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「日本人とユダヤ人」講読


             野阿梓


   第十七講  ダビデとヨナタン
 
 

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文庫版の「第十五章:終りに――三つの詩」には、旧約聖書を彩る詩歌が引用されており、そのうちの一つが、後にユダヤの王となるダビデの歌です。サムエル記下には、
 
「イスラエルよ、あなたの栄光は、
あなたの高き所で殺された。ああ、勇士たちは、ついに倒れた。
(中略)
わが兄弟ヨナタンよ、あなたのためわたしは悲しむ。
あなたはわたしにとって、いとも楽しい者であった。
あなたがわたしを愛するのは世の常のようでなく、
女の愛にもまさっていた。
ああ、勇士たちは倒れた。
戦いの器はうせた」(第一章第十九節および第二十六節から第二十七節から
 
――とあります。
 
ヨナタン(Jonathan)は英語読みだと、ジョナサンです。
 
まるで関係ない話ですが、昔、ある書評家でロック評論も手がけてる人が、仕事でニューヨークだかに行って、向こうの書店かレコード屋で、「リバイアサン」という好きなロックバンドがあったので、そのレコードか本がないか訊ねたところ、まるっきり自分の英語が悪いらしく、どうしても通じない。いろんな発音で言ったがダメで、じゃあ、と筆談で、それらしいスペルを書いたが、それでもダメ。で、どうあっても英語力の壁に阻まれて目当てのものを得ることが出来なかった。という話をえんえんと書いた自虐的エセーを見かけたことがあります。

   
まあ、一流私大の文学部出て、SFの翻訳などやっていながら、高校で習うホッブスの「リヴァイアサン」を読んだことはともかく、書名すら聴いたことがなかったんかい、という半畳は措いても、この人は、きっと聖書を読んだことがないんだろうな、と思ったものです。
レビアタンは、海の怪獣として、陸のそれであるビヒモスと対になって有名な存在です。ただ、聖書ではたいてい、「レビアタン(Leviathan)」と記されているので、ベンダサンのBen-Dathan のように、ヘブライ語ではラテン文字に翻字した場合、「Th」の綴りが「タ行」に変化する、という約束さえ知っていれば、元の綴りに辿り着けない、ということはないはずなのです。あとは「ラ行」がLかRの違いくらいで、私に言わせれば、英語を学んだ時間とは関係なく、つまり、中卒程度の英語力さえあれば、カタカナ語で憶えた横文字を原語にもどすのは、それほど難しいものではありません。それは中には無音の綴りとか、どうしてそんな発音になるの!?という単語もありますが、耳で「リバイアサン」と聴いたなら、原綴(げんてつ)に直すのは中三でも可能でしょう。
どだい、ホッブスは、高校の世界史では著者名しか教科書には載っていませんが、教える先生にも拠るとは思いますけれど、たいがい、著作名や、「自然状態で人は人に対して狼になる。それがゆえに万人の万人に対する闘争となる。だからこそ社会契約が重要なのだ」といった前後の解説くらいはするでしょう(この文言じたいは前著「市民論」中のものです)。ホッブスが「リヴァイアサン」を書いたのは英国がピューリタン革命という、ほぼ内戦状態の時代ですから、その時代を生きた政治哲学者がこのような結論に至ったとしても仕方ありませんが、聖書さえ読んでいれば、こんなミスはありうべくもなかったはずなのです。

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これが英語は義務教育だけでいいという人なら仕方ないですが、私は、大学の英文科を出て、その研究や翻訳をするのに、聖書やマザーグース、またアリスを読んでいない人が全く信じられません。ある種の高尚趣味なのか、単に面倒くさいだけなのか。しかし、例えばオーウェルの「一九八四」とまともに取り組むならマザーグースを知らないと判らないでしょう。
まあ、それは措くとしても、英語に接して、日常でカタカナ語を使っていれば、大概、カタカナから英語への類推は出来るのではないかと思います。むろん、例外はあるでしょうが。
 
