世界的にも徴兵制度がない国は少なかったのです。同じ年齢の若者たちに交じって、自分だけ兵役逃れをしているような負い目を感じないわけにはいきませんでした。

七三年に、ピーター・フォンダ主演、ロバート・ワイズ監督の「ふたり」という映画が公開されました。旅先のマラケシュで出会った米青年のピーターとヴォーグ誌のモデル、リンゼイ・ワグナーが恋に落ちる、という大作でもないし、なんということもない佳品なのですが、実はこの青年は出征先のベトナムから脱走したのです。いわゆる「良心的徴兵忌避者」ではなく、脱走兵、という状況がまず重い。当時は、またベトナム戦争は続いていましたが、ニクソン政権下でパリ和平協定が結ばれ、米軍はベトナムからの撤退を始めていました。
モデルと最初に出逢った時に、青年は米大使館員とレストランで食事しているのですが、それは逃げるのに疲れた彼が大使館に出頭し、強制送還ではなく自由意志で帰国する算段を付けていた時だった、と彼は後に女性に語ります。途中まで、そういった事情が判らないため、女も観客も、なんとなく、この青年が謎めいた存在に見えます。カサブランカ行きの列車で再会し、意気投合しますが、青年は自分のことを喋りたがりません。そして、カサブランカ発の飛行機で、またしても一緒になった青年は、ようやく自分のことを女に語るのです。パリに着いた二人は抱き合い、短い二度と会えないと判っている恋に身を焦がします。
私はとっさに、その映画を思い出していました。当時は不眠症と不安神経症の只中でしたから、映画館の闇の中で、なにやら異様な神経の昂ぶりを感じた遠い記憶があります。

私は、やっと神経症は社会的寛解を見て、しかし、不眠症のまま、なんの人生の目的もなく大学に進学しました。私の行ったミッション校は中高大の一貫教育ですから、学年三百人の内、百五十番以内であれば、どこの学部にでもエスカレータ式に進めたのです。私は皆がいく法学部はなんだか退屈そうだし、かといって英文科などは正式に受験して入ってくる猛者たちと競争になるだろうから、それは避けてスタート地点が誰も同じであるはずの仏語を選んだのですが、当時、仏語には英文科で落ちた連中が回されてくる、というシステムだったらしく、英語に強い人間は初めてでも仏語にも強いので、たちまち落ちこぼれかけました。そこで最初は帰宅部だったのに、五月すぎに語学サークルに入って、自分一人だけでは覚束ない語学に少しでも追いつこうと思ったのです。

よく考えると、というか、後から振り返って思うと、私は非常に運が好かったのだ、と思います。確かに不眠症に罹ったのは不運でしたが、当時、もし公立校を選んでいたら、そこでも、不眠症は発症していたと思うので、たぶん、学業優先の公立では退学を余儀なくされていたでしょう。となると、中卒で社会に出ることになっていたはずです。
また、その頃は、将来のことなど、全く考える余裕もなかったのですが、仮にも大卒、ということで、たまたま受けた公務員試験に合格した(これも自主的に受験したわけではなく、一年前から一橋出版の過去問で勉強していたサークル仲間から、一人で行くのは心細いから一緒に受けないか、と誘われて、何も考えずに受けて、私は合格し、彼は落ちたのです)。それで、九州管区で二二六人だかいる内の二一三番目の成績、という惨憺たる合格点で、年明けになって、やっとどうにか鹿児島大学の面接に受かったのです。しかも、その際、大学の面接官はソファに寝っ転がって、面接をしていたので、私は(ああ、もう自分を採用する気なんてないんだな)と思ったため、それまではかろうじて装っていたリクルートスタイルを全て捨てて、出放題のことを喋ったら、なぜか採用されたのでした。
仮に、私が公立校に行っていたら、仮に大学で法学部を選んでいたら、仮に……もう止めますが、どれか一つでも、その条件が無かったならば、私は今、国立大の図書館員として、また物書きとして、ここに立ってはいなかった。不眠症に罹ったのは人生の不運でしたが、それ以外では、私は非常に恵まれた幸運な人生を歩んでこれたわけになります。

