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「日本人とユダヤ人」講読


             野阿梓


   第十講  ヒルレル(3)


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私は、ルカ書の書記をあまり信用していないので、イエスが十二歳のみぎりに、祭で母親に連れられていったエルサレムの市内で行方不明となり、マリアが探しまわったら、神殿の中で教師たちと「対等に」話しておられた。といった虚飾の色が強い「事跡」には、なんとも懐疑的です。

ルナンは、「彼は、幼児に親しんだこの(ナザレの)境域を越えて外に出ることは、生涯、なかった」と記しています。私も同感です。彼がナザレ村を出たのは、一度だけ、それもそれが最後だったと思われます。つまり「公生涯」のため、宣教のためです。それは恐るべき苦難の道であり、その先に死が、それも尋常でなく苦しい死に方の死が待っていることを十分に知っていた。にもかかわらずイエスはこの地上の楽園のように美しいナザレを出たのです。それはしかし、十二歳の時ではない。自己を滅し、ただひたすら他人のために生きる、そして死ぬために「公生涯」へと足を踏み出したその時でした。

では、なぜ新約の書記はイエスがエルサレムに公生涯以前の、それも幼い頃から何度も訪れていた、と記していたのか。そもそも、そのようなことは可能だったのか。

まず、いくら過越祭の巡礼が慣習だからといっても、遠いガリラヤの、そのまた外れのナザレ村から聖都エルサレムまで、幼年時代から毎年、イエスを両親が連れて行けただろうか、という問題があります。お伊勢参りではありませんが、当時だったら危険で、けして楽な旅ではありません。というより途方もなく大変な巡礼旅行です。イエスを産んだことで不義の疑いをかけられたマリア独りならばまだしも、そんな旅行に親が子を連れて、毎年訪れるのは論外でしょう。イエスには弟妹がいたとされるので、彼らも一緒に行ったのか。村に子守を付けて残したものか。謎です。
ユダヤ教の成人式に相当する一三歳のバーミツバの時だけなら、まだ判りますが、毎年、巡礼した、というのは首肯できないのです。
ましてや一二歳の時の奇跡のような出来事もふくめてイエスの幼年時代のことは、ルカ書にしか描かれていないので(他の福音書は、これも出埃及記の模倣としか思えぬ、ヘロデ大王の嬰児殺しを避けるためエジプトへと逃れた、とあるマタイ書をのぞくと、いきなり洗者ヨハネとの出会いから始まります)、どうしても色眼鏡で見ないわけにはいきません。

私の手許には、高校の頃に学校でもらった「聖書地図」という小冊子があり(※注)、そこにイエス時代のパレスチナ、という地図があります。それでナザレからエルサレムまでを見ると、まず国が違う。ガリラヤ、デカポリス、サマリア、そしてユダヤの国です。当時は国境とかはないでしょうが、それでも大変な距離です。現在でさえ、自動車道路を使っても、一五〇キロ以上の距離があります。車だと、二つルートがあり、海沿いのルートだと一四六キロですが、古代に今の自動車道路と同じ街道があったとも思えないので、もう一つを選ぶと、こちらは、ナザレからアフラ市に南下し、そこからヨルダン川沿岸に出て、川に沿ってエリコまで行ってからエルサレムへ曲がる道のりですが、車で、ルート九〇号線を使って、二時間四七分かかるそうです(グーグルの距離機能による)。

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※注)同じ内容のPDFが次のURLに有ります。 wqhttps://www.ogccl.org/biblemap/biblemap.pdf

当時でも同じような旅程だと思われますので、ヨルダン川に沿って南下するしかないでしょう。周囲は荒野ですし、街道が整備されていたとも思えません。そうまでしてマリアが十二歳の子をエルサレムに連れて行く必然性が判りません。パウロの講読の際、引用した文献では、当時、大人の足でも一日の行程は三十キロが限度だったと言いますから、一六〇キロの旅程だと成人男性でも五日がかりです。女子供連れだと一週間以上かかったでしょう。途中は野宿でしょうか。ナザレやガリラヤ地方の同族と語らって行軍したとしても、一週間もかかる徒歩での旅は、まず、かなりの蓄えがないと出来ないでしょう。慎ましい大工の家で、一体そのような余裕があったのだろうか。いろいろ考え合わせてみると、この話自体、とても信じられないのです。