今まで、私が在職した三十数年間の図書館生活をふくめて、どうしても正解にたどり着けなかったカタカナの英単語は、「類語集」の意味である「シソーラス」だけでした。これは、元は「宝庫」などを意味する「Thesaurus」で、さすがにカタカナだけでは原綴が判りませんでした。その時は、自分の大学では間に合わず、同じ九州管内の別な大学の医学図書館の人で物知りな人に電話で訊いて、ようやく判りました。
ギリシャ語が語源で、それがラテン語になり、今の形になったそうですが、当時は、まだ国内でシソーラスなど全く無かった時期でしたので、説明するのも大変です。欧米では、日本の新書程度の廉価版のロジェがキオスクで売られているそうですが、日本で最初に出たシソーラスは一万五千円もする高額商品で、私のいる図書館では買えず、しょせん文化の違いか、と慨嘆した憶えがあります。今では、シソーラスは電子辞書として日本でも売られていますので、ご存じの方も多いでしょうが、原綴まで知っている人はそう多くない、と思います。
 
さて、ジョナサンといえば、カモメです。と言っても判らない人が多いでしょうから、では、ファミレスですか。まあ、それは省くとして、ダビデとヨナタンの物語は、古来より、というか、古今東西のBLないし801の原点のような話です。もっとも、ユダヤ教では男女を問わず、同性愛は石打ちの刑で死刑ですから、実際に性的交渉があった、とは思いませんが(どうだか)、いわゆる刎頸(ふんけい)の友、という意味で、この二人は世界的に有名です。
ダビデがサウル王に仕えた経緯も、その後の栄達や転落、そしてイスラエルの王への道は、文庫版に書かれている通りです。二人の間柄に関しては、ほぼ真っ二つであり、片方はホモソーシャル的な、つまり性的なものを排した関係だった、とするもの。他方は性的(肉体的)な関係をふくんだ、つまりはBL的な関係だったとするものです。後者は特に問題にはならないのですが、前者のホモソーシャル的、という観点には、ホモフォビア的(同性愛忌避)の言説が加わることが多いので、現代では、かなり政治的かつ思想的な問題となります。
 
しかしながら、私が今回、関係文献を渉猟してみると、どうも、そういった単純な話ではない。
少女マンガの読者なら、ダビデとヨナタンの話を読みつつ、竹宮恵子「ファラオの墓」を想起するのではないか、と思われます。ダビデとモーセを足して二で割れば、それは、ほぼ「ファラオの墓」です。しかし、ダビデは、もう少し複雑な背景を持っているようであります。

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ダビデは、すでに第十一講「モーセ」の項の2で、投石器について記した箇所でも言及していますが、聖書を読まない人でも、羊飼いの少年ダビデが巨人ゴリアテを投石器で倒したことは、知っていると思います。現在の「ジャイアント・キリング(弱小チームが強大な有名チームに勝つこと)」という有りえないほどの大勝利を指す言葉は、ダビデの事跡に由来します。おそらく十代だった少年が小石一個で身の丈三メートルとも言われる巨人を倒したのですから、それはそうでしょう。
 
これが史実なのかどうかは判りません。ただ、一人の名もなき少年が、なんらかの功績を挙げて、サウル王の目にとまったのは確かです。さらに彼は見目麗しく、そして音楽の才がありました。聖書の記述では、どちらが先だったのか、判断がむずかしいところです。サムエル記上第十六章でダビデは小姓として召し出されてサウル王に仕えていますが、第十七章では羊飼いの少年にもどって、たまたま戦場に兄たちの身を案じた父エッサイの言いつけに従い、ゴリアテの挑発を聴いて、戦うのです。この場面ではサウル王とダビデは初対面のような印象ですし、そもそも王の小姓なら、後方の王に近侍するのが務めであり、たとえ腕に覚えがあったとしても、戦場の最前線に出るなど、出過ぎた真似はしないでしょう。明らかに記述の時系列は混乱しているのです。
  