そういう何の思慮もないノンポリ(非政治的)学生ですから、世界という外部など、考えたこともなかった。ましてや、世界ではどこでもまだ戦争が続いているのだ、などと言うことは、パリまで行って、初めてその実態に気づいたようなものです。
当たり前ですが、そこではミリタリー・サーヴィス(徴兵制)という目に見える形で、東西の対峙の下にいる同世代の若者たちがいて、青春を犠牲にして銃を手にし、人殺しの方法を学んでいた。つまり戦争は現実のものとして私たちと共に在ったのです。否、日本を一歩でも出たら、世界各地で戦争は現実のものとして、どこにでも在りました。東南アジアで、黒い九月のミュンヘンで、パレスチナで。それを私は見なかった。いいえ、見ようともしなかったのです。

しかし、七〇年前後、当時の日本では、戦争に行かなくても、実際に人を殺した若者たちはいました。新左翼過激派の政治的闘争の中で内ゲバが日常的にあり、そうした中で、最初はデモに使う角材でリンチをしていた彼らは、しだいに武器を鉄パイプなど、より殺傷能力の強いものに持ち換えていきます。未必の故意にしろ、相手が死んでも構わない、という覚悟が、闘争の精神を鍛えることだ、といった倒錯した考えに支配されていたのです。
戦争ならば、国家がそれを免責しますが、内ゲバ殺人では、何も免責されない。だから、青年たちは、その重みを内面に深く刻みこむしかなかった。当然、彼らの精神は不安定なものになります。いくら抑圧したとしても、殺人という人間的存在で最大の罪が、どんな政治的スローガンでも消せるわけがない。それが、やがて七二年の「連合赤軍」事件につながっていきます。高校時代に、私は「あさま山荘事件」をTVで見ましたが、その時の私にとって、それはブラウン管ごしの光景でしかありませんでした。しかし、内ゲバであれ「総括」であれ、そのように「現実」に死と直面していた若者たちも、同時代の日本に、いたことはいたのです。

私は「バリケードに遅刻した」世代ですから、そういったことを現実には何一つ知りません。しかし同時代に生きる少し年長の若者たちが、そういう殺伐とした荒涼たる精神の領域に入りこんでいる現実は理解していました。私にはワーニャのキリスト教的な「愛」は実感としては判らないが、ミッション校で高校から大学まで行ったので、その理念は判る。そして、想像力をたくましくすれば、最後に主人公を襲った虚無感だって理解できます。しかし、それは観念的に理解しただけです。本当に判ったとは言えない。世間を知らないティーンエイジャーが「罪と罰」を読んで、ラスコリニコフの苦悩が理解できたと言うようなものです。それくらいは、さすがに自分でも判っていました。だからと言って、どうすることも出来ません。私は政治的人間ではないし、それに七五年に私が大学に入ったころには、そうした熱い政治の季節は遠のいていたからです。

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実のところ、私はロープシン/サヴィンコフより百年後の世界に生まれ、生きていました。当然、彼がこの作品を書いたであろう時期には知り得なかった「その後」の出来事も知っている。それは、ワーニャのようなキリスト教的な倫理とテロリズムの対比、といった、いわば文学的主題とは大きくかけ離れた、もっとどす黒い、人間の精神の淵を視つめるような「出来事」が、サヴィンコフのテロルと同時進行的に起きていたのです。それをあらかじめ知った上で、「蒼ざめた馬」を読む私は、たいそう複雑な思いにならざるを得ませんでした。なぜか――。

「蒼ざめた馬」。この虚無主義とシニシズムに満ちたテロリストの内面を描破した作品は、〇九年に「ロシア思想」誌に発表されるや、たちまちヨーロッパで一世を風靡し、ロープシンは文学者として世界的名声を獲るにいたります。パリの社交界では、進歩的なサロンに招かれた彼は、伝説的なテロリストにして文学者である希有な存在として、花形あつかいされたそうです。