さらにはまた、外典ですが、そこにはルカ書をいびつに拡大したような話があります。
そこで開陳される、後のヨハナンを暗示するかのような、ザッカイなる教師(ラビ)の説話は、なんだか頭の良さを鼻にかけた天才少年のスノビズムが先に立って、とうてい信用できません。たとえば、「新約聖書外典(アポクリファ)」所収の「トマスによるイエスの幼時物語」には、

「さて、ザッカイという名の教師が何かの折にそこに居合わせ、イエスがこんなことを父親に言っているのを聞いて、子供なのにそんな口をきくので大変驚いた。
それで数日後ヨセフに近寄って言った。「あなたは賢い子を持っている。知性があります。さあ字を習わせにこの子をわたしのところに寄越しなさい。そうすればわたしが字と一緒にあらゆる知識を授け、またすべての年寄りに挨拶し、その人たちを先祖や父親のごとく敬い、また同年輩の者をも愛することを教えましょう」。
そしてすべての文字をアルファからオメガまで正確に吟味しながらはっきりと言ってみせた。しかしイエスは教師ザッカイをみつめて言った。「あなたはアルファの本性をも知らないのに、どうしてほかの者にベーターを教えるのですか。偽善者よ、もし知っているならまず第一にアルファを教えなさい。そうすればベーターについてもあなたを信じましょう」。それから教師に最初の文字について質問を始めたが、教師は彼に答えることが出来なかった。
それから沢山の人が聞いている前でザッカイに言った。「先生、第一の文字の構成秩序について聞きなさい。そして次の点に注意なさい。斜めの線と真中の線があるが、それはごらんのように一緒になる線を横切っていて、一点に集まり、上にあがり、輪舞してまた分岐する。アルファは三部の同種の同じ長さの線を持っている」」(第六章)

――とあります。

こんな子供が実際にいたら、私なら(なんて嫌なガキだろう)と思って、引っぱたきたくなりこそすれ、とても誉める気にはなりません。彼が成長して立派になったからといって、信用もしないでしょう。だいたい、目上の大人である会堂の教師に「偽善者よ」と呼ぶ姿は、いかに子供といっても、とうてい後のイエスらしかざる高慢さです。公生涯のイエスは、対等の立場だからこそ、論争しに来るパリサイ派を「偽善者の律法学者」呼ばわりするのであって、少年時代に、そんな思い上がりをする人が、成人してから宗教の開祖たりうるか、私には疑問です。

そもそも、ヘレニズムを嫌った伝統的なユダヤ教の教育にギリシャ語は入っていなかったはずですから、ヘブライ語のアレフやベートならともかく、イエスがギリシャ文字のαやβの文字に接していたとは思えません。
他にも五歳のイエスが、安息日に泥遊びをしていて一二羽の雀の泥人形を作って、父ヨセフが叱ると、「行け!」と呼びかけるや、泥で作った雀はいっせいに羽撃いて飛んでいった奇跡物語。などなど。これらはイエスを神格化するあまりに筆がすべったとしか思えない話で鼻白む思いです。

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神殿で見つかったイエス02

ウィキペディアにもその項目がある、「イエスの幼少時代(Christ Child)」は、ルカ書を元にしたもので、特にその「神殿での発見(Finding in the Temple)」は西洋画では聖画の画題となっています。五歳の頃の奇跡も、十二歳の時の神殿で博士たちの間でイエスが対等に彼らと会話をしていた、などという話は私には全く信じられません。後代に開祖がいかに偉かったか、を誇張する手段にしか思えないのです。

先のアポクリファには、そういう不快なエピソードがいくつも載っているのですが、

「イエスは屋根の上の露台で友人と遊んでいると、一人が屋根から落ちて死んだ。他の子供は逃げてしまうが、死んだ子の親がやってきて、イエスにお前が突き落としたんだろと怒る。親があまりしつこく言うので、イエスは死んだ子の傍ら立ち「おいゼーノン、起きて言っておくれ、僕が君を突き落としたのかい」と呼びかけると、倒れていた子供が起き上がった。生き返った子供は「いいえ、主よ、あなたは突き落としたのではなく、生き返らせたのです」と答えたので、両親は感謝してイエスを拝んだ」

――などという挿話を読むと、なんだか急にチート技を使えるようになったマセガキが得意になって世間を舐めきって闊歩しているような感じで、この書記は、本当にイエスへの信仰が篤くて、これを記したのだろうか、と苛立たしい気持ちになります。
公生涯でのイエスの「死人の蘇り」は、可能なかぎり人目を避けて行っており、それでも本人や周囲が騒ぐので弘まってしまう、という感じなのですが、少年イエスが、死人の蘇りの奇跡を、かくも安直に行なっていたなら、公生涯のそれも信憑性を疑われるんじゃないか、と余計な心配をしたくなります。むろん、信者でない私にとっては、イエスの奇跡をいずれも信じないので、どうでも構わないのですが。