さらに言えば、サウル自身が聖書に記されたところでは若い時に非常な美少年だった、とあります。ユダヤ人は美しい登場人物が好きだと見えて、たいていの英雄をそのように描いているのですが、美しい男性は、ある種の傾向をもつことも、また事実でしょう。サウル王からヤハウェの寵が去った原因となる、アマレク王を生け捕りにして殺害しなかったことなどを鑑みると、どう考えてもダビデの重用は音楽の才(神の寵が去って不眠症に悩むサウル王を竪琴を弾いて安眠に導いた、とされる)よりも、稚児小姓として召し出された可能性が高い。
 
ともあれ、ダビデは王の小姓として仕え、そのうちに軍事指揮官としての才能まで発揮してゆきます。しかしサムエル記にあるダビデの記述が、本当に同じ一人の人物を描いている保証がないので(偉人について、古代の書は複数の人間を一人に集約する傾向があります)、小姓としてのダビデ、ゴリアテを倒した羊飼いの少年ダビデ、そしてユダヤ軍の指揮者としてのダビデが、全て同一かどうかは判りません。
サムエル記は総じて、これまで十二ある支族からなる部族連合だったユダヤ人が、戦乱を通じて周囲を平定し、王制に移行する経緯を記しており、そのためには、王家の創始者たるダビデを高く評価する必要があったと思われますので、過剰な文飾は、多少、差し引いて見るべきでしょう。ちなみに、当時のユダヤでは、カナン侵攻が一段落して、主たる敵はペリシテ人でした。
 
やがて、民衆は美しく強い青年指揮者が凱旋する姿を称えて、こう歌います。「サウルは千を撃ち殺し、ダビデは万を撃ち殺した」と。
これにサウルは危機感を募らせるのです。取り立てたのは確かに自分ですが、サウルはこの時から、自分の王座をも脅かす年若いダビデを嫉妬し畏れるようになります。アマレク王アガクやその分捕り品を惜しんで残した時から、神の寵はサウルからすでに去っており(神命に従いアガクを殺害した預言者サムエルは二度と彼と会おうとしません)、王としても危機感が募っていたのだと思われます。
サウル王は長女メラブをダビデに与える、と言うのですが、謙虚な彼は「自分の一族はイスラエルの内で何者でしょう。そのような私が王の婿になれるでしょうか」と断ります。この辺の旧約の書き方が意味が判りにくいのですが、「メラブはダビデに嫁ぐべき時になって」別な人の妻として与えられます。
さらに王の次女ミカルはダビデを愛し二人は結ばれます。このことがサウルの耳に入ると、王は喜びます。それは舅として、二人を祝福したからではなく、自分ではダビデを殺せないが、義理の息子としてダビデを戦士として使えば、いずれ敵のペリシテ人がダビデを殺すだろう、と考えたからです。しかしダビデはペリシテ人との戦いに征き、ますます戦果を上げ、サウルの畏怖と殺意はより強くなります。
 
そんな中、ダビデとサウル王の長子ヨナタンとの友愛は深く強く結ばれ、互いに盟りを結びます。「ヨナタンが自分の命のようにダビデを愛した」とあります。別の箇所では、ダビデと最後に逢う時ですが、二人きり互いに口接けし、互いに泣き、別れを告げる姿は、どう見てもBLです。
ヨナタンは父サウルを諭してダビデの助命を願いますが、そんな我が子ヨナタンにまでサウルは槍を振り上げるのを見て、ヨナタンも父王の狂気と殺意を矯められないのだ、と悟ります。ついにサウルはダビデ殺害命令を部下たちに下し、ダビデはヨナタンの友誼や妻ミカルの知略に助けられて逃げのび、そして異国のガテ(またはガト(Gath)=敵対するペリシテ人の都邑)に亡命して、そこでサウル王と親友ヨナタンの訃報に接するのです。
その時、慟哭とともに叫び歌ったのが、上記の「弓の歌」で、元は別な文書にあったものを、サムエル記に組みこんだようです。
 
しかし、ここで、第一講のヘルツェルの項4で記したことのくり返しになりますが、山本七平氏の対談集「日本人と聖書―対談」において、三笠宮崇仁氏が、「正確にはサウルが初代の「王」ではなく、ダビデが初代の「王」だ」と語っていることを思い出して頂きたい。氏は、
 