ところが、実はその時すでに、サヴィンコフは、小説どころではない政治的大混乱の中にありました。〇六年には彼は逮捕されて死刑判決が出ているのですが、これは奇跡的に脱走して官憲から逃れています。しかしながら、彼はエスエルという党の非公然組織において、非合法な戦闘団の上級指揮官アゼフの部下として現場工作員の隊長として働らいてきたのですが、あるジャーナリストの告発で、そのアゼフが帝国特高(オフラーナ)のスパイだったことが暴露されたのです。しかもテロリスト実行部隊の中核にいて、プレーヴェやセルゲイ大公の暗殺を指揮しながら、もうすでに何人もの党の同志たちを特高の手に引き渡している、というのです。

これは、実直なロシアの社会運動系のジャーナリスト、プルツェフが、かねてより疑惑を抱いて調べていて、ついに帝都の警視総監だったロプーヒンと偶然、同じ列車に乗って、彼のインタビューに成功し、元警視総監の口からアゼフの名を聞き出したことで判ったのです。つとにジャーナリストが調べていたラースキンという帝政ロシアの大物スパイが、特高の秘密要員であると同時に、社会革命党の幹部アゼフだとの事実が、疑う余地もなく照合されてしまったことで、事が発覚しました。

アゼフは学生だった二十五歳くらいから、時の帝都ペテルブルグ警保局長に匿名の手紙を送り、スパイとしての自分を売り込むのですが、たちまち筆跡鑑定から足がつき、身許を割り出されて、それからずっとスパイとして、またテロを辞さない党員としての二重生活を送っていたのでした。この警保局長が後の警視総監になるのです。アゼフはエスエルの結党にも参加しており、その戦闘団を率いていた当時まで十五年間も、そうした醜業を続けていました。〇五年には、第一次ロシア革命が起き、そのさなか、日露戦争当時、欧州での諜報活動に従事していた大日本帝国陸軍の明石元二郎大佐も、アゼフに面談して、当時の金で四万円(現在の約三億円)の資金を渡したと言われています。アゼフは戦艦ポチョムキンの反乱に使ったと明石大佐に思わせていたようです。しかし、これらの莫大な金はいずれも賭博や遊興で蕩尽したと信じられています。

エスエルこと社会革命党はやむなくパリ本部で査問会を開くのですが、査問対象はアゼフではなく、告発した当のジャーナリストでした。彼の告発はにわかには信用されず、まず告発した彼が査問にかけられたわけです。この時、サヴィンコフは輝かしい(テロの)成果を上げた上司を中傷した人間を告発するため証人として列席します。この時期、査問会とニコライ二世暗殺はほぼ同時に進行していましたが、暗殺計画は失敗に終わりました。別にスパイがいたとかではなく、現場の工作員がいざとなると臆して動かなかったのです。パリで報告を待っていたアゼフやサヴィンコフは落胆します。

しかしながら、査問会は大胆にも、特使を立ててジャーナリストの情報源となった元警視総監のいるペテルブルグへ派遣して、彼から証言を得ようとしました。ところが、元警視総監は不遇の身をかこちながら(彼はプレーヴェ内相暗殺を防げなかった失態により、失脚したのです)、アゼフなら先日、自宅を訪れた、と彼はこともなげに特使に語ります。特使は驚愕しますが、さらに彼は、アゼフ訪問の翌日に、自分を追い落とした政敵である特高長官から、「アゼフには構うな、ジャーナリストに話したことは否認しろ」、と警告を受けて憤慨している、とも語ります。茫然とした特使はこの知らせをもってパリに戻ります。