しかしながら、一二歳のイエスがエルサレムで云々。といった話は、私には(というか、多少とも常識をそなえたクリスチャン以外の人なら誰もが)全然信じられない話だし、ラビ・ザッカイにまつわる説話などは誇張として斥けたくなります。が、しかし、視点を換えて見ると、高校時代から私は、こうした話は、イエスが育ったナザレであれば、本当にあったかも知れない、と思っていました。

公生涯での喩話の巧みさなどからして、おそらく、イエスが少年時代から利発で聰明な子供だったのは確かだと思います。そういう子供が当時、貧しい村に住んでいて、どこで教育らしいものを受けられたか。ユダヤ教の会堂(シナゴグ)以外、考えられません。そして優れた子供は優れた師に出会うものです。おそらくは、その会堂に、少年イエスを導き、少年の頃から働いていたであろうイエスに、わずかな時間を割いては、個人授業をしていたヒルレル派の教師がいた、ということは大いに考えられるのではないか。高校時代に播種された、そんな意想の種子は、その後、ミッション校を離れた私から少し遠のいたように思えました。しかし、それは再び、巡りめぐって、やがて私の下へと返ってきました。

一九七九年に大学を卒業した私は、社会人となって南国は鹿児島の大学図書館に勤めることになったのですが、最初の一年で目録(カタログ)の取り方を教わった後、どういう訳か知りませんが、山の上にある医学図書館に六年間も放っておかれました。図書館には受付やリファレンスの表方と、目録を取ったりという裏方の二つの仕事があるのですが、医学図書館は小所帯なので目録だけ取っていれば好いというわけにはいかず、そのうちに時代の先端的なオンライン検索などにも携わり(まだインターネットはおろか、モデムすらないため、音響カプラに電話の受話器を装着して、音声信号に変換して検索していました)、またそれなりに面白い医学文献などにも接して、それはそれで有意義だったのですが、やはり文系の図書が圧倒的に少なく、一九八八年に中央図書館に呼び戻されて、コンピュータの図書館システムのリプレース(総入れ替え)作業に携わるまで、聖書学などの文献とは無縁になりました。八九年に九州大学に転属となり、そこでようやく落ち着いて文系の文献にふたたび接することが出来るようになりました。特に九五年から配転された教育学部の図書室で渉猟した読書が、私の長年の疑問によい回答を与えてくれたのです。

ところで、先述したように、一八六〇年にルナンは、フランス第二帝政政府の命令によりパレスチナの考古学調査隊の指揮官としてシリア地方を旅します。そこで、かつては神学校に学ぶ敬虔なるカトリックだった彼は、いささか任務を逸脱して、ナザレを訪ねています。現在のナザレ市は、イスラエル共和国建国の後、拡大され、特にアラブ人が多く、「イスラエルのアラブの首都」と呼ばれている由です。直近の統計だと、二〇一九年の人口は七万七四四五人、うち七割がイスラム系、三割がキリスト教系市民とのことです。人種差別主義者のルナンが知ったら嘆くでしょう。

十九世紀にルナンが訪れた時、人口はわずか三、四千人で、小さな町だったといいます。彼は、おそらくイエス時代から町の規模は変わっていないのではないか、とさえ勝手に想像していました。しかし、いくら僻地でも、二千年もの間、人口が変わらないということは有りえないでしょうから、こうした詩人的感慨は当てになりません。ウィキペディア英語版の「ナザレ」の項目にはローマ時代の様相が記されていますが、学者によって人口は様々でハッキリしていません。米の宗教学者J・F・ストレンジ教授は当初、それを一六〇〇から二〇〇〇人と見積もったのですが、後にいかなる根拠か最大四八〇人と修正しています。ニューヨーク大学のスコット・コルブ教授の「Life in Year One:The World was Like in First-Century Palestine」(Riverhead books, 2010)によれば、「ナザレの人口は四〇〇人、公衆浴場が一つあり、宗教儀式の洗浄のために重要だった」とあります。まあ中間をとってイエス時代のナザレは、せいぜい千人から二千人程度が上限の規模だったと仮にしておきます。
人口はともあれ、その目に映る風景の美しさをルナンは称賛しています。棄教したとはいえ、幼い頃から受けたキリスト教の教育は、ルナンをして人間イエスの足跡をたどる旅に思えたのかも知れません。