「サウルは部族同盟のリーダー「ナギード」です。部族には長老制度もあり、決して専制的リーダーにはなれなかった。『サムエル記上』第一〇章第二節に「ヤハウェが油注いでナギードにした」とあります。これは日本語でも「君」と訳したりしています。ダヴィドの場合は「メレク」となっており、これを一般に「王」と訳しています。『サムエル記』でサウルをメレクと訳しているところは、後代に書かれた部分ですからあてになりません」
 
――と語っておられます。
 
ネットで、歴代誌上をヘブライ語原典から逐語訳したサイトによると、「メレク」は「王」であり、「ナギード」は「指導者」となっていました。煩瑣なのでヘブライ語は省きますが、原語からして歴然と違いがあるわけです。
これは、英語版のウィキペディアを詳しく見ていくと、わざわざ、「サウルは王(メレク)ではなく「指導者」または「司令官」(ナギード)と呼ばれています(出典:サムエル記上第九章第一六節)」と注釈が付けられています。口語訳聖書では、
 
「あなたはその人に油を注いで、わたしの民イスラエルの君(きみ)としなさい」
 
――と書き分けてあります。神が預言者サムエルに告げた言葉です。
しかし、これほどの違いでは、なかなか読み手は気づきませんから、たいていの読者は、サウルも王だったのだろう。ダビデは二代目なのであろう、と思っているのでしょう。私自身がそうでしたし、ここまで詳しく教わった憶えがありませんので、おそらく、大半の読者は、あるいはクリスチャンでも、そうだと思います。それに他の箇所では、「王」という用語が使われているため、気づく方がおかしい。ネットの聖句検索サイトで調べると、ダビデがまだ王位に就く前の「サムエル記上」だけでも、そこには九三節もの「王」の一致箇所があります。英語ではどうだろう、と思って見ると、欽定訳では、上記の箇所は「thou shalt anoint him to be captain over my people Israel」とあり、「君」は「captain」です。ASVでは「prince」、BBEでは「ruler」、CEBでは「leader」とマチマチです。まあ、「君」に相当するなら「prince」が妥当なところでしょうか。
 
サウル以前は、士師(さばきつかさ)が、やはり時の預言者に油注がれて、軍事指導者となっていたわけですが、三笠宮によると、サウルは「部族同盟(アンフィクティオニー)」の指導者(ナギード)であり、ダビデは「王(メレク)」だ、と明確に呼び分けています。ただし、これは三笠宮の「史観」なのですが、ダビデがユダ族出身だ、という通説はあやしい。なんとなれば氏族が集まったものが部族で、彼らは非常に誇り高い。それが当時、南北に同盟が割拠していた北のイスラエル部族同盟の、いわば傭兵隊長として行けるはずがない。という理由です。
なお、ここで宮様の言う「アンフィクティオニー」という術語は、普通名詞ですが、一般的には、古代ギリシャのポリス文明において、「隣保同盟」として知られる都市国家や部族間で結ばれたものを指します。デルフォイのアポロン神殿のアンフィクティオニーがよく知られていますが、ここでは類比的に、ユダヤ人の部族同盟を示しています。
 
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ふつうはダビデの出自は、ユダ族のエッサイの子、とされており、エッサイはルツ記にあるモアブの女ルツの末裔としています。ルツ記は、第六講「ゼカリヤ」の項ですでに記した通りですが、ユダ族にモアブの血が雑じることを、当時、了承されたか、という問題でもあります。
旧約におけるモアブ人の見方や扱いは時代とともに変遷しますが、先に第五講の「ギデオン」の項目で言及したロトの子孫が、モアブ人とアンモン人である、という悪意のある挿話だ。という話を想起すると、モアブ人ルツの末裔というのは、あまりユダヤの王としては名誉ある出自とは言えないでしょう。もっとも申命記には「モアブと戦うな」と書かれているのですが、士師記の時代には、すでにイスラエルはモアブ人とは敵対していたようです。
それなのに、エッサイの子ダビデは(この怪しげな系譜は、その後、新約にも引継がれて、イエスの出自にいたるのですが)、ユダ族であり、同時に、モアブの血を引いてもいる。それが後にはイスラエル全体の王となる。血の交わりにはひどく神経質なユダヤ人の記した文書としては、これは少し変です。
タルムードには、ルツはモアブ王の娘だった、との記述もある由ですが、これは単にダビデの家格を上げるための虚構だろうと言われています。
  