パリでは朗報を期待してサヴィンコフらが待っていたのですが、返ってきた回答はアゼフに不利なものばかりでした。査問会は独自の調査をしていて、彼らはアゼフがある人物Nに会いにミュンヘンに十日滞在したことを知っていました。サヴィンコフ自らが査問会の意を代表してNに実際に面会して質すと、アゼフは一週間しか此の地にはいなかった、という。アリバイが崩れたのです。サヴィンコフは、最早ここまで、と元警視総監がロンドンにいるという情報を掴み、そこに赴きます。一九〇三年から最近にいたる、ラースキンことアゼフと帝政ロシア警察との関係は、理路整然と語られる元警視総監の証言によって、さしものサヴィンコフも同意するしかないものでした。すでに職を失なった彼には今さらアゼフを陥れるために偽証するメリットは何もない上に、そこは祖国から離れた英国です。公平中立な立場からの証言に、サヴィンコフもやっと事の真相に行き当たります。同志を特高に売り渡し、同時にテロを指揮していた恐るべき裏切り者は、わが盟友であり上司のアゼフだったのだ、と。

この重大かつ致命的な事実が判明するや、党は特別委員会を開き、すぐに決議を出し、アゼフの密殺を企図しますが、パリで殺害すると党の公然部門が危機に晒される。またアゼフに最後の弁明をさせないで殺害したとなると、帝国政府が恣意的に流言を放ち、党内の大物を他ならぬ党の独断で処刑せしめた、との社会的風評は避けられない。これでは露都での赫奕たるテロの成功で名を上げたエスエルも名誉失墜はまぬがれない。だから党は名目だけでも、今一度の査問を命じます。この決定に、サヴィンコフは不服でしたが、党命では仕方ありません。彼らはアゼフの自宅を訪ねます。アゼフは突きつけられた容疑について十分な反論が出来ませんでした。それで誰の目にもアゼフがスパイであることは確定しました。サヴィンコフは「明日正午限り、我々は自由な立場を取る」と暗に処刑をほのめかし、立ち去ります。その夜のうちにアゼフは姿を消しました。世評では故意にサヴィンコフがアゼフを逃がしたのだ、という風聞が立ちます。仕方ありません。サヴィンコフはテロの実行部隊ですが、スパイの暗殺は党の別の部門の仕事です。

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最早ここまででした。党中央委員会は元警視総監への告訴を取り下げ、アゼフに対する宣言を公示して彼が警察のスパイだった事実を内外に明らかにしました。
今度は世界中が驚愕する番でした。テロで帝政ロシアの高官に投げつけられるべき爆弾を、自らに投じたような爆弾的告解です。社会革命党のテロについては、すでに世間に広く知られていたので、なおさらです。そのテロリストの首魁が同時に特高のスパイだった、という党自らの告発は、世評を驚かすに十分だったのです。

片方で社会革命党のテロ部門の長として皇帝に親い最高権力者まで暗殺しておきながら、他方では、そうしたテロリストの同志や政治的ライバルをロシア特高に売り払っては金銭を得ていた。この信じがたい完全な二重人格的存在は、全世界に一種異様な衝撃を与えました。あたかも自分だけは闇に潜み、のっぺらぼうの無貌の存在として、黒いその手を自在に操って、右手でロシア高官をテロで殺害させ、左手ではその仲間である党員を官憲に売り渡す。こんな人間が果たして本当にいるのだろうか。誰もが驚嘆すべき事件でした。ドストエススキーがもう少し長生きしていたら、おそらく喜び勇んで、この複雑怪奇な事件をモデルにした超絶面白小説を書き、アゼフという男の恐るべき実存的裏面を描破したことでしょう。
なお、ジャーナリストのプルツェフはこの事件で「ロシア革命のシャーロック・ホームズ」と呼ばれたそうです。