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そして、ルナンもまた、ヨハネ書の「姦淫の女」のくだりを元に、イエスに識字能力がある、と考えていた人であるのは確かです。というよりも、カトリックはルカ書絶賛支援中ですから、神学校での知見かも知れません。彼は「イエス伝」で次のように述べています。

「この心地よい同時に壮大であった自然が、イエスのすべての教育を果した。イエスは、きっとあの、子供の手に本を持たせ、その本を、小さな仲間たちと一緒に、調子をつけて幾たびも読ましめ、ついに暗誦するに到らしめる、東洋風の仕方で、読み書きを教わったに違いない。しかし彼が、ヘブルの書物をヘブル語でよく理解したということは、疑わしい。伝記作者たちは、彼をして、ヘブルの書物を、アラム語の翻訳によって、引用せしめている。解釈に対するイエスの方針は、我々がそれをイエスの弟子たちによって想像しうるかぎりにおいて、常時、行われていたところのそうして旧約聖書の「解釈」と「講解」との精神をなしているところの方針に、大そうよく類似していた。
ユダヤの小さな町々の学校の先生は、ハッザーンつまり会堂の侍者であった。イエスは、学者すなわちソーフェールたちの上級学校へは行かなかった(ナザレには無かったらしい)、従って彼は、俗人の眼に智慧の権利を見せつけるあの称号を一つも持っていなかった。しかしイエスが我々のいう無学者であったと考えることは、大きな誤りであろう」(第三章八〇頁から八一頁)

第二章で短くナザレ村の牧歌的美しさを讃美したあとで、猛烈に飛躍した想像力です。
「ソーフェール(sofer)」とはヘブライ語の「書記」ですが、宗教的な意味はそれ以上のものがあります。純粋な学者とは言えませんが、相当な知識と美意識が要求される職業です。端的にいえばヘブライ語の書き文字を美しく装飾する仕事になります。またしても「書き文字」です。上記の引用でも、その前半では、オリエンタルな「暗誦」による反復学習を認めていながら、結局、イエスは「読み書き」が出来た、すなわち識字能力があった、と考えている。
明らかにルナンは「書き文字」の方が「話し言葉」より優位にある。識字能力があることが、真に知識を継承できる。そう信じこんでいるのです。オリエントについて語りながら、何ひとつ、オリエントについて知ってはいない。

ユダヤの中等教育機関としては、むしろ「ベト・ミドラーシュ(Bet Midrash=学問の家)」が相応しいでしょう。一三歳以下の子供たちが通う「ベト・セファー(Bet Sefer)」と対の学校で、「ヴェスパシアヌスが破壊するまでは、エルサレムには四八〇のシナゴグがあり、それぞれに聖書の初等学校であるベト・セファーと律法と伝統を学ぶベト・ミドラーシュがあった」と言われています。むろん首都エルサレムだけの話ではなく、地方の会堂にも(聖都ほどの規模や数ではなくても)類似の初等教育機関は在ったでしょう。

いずれにしても、神学を捨てたルナンが、近代合理主義の粋をつくして描いたこの「イエス伝」で、まだその蒙を解かれていないように思うのは私だけでしょうか。そして、「読み書き」の能力だけが、真に偉大な人間を創る、という西洋的な、つまりはクリスチャニティに特有の知的傲岸さに溢れているように見えるのも、私だけでしょうか。
禅宗の不立文字とまでは言いませんが、古代の教育にあって、文字の「読み書き」以外にも、教えを与え、そして享け、咀嚼するシステムは可能だったのではないか。近代人ルナンにはそういう視点が欠如しています。受けた教育のせいだ、と言えばそれまでですが、いわば当時の文化の限界でしょう。

アナール学派のフィリップ・アリエスは「〈子供〉の誕生」(六〇年刊 日本では八〇年にみすず書房刊)において、ヨーロッパでは、現代では当然とされる「子供」の概念が、中世社会においては皆無だったこと、その教育という概念さえ無かったことを説いて、初等教育(小学校)制度が自明のものであった現代教育界にかなり衝撃的な一石を投じました。