「ルツ記」は、うわべだけ読めば、ユダヤ教が異邦人の寄留民にも優しく、ルツは異邦人の妻の身でありながら、ユダヤの律法に従ったがために、ユダヤ人社会に受け容れられて富裕な男の正妻の座につく、という心温まる物語のように見えます。唯一、問題があるとしたら、ルツの夫(ナオミの息子)は、異邦人のルツをユダヤ教に改宗させないで結婚したことくらいです。なんらかの改宗の手続きにはラビが立ち会い人として必要かと思われますので、異邦の地で仕方なかった、とも言えますが、本来、正統的なユダヤ教徒としては、看過しにくい結婚でした。
それはともあれ、心だての優しいモアブ人の寡婦ルツは、夫を失ってからも、義母であるナオミを慕って、彼女にとっての異郷である、ナオミの故郷ベツレヘムへと同行して帰る。そして寡婦の権利としての「落穂拾い」の姿を、その畑の所有者ボアズに見られ、彼は姑に献身的につくすルツの心ばえに感銘する。しかし一方で、姑のナオミは自分の夫エリメレクのレビレート婚の「請戻し」の権利をボアズが持っていることに気づくのですが(つまりボアズは夫の縁戚関係にある)、しかし、あえて自分の身代わりとしてボアズの床に行けとルツに命じる。命じられたままルツはボアズの床にはべるのですが(一種の夜這いです)、しかし紳士的なボアズは何もせずに贈り物を持たせてルツをナオミの元に返し、本当に「請戻し」の権利のある人からその権利を買い取って、ルツはボアズの妻となる。
この際、イスラエルの伝統として、物をあがなう際の仕来りは権利を譲渡する人がその靴を脱いで相手に渡す、という所作をするそうで、その親戚はボアズに靴を脱いで渡しています。しかし、その人が果たしてエリメレクの兄弟かまでは記されていません。名前もなく、ルツ記はルツがボアズの子を産んで、エリメレクとルツの夫の嗣業(相続)がなされたとし、ナオミがその子を抱いて我が子のように養い、近所の女たちも「ナオミに男子が生まれた」と言って歓ぶ。そうして、(ユダ族の)ペレツに始まりルツを経てダビデへの系譜が語られ、物語は終わります。
最後のダビデの祖父となる子がナオミの子だ、という風説は、近所の女たちの誤解なのか、それとも「請戻し」の儀礼に則った、いわば公式な「擬制としての嗣業」なのか、読んでも判りません。
 
こんな長閑な物語が、いきなり何の説明もなく、突然、戦いに明け暮れている旧約に現れるのです。その前後の旧約はカナン侵攻後の征伐やら、サウルからダビデ、ソロモンの王政と、かなり血なまぐさい話が続くので、ここだけ非常に異質な光彩を放っています。もっとも、ヘブライ語の底本(聖書)では、雅歌とエレミヤ哀歌の間に入り、伝道の書やエステル記と共に「諸文書(ケトゥビム)」として文学的価値を見出されているそうです。しかしキリスト教聖書ではサムエル記の前にありますから、どう考えてもルツは、ダビデの祖としての挿話でしょう。理由は判りますが、違和感ありまくりです。
加えて言えば、この物語でのルツはまるでロボットのように自分の意思を持たない女性に見えてしまいます。いくら敬愛する姑のナオミが言ったからと言って平然と夜這いはする、その先でボアズに禁められたら、その通りに何もしないで帰ってくる。まるで木偶(でく)人形です。逆に言えば、物語の都合に合わせて動くマリオネットみたいな印象で、自由意志が感じられません。本当に、こんな女性がいたのだろうか、と思ってしまいます。
そもそもが、旧約には女性の登場人物は少ない上に、その名を冠した文書は、ルツ記、エステル記、外典のユデト記くらいで、その内エステルもユデトもユダヤ人ですが、ルツだけモアブ人です。ルツ記は口語訳だと、たった三頁半の短い物語です。これより短い文書は小預言者ハガイ書くらいでしょう。なんとも異様な印象ですが、ダビデを通じて、イエス・キリストの先祖ということになっているため、クリスチャンでもこれを読んで知っている人が多いと思います。つまり知名度は高いが、なんだか訳の判らぬ物語なのです。タルムードでは、ルツ記の書記は士師記と同じサムエル(サウルを王に定めた最後の士師でありかつ最初の預言者)だと言い伝えられている由であります。短くとも重要な文書なのでしょう。
 