この件に関して特に打撃を受けたのが、当の帝政ロシアの警察官僚です。社会革命党におとらず、そのダメージは大きかった。自分たちが末端のスパイとして使っていた人間が実はテロ組織の大物で、実際に、自分たちの上司(それもトップの)プレーヴェ内相やモスクワ総督であったセルゲイ大公の暗殺にまで携わっていた。これは警察の面体を損ねる、といった程度ではすまされない衝撃でした。切羽つまって、現政権にある彼らは失脚した上に機密を漏洩した元警視総監を裁判の庭に引きずり出しました。誰かスケープゴートがいないと、どうにもならない状況だったのです。自由な発言を封じられた彼は、かなり不利な状況に追い込まれました。皮肉にもロシア帝国が滅びた一七年になって、ようやく彼は自由な発言を許されたのですが、今度は警視総監時代に帝政ロシアで自分が為した汚れ仕事を、あまり明らさまには言えない事情から、完全な自由発言とはいかなかったようです。

一方、行方をくらましたアゼフは数種類の旅券や、スパイ行為で稼いだ金を各地に分散させていた資産により、欧州各地を転々として革命党と官憲の両方から遁走し続けました。どちらにも見つかったら、それこそ生命が危うい。逃避行には愛人を連れ、ついにはベルリンに戻って、大胆にも偽名を使って株の仲買人となって贅沢な暮らしを再開します。だがしかし、第一次大戦の勃発が彼の命運を分けました。独ソの対立で、ロシアにある彼の資産が凍結され引き出せなくなり、取引不能の状況になったのです。さらに、戦況の悪化にともないアゼフはドイツ官憲から拘引されます。なんとも皮肉なことに、理由は敵性国ロシアのスパイだからではなく、世界的に危険な革命主義者でテロリストだから、という容疑でした。戦争終結後には本国政府(ロシア)に引渡すことになっているという。頭の固いプロシアの官憲には、テロリストでスパイという彼の供述が理解できなかったのかも知れません。戦時下の悲惨な牢獄生活は二年半つづきます。そこでもなお商才はたくましく、獄中からアゼフは愛人に手紙で指示し、コルセットの店などを経営させていました。
敗戦したドイツでは十月革命があって、その混乱のうちに運良くアゼフは釈放されます。しかし獄中生活で彼は体調を崩し、一八年の四月には腎臓を患って入院、同月のうちに死去しました。

以上は、私が持っている、大仏次郎「ノンフィクション文庫」第七巻「ドレフュス事件・詩人・地霊」(朝日文庫 八三年刊)の「地霊」に記されたドキュメンタリー記事を参考にした素描です(なお「詩人」は先述のカリャーエフを主題にした作品です)。この文庫版の大仏次郎ノンフィクション全集は全九巻で、主に「パリ燃ゆ」(全六巻)を中心としています。しかし、この巻の人間の魂の深淵を見下ろすかのような冷徹な眼差しは、他に類書をもとめるなら、私が尚愛する久生十蘭の戦後の一連のノンフィクション(スタヴィスキー事件やメデューサ号の筏などを描いたもの)しか知りません。
大仏次郎は、この物語を次のように、締めくくっています。

「獄中から(愛人の)N夫人に寄越した手紙の中に、次のような一行がある。
「俺れの不幸と比較になるのはドレフュスだけだ」
途方もなく一代を肉体だけの存在だった」

大仏次郎-地霊cover001


ともあれ、当然のことながら、この事件では、アゼフの片腕として、死線を越えてテロの現場に共にいたサヴィンコフが、最大の精神的打撃を被りました。肉親以上の絆を築き、もっとも信じていた(と思っていた)人間から手ひどく裏切られたのです。翌〇九年に、「蒼ざめた馬」を書いたのは、彼自身の引き裂かれた精神を癒やすために必要なテロルという現実の虚構化だったのかも知れません。この前後から、彼は後に「テロリスト群像(原題は「テロリストの記憶」)」として二八年にまとまって本として刊行される回想録を書いていたようです。これは現在、ロシア語版が全文ネットに掲載されていますが、その日付は〇九年になっているので、当時すでに一気に書き上げて、本として刊行されたのが二八年なのかも知れません。カミュが四九年に書いた戯曲「正義の人々」は、この回想録を元にしています。ネットでは、他に「蒼ざめた馬」や「黒馬を見たり」も全て露語テキストがアーカイヴされています。
編集工学者の松岡正剛はネット版「千夜千冊」で「蒼ざめた馬」を取り上げ、「サヴィンコフは右からも左からも、上からも下からも、葬り去られた男なのである」と記していますが、そうした革命の中の真空地帯のような場所に自らを追いこんだ悲劇的存在を、なおロシア語圏の心ある人々が、このようなサイトを作っているのかも知れません。