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アリエスによれば、当時は徒弟制度により、七、八歳で子供たちは修行に出され、ほぼ大人と同様に扱われていた、と言います。むろん、その代わりに飲酒も恋愛も自由だったそうですが、それ以前(七歳以下)の子供たちには、そもそも人権などなく、五歳までは家族の頭数としても算えられてはいなかった。法律で嬰児殺害は禁じられていましたが、子供が虐待死しても、家庭内の事故だと言えば、それで通ったと言います。酷い話ですが、それが中世社会の現実だったのです。こうした習俗(というより欧州全体の風土的潮流)は、一七世紀まで続いたと言われています。すなわちアリエスの言う通りだとしたら、ヨーロッパでは「子供」という概念さえ、ごく最近、ようやく近世になってから「誕生」した概念であり、それより昔は誰も思春期前の人間を「子供」として認識していなかったことになります。むろん、対象となる子供という概念がないのですから、その初等教育の概念など、あろうはずが有りません。

アリエスは、アナール学派に特有の学際的な手法、さらに電算機を利用した先駆的な情報技術などを使って、この驚くべき知見を論証しました。彼の斬新な知見は本国では、さほど評判にはならなかったのですが、英訳されアメリカで成功を収めました。彼は本国では「日曜歴史家」と呼ばれ、アカデミズムとは無縁でしたが、米のウッドロウ・ウィルソン国際センターに招聘されています。しかし仏の社会科学高等研究院が彼を研究主任として迎えるには、アリエスが六四歳まで俟たねばなりませんでした。彼の方法論は、その後、ミシェル・フーコーらに引き継がれていきます。
彼のこの研究は、大きな衝撃と共に烈しい批判にも晒されました。むろん、アリエスが誤っていた点もあるのですが、中世における「子供」や「家族」像の新たなる照射として、現在、この書を無視できる学者はいません。

アナール学派が生まれたのは戦前の二九年、機関誌である「社会経済史年報(Annales d'histoire economique et sociale)」が創刊された時ですが(この雑誌の冒頭の単語(Annales=年報の意味)からそう名付けられました)、創始者の歴史学者リュシアン・フェーブルやマルク・ブロックは、それまでの大局的な視野だけに眼がいく歴史学を改革し、ともすれば見過ごされがちな民衆の生活史や社会全体の歴史を追究すべく同誌を創刊したのです。その目的から必然的に、従来の歴史学が頼っていた「偉人」や「事件」の文献以外に史料を求めるため、自然科学や社会科学の方法論(経済学・人口統計学・人類学・言語学)を取り入れ、結果として学際的な学問のエコールとなります。その機関誌を中核として、二〇世紀の現代歴史学に途方もなく大きな影響を与えた学派として知られています。つまり、本当はかなり古くからある思潮なのですが、日本でのアナール学派の紹介や認識は大幅に遅れて、第二世代のフェルナン・ブローデルの代表的大著「地中海」が翻訳されたのは九〇年代に入ってからでした。

それに先だって、アナール学派は、クロード・レヴィ=ストロースやミシェル・フーコーなど多彩かつ新規の思想を生む母胎でした。先に、彼らが注目されてから、他の新進の学者が輩出した成果が翻訳されたがために、そういう学派があるのだ、という転倒した認識となったような印象でした。
私の記憶では、アラン・コルバンの「においの歴史」(原著は八二年刊 邦訳は八八年 新評論刊)に着想を得たパトリック・ジュースキントの「香水 ある人殺しの物語」(邦訳は八八年 文藝春秋社刊)が評判となり、さらに、〇六年に「パフューム ある人殺しの物語」として映画化されてから、ようやく社会的な認知を受けたように憶えています。アナール学派の学際的な方法論は、そのままの形ではないにせよ、各国の歴史学に大きな影響を与えつづけてきました。

ともあれ、ルナンが、一〇〇年後のアナール学派の学説を知るよしもないので、彼もまた無邪気に、自分と同時代の子供の教育(特にカトリックのそれ)を念頭において、二〇〇〇年前の古代ユダヤのイエス時代の教育を想像したのだと思います。中世ヨーロッパが、「子供」にとって暗黒時代であったと同じ程度には、近世ヨーロッパは、自らを認識することに暗愚だったのですが、近代の啓蒙思想的かつ科学的な時代に生きていた彼は、古代についても、まったく無知でした。そして、近代ヨーロッパの持つ知性至上主義的なエスノセントリズムに毒され、古代にもまた、現在と同じ「初等教育」があった、と信じていたわけです。それ以外に、彼らはイエスのような高度な知性が育まれる方法論を知らなかったからです。
実際には、ルナンが心の底で差別していたイエスが生きた二〇〇〇年前の古代ユダヤ社会の方が、中世ヨーロッパの放埒きわまりない暗黒時代より、はるかに「子供」の人権を認め、その「教育」にも熱心だったのです。