それは、そこだけ読めば、ヤハウェは「自分の民」以外にも、異邦人でさえ、ヤハウェの信仰に従う者ならば、受け容れて、さらに救済の道を開くのだ。という心温まる物語ですが、これまで旧約の策みをいろいろと見てきた私たちは、こうした表面的なハートウォーミング物語をにわかに信じるわけにはいきません。あれだけ異邦人への差別と偏見に満ちた物語がつづいた後に、こんな話を急にされても、信用できないのです。こう言ったら叱られるかも知れませんが、登場する人物の全員が、ほぼ善人というのは、土台、聖書らしからぬ話でもあります。
 
しかも、先述したように、ボアズに嫁いだルツが子をなすと、周囲の人々は、それをルツの姑ナオミの子として祝福する、という意味がよく判らぬ場面もあります。これが単なる周囲の誤解なのか、それとも「請戻し」の権利の複雑にまつわる解釈の違いなのか、判断がつきません。
ボアズはレビレート婚での権利者ではあるが、その権利は別な親戚が優先的にもっていて彼は次位でした。そこでボアズは第一位の権利者に、ナオミの夫の権利に加えて、ルツの嗣業(ルツが嫁いだナオミの息子の相続権)を請け戻すかどうか確認し、その人はそれは自分は出来ないから、ボアズ自身が請け戻すように言う。いわば親族内の交渉を行なって、ボアズはナオミのレビレート婚上の権利を請け戻したあとに、ルツのそれをも請け戻して、結局、ルツと結婚するのです。これにより、ルツは結果的にモアブ人であった彼女が、適性国家たるユダヤ人の慣習に従い、ユダヤ人の律法に従って嗣業の存続をなした、ということになります。ルツの子はダビデの祖父に当たります。
よって、ボアズは、本来ならばナオミだけを請け戻すべきところを、より若いがモアブの血を引くナオミの子の妻だったルツをも請け戻して、そちらと結婚するわけです。通常、レビレート婚では兄弟があり、兄に嫁いだ女がまだ子をなす前に、その夫が死んだ場合、弟と再婚する。という婚姻形式です。古代から近世まで続いた文化人類学上、二つの親族集団の結びつきを継続するための慣習であり、これは申命記に次のように明記された公式な慣習でもあります。
 
「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない」(第二十五章第五節から第六節)
 
新約でも、イエスを試そうと小賢しいパリサイ人がこの習俗を前提とした論争をする場面で、この習俗がイエス時代にもあったことが判ります。しかしルツの場合は、本来、ボアズが所有しているのはルツの姑であるナオミの「請戻し」権利で、おそらくボアズはナオミの夫であったエリメレクの親族でしょうが、正式の権利はエリメレクの兄弟にこそ優先的に有って、ボアズは次位です。いわばルツをダシにして「請戻し」の権利の拡大解釈を主張して、ナオミとルツの両方を裕福なボアズは独占した格好です(付言すると、紳士的なボアズは当然ながら、ナオミには手を出していません)。しかも最終的にはエリメレクの妻だったナオミとではなく、その子の寡婦ルツと結婚している。これが真に「請戻し」の行為に当たるのかどうか、私には、よく判りません。ただ、ボアズに対して、周囲からは、これといった批判も悪評もなかったようです。ユダヤ教ではレビレート婚の解釈が広いのかも知れません。
 