今の日本では、ロープシンは、特に耳目を惹く存在ではないと思われます。六七年以降、何度か復刊はされているのですが、〇六年を最後に新しい版は出ていませんし、いずれも絶版です。大正時代にまとめて刊行され、さらに七〇年安保闘争を前に刊行される。どちらも政治の季節です。ある人は梶井基次郎の「檸檬」(二五(大正一四)年)もまた、檸檬を爆弾に見立てて、それが丸善書店で爆発する白昼の幻想は、大正デモクラシーの中で夢見られた日本風のテロリズムの受容ではないか、と評しています。現在の丸善は単なる書店に過ぎませんが、戦前は、洋書を取り扱う数少ない書店でしたし、輸入商店として洋装品なども扱っていました。私の母は戦前の丸善の古書部に勤め、タイピストとして洋書の古本を整理する仕事に就いていたことがあります。いわば、西洋文化の入り口に等しかったのです。今となっては、ジョージが旧約を引用して言うよう「すべては空の空」(伝道の書より)でしょう。
また世界史的にも、正史から弾き出された、しかも、ソ連側からは、トロツキー以上に忌避されている人物であり、かといって旧西側陣営からも、メンシェヴィキのエスエル党員のテロリストは、あまり歓迎されざる人物です。どちらからも側まれる存在として、現在では忘れ去られて当然なのですが、どこかに彼を忘れてはならない、と考える人たちがいるのでしょう。露語とはいえ、その全文がテキストで読めるのは、ロープシン/サヴィンコフの霊、ならびに、彼とともにロシアの街上に散った、帝政に抗した無名の若きテロリストたちの無数の英霊に、捧げる最大の無告の花束に他なりません。

ところで、七五年当時の私は、革命とかテロルといった「観念」に麻薬のように耽溺する愚かな学生でしたので、実際に爆弾で人を殺したテロリストの回想でもある小説を、あたかもチャンドラーの過剰に感傷的なハードボイルド小説のように誤読していたのです。われながら救いようがないおバカだと思うしかありません。

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さて、アゼフ事件の痛手から回復したサヴィンコフは、パリの社交界で花形となり、内面の失意とは無関係に、一時の栄光に見舞われましたが、その後、一七年の二月革命が勃発すると、生活は一変します。ついに帝政ロシアは倒れ、今度は彼はケレンスキー内閣の陸軍次官に就任したのです。テロリストとしての彼の栄光は、まだ残光として人々の記憶に新しかったと思われます。ところが、同じ年のレーニンが企てた十月革命によって、彼の社会革命党を含む多数派のメンシェヴィキは打倒され、少数派だったレーニンのボルシェヴィキが政権を奪取するにいたります。多数派といっても合従連衡のあげくに野合した党派の集まりにすぎない、しょせん烏合の衆であるメンシェヴィキは、一枚岩のボルシェヴィキに抗しがたく、いとも容易くヘゲモニーを奪われてしまうのです。これから先は、途方もない混沌が続きます。ロシア皇帝を支持する亡命者と二月革命でそれを倒したはずの革命党諸派が同盟して、いわゆる白軍(亡命ロシア軍人による赤軍に対抗する軍事組織)を組織し、トロツキーが編成した赤軍と内戦状態に陥ります。もう滅茶苦茶です。