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確かに、イエスは、上級学校に行かなかったでしょうが、それはナザレ村にそれが存在していなかったからではない。村にはそれが必要がなかったからであり、またイエスにもそのような教育機関は必要ではなかっただけです。学識ある立派な人間となるためには、そういうものが絶対に必須不可欠だ、と信じこむのは、ルナンの出生が大きく作用しています。

ブルターニュの厳しい自然の中に生まれたルナンが、その生地の神学校で、はじめてラテン語やギリシャ語、またヘブライ語を学び、学問することの喜びを得て(同時に彼は、自分以外の田舎者たちを憐れな無学者と貶めていたことでしょう)、そうして勇躍、パリへと赴き――、フランスにはパリ以外にこれといって大都市がないため、田舎から出てきた者には、それはまず聳え立つ建物が目映い驚異であり憧れに映ったはずです――輝かしく荘重なるパリの石造りの大学や大聖堂を目にし、その中に入って荘厳とも言うべき神の静寂に接して考えることでありました。

しかし、そういった以外の「教育」システムが、それも古代から厳然と存在している世界など、夢想だにしない。否、出来ない。だから、彼は、自分が学んでいる対象たる、オリエントの歴史の真実が判らなかったのではないでしょうか。

そもそもイエスは「学者」(当時なら、ラビ)になりたかったわけではありません。ですから、初等学校を終えたら、上級学校にいく必要がないのです。それはイエスだけではなく、大勢の仲間の子供たちと同様のはずでした。おそらく一三歳でバーミツバ(ユダヤ教の成人式)を迎えて「一人前」となった彼は、早くも大工として父ヨセフと共に働いていたはずです。そして、三十歳頃に、不意に宣教の道を選んだのは、在野のユダヤ教改革の宗教者としてであり、学者的な知に身を投じたためではありません。

どだい、古今東西の多くの新興宗教の開祖を見ても、ろくな中等教育も受けていない貧困層出身の人たちが多かったのは事実です。社会的弱者だからこそ、民衆の悩み苦しみが理解できる。だからこそ、人が着いてくるのです。日本でも小学校しか出ていない人が、明治時代から今も続くような大きな新宗教を興してきました。彼らの語彙は豊富ですが、高尚な学術用語などは使いません。むしろ、民衆の耳目に入りやすい平易な表現で、おどろくべき高度かつ深淵な理を説いている。そう。読み書きのリテラシーは決して宗教家にとって必須の要件ではないのです。

たとえパリで新しい思想に触れて棄教したとしても、神学校で教えられたルナンは、厳然たるカトリックのヒエラルキー(聖秩)が骨がらみで身に染みついています。それはまず、教皇を頂点とする大司教ー司教ー司祭というピラミッド型の階層です。こうした地上の秩序は、中世を経て神学論争の中で、しだいに天界にまで投影されていきます。層をなす天界や天使にもヒエラルキーがあり、逆しまには悪魔や地獄にさえヒエラルキーがある。そういう逃れがたい階級社会にルナンは棲んでいました。そして、地方から中央へ、また最下層の文盲の多い村からパリの最高学府へとたどり着いた、それゆえに逆に視野狭窄となっている彼には、そうした険しい道のりを経て歩み続けなければ、どうしても到達できない知の「階級制度」が、これはもう所与のものとして在ったのでしょう。

その根本が「読み書き」のリテラシーでした。そんなルナンが、イエスもまたそういう種類の知の体系に根ざした人間だ、と考えるのは無理からぬところですが、それはあまりに歴史と異文化を知らない西洋的傲岸さの顕れとしか言いようがありません。
そうした厳格な教育システムを特権的に独占し、一般庶民と乖離してそびえる学府の塔を創りだしたカトリックの奢りが、イエスの真の姿を掩い隠しているとは、ルナンは一度も考えなかったのか。

彼と同じような詰めこみ主義のカトリック教育を受けた、その末裔たるジョイス=スティーヴン・ディーダラスのように「我は仕えず」と言う別離の言葉は思い浮かばなかったのか。ジェームズ・ジョイスは一八八二年にアイルランドに生まれており、一八二三年生まれで、ほぼ六〇歳年齢の離れたルナンとは活動時期も重なることはありませんでしたが、まぎれもなくジョイスは、そしてその作品「若き日の芸術家の肖像」「ユリシーズ」の登場人物たるディーダラスは、ルナンの後継者です。しかし、明らかにルナンの末裔はルナンより遙か先へと足を踏み出しています。ディーダラスが言う「我は仕えず(ラテン語=Non serviam:英訳=I will not serve)」とは、具体的に言うと、その友人から問われて彼が答える「ぼくは自分が信じていないものに仕えることはしない。それがぼくの家庭だろうと、祖国だろうと、教会だろうと」という言葉に集約されています。

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ノンサーヴィアム。エレミヤ書に因む恐ろしい言葉です。カトリックでは、これは悪魔の神へ拒否の言と同じですが、ジョイスはディーダラスに、あえてこの言葉を使わせてます。神学校に学んだにも関わらず信仰を棄てたジョイスにとって、母国アイルランドも、その死の間際に祈りを捧げることを拒んだ母も、そして神をも、全てを捨てた証が、この一語に込められています。エレミヤ書の、

「あなたの悪事はあなたを懲らしめ、あなたの背信はあなたを責める。あなたが、あなたの神、主を捨てることの悪しくかつ苦いことであるのを見て知るがよい。わたしを恐れることがあなたのうちにないのだ」と万軍の神、主は言われる。
「あなたは久しい以前に自分のくびきを折り、自分のなわめを断ち切って、『わたしは仕えることをしない』と言った。そして、すべての高い丘の上と、すべての青木の下で、遊女のように身をかがめた。
わたしはあなたを、まったく良い種の/すぐれたぶどうの木として植えたのに、どうしてあなたは変って、悪い野ぶどうの木となったのか」(第二章第十九節から第二十一節)

――という一節から採られた言葉ですが、エレミヤ書は全体が、(すでにそうなってしまっている)出来事としての、ヤハウェに従わなかったイスラエル国民がバビロンによって滅ぼされる終末時代における預言の書なのです。ラオコーンのように預言者エレミヤは民衆に心地よくない預言をしたがために、彼は人々から酷い目に合いますが、最終章でエルサレム神殿は崩れ去り、ユダヤ人はバビロン捕囚の憂き目をみるのです。そうした文脈が、この言葉の裏面にはあり、神に背くことの畏れ、恐ろしさを表しているのです。
が、しかし、ジョイスは、そしてディーダラスは、「自分が信じられないものには仕えない」という意思表示をなし、一切を捨てて、母国アイルランドを去るのです。

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奇しくもロートレアモンが描いた「一七歳と四ヶ月」ほどの年齢で、私は「若き日の芸術家の肖像」を読了し、不眠症だからという理由以外にも、眠れないほどの感銘を受けました。当時、不眠のために高校をドロップアウトしかかっていた私は、聖書を読み耽り、異端書を読み漁り、そして「日本人とユダヤ人」を何度も読み返し、ありとあらゆる幻想と怪奇小説を読み、ついにたどり着いた先に、この本があったのです。それが魂を揺さぶるほどの感動であるにも関わらず、私はそれが何か口に出して言うことが出来ませんでした。それほどの感銘を受けたのです。そして、おそらく、そうした読書体験(の積み重ね)ゆえに、私はついに信仰の道には至りませんでした。いかに悩み苦しみ辛くとも、安易に神を信じることは、どうしても私には出来なかった。心から信じてもいない神に仕えることは、私にも出来なかったからです。

その頃、私は、ミッション校の聖書の時間の単元取得のために、バプテスト系の教会に通うことを強いられ、近くの香住ヶ丘バプテスト教会の日曜学校に通いました。単元取得だけなら一ヶ月で好かったのに、結局、実家が引っ越すまで二年以上、通っていました。そこで親切にしてくれた信者の皆さんをどこか裏切っているようで心苦しくもあり、またそうしたコミュニティに半分足を突っこんでいることは快くもあったのですが、結局、受洗するには私は信仰が足りませんでした。否。どうしても神を、イエスがキリストだと言うことを信じる気にはなれなかった。私は、遠く離れたもう一人のディーダラスであり、ジョイスでした。どうして心を、自分を偽って「我は仕える」と言えたでしょうか。