サヴィンコフはその後もモスクワに潜伏して、祖国と自由の防衛同盟を組織し、(ソ連共産党にとっての)反革命組織をオルグします。一八年には同盟指導者としてロシア各地を転戦し、反ボルシェヴィキ蜂起を企図しますが、いずれも赤軍に敗れ去り、パリに戻ります。もはや主義主張の敵味方はなく、反共産主義政府の指導者コルチャック提督の代表を務め、一九年から二〇年にかけては、ポーランドに移り、党命とは別個に、ソ連・ポーランド戦争で白軍を組織し、さらに旧赤軍兵捕虜らをリクルートして部隊を編成しますが、これは失敗に終わり、ついに彼は党を除名されます。二一年にソ連・ポーランド戦争が終結するとポーランドはソ連との摩擦を避けるために、彼を国外退去処分にしました。
ロープシン名義の彼の詩に「祖国を失なった。ゆえに何も信じられぬ」という詩句があるのですが、もうすでに彼には、信ずべき何んにも残ってはいませんでした。ただ、自分たちが青春を賭けた革命を横合いから奪い去ったボルシェヴィキ憎さに、自動機械のように無差別なレジスタンスを続けているだけなのです。

他にも彼は、イアン・フレミングがジェームズ・ボンドのモデルにした、と言われる伝説的な英国のスパイマスター、シドニー・ライリーとも連携してSIS(現MI6)と共謀し、反ボルシェヴィキ闘争を企図しますが、いずれもOGPU(KGBの前身/現FSB)の対諜作戦に阻まれます。ポーランドのピルスツキ元帥や英国のチャーチルとも私的な身分で会ってレーニンのボルシェヴィキ政権打倒の試みを模索しましたが、いずれも奏功しませんでした。とにかく、もう交渉相手も見境いなく、ありとあらゆる手段を使って、革命を「簒奪」したレーニンたちのソ連を攻撃し続けたのです。しかし彼の八年間にわたる計画は全て失敗に終わりました。帝政ロシア時代には特高(オフラーナ)の名で恐れられたロシアの秘密警察は、ソ連時代には、レーニンによって、今度はチェーカーとなって亡霊のように蘇り、またしてもサヴィンコフの策謀を阻むのです。

チェーカーとは正式には「反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会」の略称ですが、蔑称ではなく、彼らは自ら誇りをもって自分たちをチェキストと呼んでいました。しかし、やっていることは、ロシア帝国の特高と何一つ変わりありません。内戦が始まると、レーニンは彼らに非常権限を与え、裁判所の命令なしに容疑者の逮捕、投獄、処刑が可能になりました。帝政ロシアの特高より恐るべき秘密警察の誕生です。これは二四年にレーニンの死後、スターリン独裁下での「粛清」に無制限の力を与えます。チェーカーはやがてGPU、OGPU、と名前を変え、そしてスターリンの死後、KGBに至ります。モスクワのルビヤンカ広場に面したその本部兼刑務所は、ソ連崩壊の後、ロシアのFSB(連邦保安庁)と名を換えて今なお存続しています。

二四年、サヴィンコフはOGPUの奸計(シンジカート二号作戦)に落ちて、反ソ・レジスタンス組織の会合がミンスクである、との偽の知らせの罠に誘いこまれたソ連国内にて、ついに彼は逮捕されます(半年後にはライリーも同様の計画に乗せられてソ連入りしたところを逮捕され、モスクワ郊外の森で銃殺されています)。当時よくあったシナリオ通りの裁判により死刑を宣告。しかし二五年五月にルビヤンカの中庭で墜落死しています。NKVD(内務人民委員部)は自殺を図ったのだと報じましたが、ソルジェニツィンらの証言では、五階の窓から突き落とされ殺害された、となっています。四六歳、波乱の人生でした。


「蒼ざめた馬」以外のロープシン/サヴィンコフの著作としては、「テロリスト群像」(一二年刊)「起こらなかった何か」(一二年刊 )「黒馬を見たり」(一七年刊)「牢獄:ロープシン短編集」(二五年刊)「ロープシン遺稿詩集」(白馬書房 七二年刊)などがあります。
ほとんどが七〇年代までに日本では翻訳されていますが、今、新刊書として入手できるものは一つもありません。


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