しかしながら、ルナンは「我は仕えず」とは言わないのです。

信仰を捨てたはずなのに、まだ、彼は、ノートルダム大聖堂に匹敵するような古代エルサレムなどに建つ荘厳なる会堂を夢見ているようです。確かに、英語版ウィキペディアの「シナゴグ」の項目にある、そうした各地の有名な会堂は荘重華麗で美事な大建築であり、会堂には教育機関が付属していました。しかし、当たり前の話、そういう広壮なる建物の中でないと、最高かつ最良の教育を受けられない、などということは断じてないのです。

ユダヤ教の精華たるトーラーやタルムードを学ぶのに、なにも古代エルサレムを始めとする大都市の特殊な会堂に備えられた「上級学校」や、そこで学ぶべき読み書きのリテラシーは必要なかった。ナザレのような田舎村ですら、優秀で聰明な子供は、好い耳と、それに見合った情熱ある勝れた教師ひとりいさえすれば好かった。会堂のハザーン(現在の教会では、それはほぼ聖歌隊を指す言葉です)はほとんど歌うように祈りを唱和します。
ウィキペディアの「ハッザーン」の項目に付せられた音声ファイル(※3)を聴くと、それは「祈りの声……歌うようなざわめき」という遠い日に聴いた歌詞をいやおうなく思い出させます。そう、祈りというよりは歌、言葉というより、それは調べです。
※3)https://ja.wikipedia.org/wiki/ハッザーン

イエスが本当に学んだのは、大都市エルサレムの宏壮たる大会堂なんかではない、ナザレという寒村の小さな会堂です。人口が千人か二千人ほどの村の名もなき会堂。そこでハザーンであろうがなかろうが、何でもいいのです。識字能力の有無も問題ではない。少年イエスが、毎日、毎日、歌うように聖典の聖句を長く祈っていたら、そこに通っている幼な子は(どの子供でもそうであるように)自然に聖句を憶えていくでしょう。それは、ある時は「聖歌隊の指揮者によって曙の牝鹿の調べに合わせて歌わせたダビデの歌」だったかも知れない。そう。あの「わが神、わが神、なにゆえにわたしを捨てられるのですか」から始まる美しい、だが彼の人生を絶対的に支配し、終わらせた、あの悲痛な「詩編」の調べだったかも知れません(第二十二章)。
死に際にイエスが、その聖句をアラム語で叫んだ、ということは、おそらくイエスはヘブライ語を知らなかったのでしょう。パウロのように、聖都エルサレムの偉大なラビの下で学んだなら、身につけたはずの、典礼用のヘブライ語ではなく、いまわの際にイエスが口にしたのは、ガリラヤ地方の素朴な人々が平生、話していた、ごく普通の日常会話の言葉、アラム語でした。

つまるところ、私が何を言いたいか、というと、当時の古代ユダヤの伝統に従って、少年イエスもまたナザレの村で無名の会堂において、口伝えに聖書を耳で学んだのではないか、ということです。それでも聰明な少年は、聖句の美しい調べに深い感銘を受けながら、その聖句の最奥にある真理にたどり着いたでしょう。識字能力がなくとも、否、ないからこそ、イエスは聖書の神髄を識ることが可能だったのではないか。それも深く厚く幅広く。祈りの調べの美しさに眼を輝かせて、子供は無心に聖句に聴きいります。何度もそれを口でくり返します。意味が判らないことがあれば、会堂の人に訊ねるだけでよい。いとけない、だが聰明な子供の質問に、そうした無名の会堂の教師は、丁寧に答えて教えてくれたことでしょう。ヒルレルの思想や優しいが勁烈な格言も、そのようにして学び取ったのかも知れません。

そういう風にしても、聖書は学べる。否、古代において、そもそも聖書とは、そういう形で人々に継承されたのではないか。第二帝政の啓蒙思想や近代合理主義に侵されたルナンが考えたように、イエスが会堂の高位のハザーンによって特権的に読み書きを学べた。とするよりも、それは、はるかに現実的な想像ではないでしょうか。そもそもハザーンが歌う人(Cantor)であるという聖書学の解釈を判っているなら、どうしてその人が「書き文字」をイエスに教えた、と考えるのか。歌を歌うように、聖なる句を口伝えに教えた。学ぶ方のイエスもまた、何度となくそれをくり返し歌うように誦唱した、と考える方がよっぽど、ずっと理に適っているのに……。

そして、私が長い間、あれこれ想像し、本当はどうだったか希求していたことは、ほぼ私の想像どおりであることが、職場である教育学部図書室や、歩いて数分の距離にあった九州大学中央図書館に眠る厖大な資料を渉猟することで、しだいに明らかになっていったのです。

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