なんだか私は面倒なことを言っているようですが、本当にこれは面倒で複雑で判りにくい話なのです。ルツ記だけ見れば、確かにそうなのですが、これが編纂によって、旧約に取り入れられた意図を考えると、モアブ人のルツがダビデの曾祖母だったことの方が重要ではないか、と思われます。
 
ただし、ユダ族出身である、とされるダビデに、わざわざ、ルツを通じて彼にはモアブの血が雑じっていた、とする説明も、どこか、違和感を伴います。それを省き記しても、ダビデの栄光はなんら毀損されません。一体、なんのために、そういう「但し書き」がいるのか。ルツ記は、旧約では、士師記とサムエル記の間に有りますから、編纂者がそこに入れた、としたら、それはサムエル記で登場するダビデの出自を語る意味以外にないのです。しかし、そこでルツがモアブ人だったと記す必然性が判らない。どうもそこには何か別な意図があるのではないか、という疑念が残ります。
 
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それだけならば、まだ不思議だが、どうにか了解できる範疇ですが、三笠宮と山本氏は、さらに興味深いことを発言しておられます。すなわち、伝説でもダビデはユダ族の部族員ではなかったのではないか、という記述がある。そしてダビデはサウルのように部族連合の長としての戦いの指導者ではなく、傭兵隊の長だった、という指摘です。三笠宮は、ダビデがユダ族出身の人間ではなく、しかも、第十一講の「モーセ」の項目で記したような「ハビル人」を配下に擁した、と言っています。ヘブライ語ではハビル人を「イブリー(ibri)」というそうですが、要するに、モーセ時代からパレスチナ(カナン)地方にいた、はぐれ者たちのリーダーだった、というわけです。これはどう見ても、ゴリアテを倒した羊飼いの少年や、サウル王に召し出されて小姓として務めた姿と重なりません。
 
これまでは、サウル王から妬まれ、生命を狙われるに及んで、その幕舎を飛び出して、ダビデが各地を流浪する間に、自然とそういう人間が彼のもとへと集まってきた。その数六百人。貴種流離譚に付きものの、沙漠の荒くれたちを束ねて、再起を待つ英雄。という風に理解していたのですが、どうも三笠宮はそうは取っていないらしい。
山本氏も、ダビデ一党のことを「匪賊」か「野武士」のような集団、と見ています。ここには、元のサウル王の小姓だったとか、ユダ族の一員として王に仕え、軍団の指揮者としてペリシテ人を多く倒したという姿は微塵もありません。まったく別な人物像です。
山本氏は、サムエル記上第二十五章の、アビガイルという女性がいて、その夫ナバルにダビデの一党は中世の「強請」のような要求を突きつけるのですが、ナバルは一蹴してしまいます。するとダビデは部下四百人に命じてナバル一家皆殺しを命じるのですが、ある若者がアビガイルに忠告し、ダビデのことを伝えると、アビガイルは夫には無断でその夜のうちに贈り物を持ってダビデ一党の前に平伏し、許しを請います。ダビデはナバル家殺戮を中止し、去ります。その後、アビガイルが事の真相を夫に告げると彼は石のようになり死に、彼女はダビデの妻として迎えられる。という挿話ですが、まあ、確かに匪賊の行為でしょう。とはいえ、サウル王から逃れて荒野を彷徨っている間に、ハビル人を率いて、ダビデがこういう所業をしていた、というのは、およそ、私が聖書を読んで、ミッション校で習った人物像とはかけ離れたものです。聖書はもとより、関連文献で、こんな話を聴いたことがありません。しかし三笠宮は、
 
「ただ、現代人として注意すべきことが一つあります。それは、当時、公道上の掠奪は彼らとしては英雄的行為であり、決して悪事とは考えなかったことです。サウルについていたダヴィドが今度は戦ってきた相手方のペリシテに亡命するなんて、まさに……。ダヴィドはペリシテに属しながら今度は南のユダ部族とだんだんよしみを結んでいきます。そのころから(北のイスラエルと南のユダ、それにペリシテの)三角関係がペリシテ=ユダ連合対イスラエルという南北争いに変わってくるわけです。そして、とうとうユダ部族はダヴィドに油を注ぎ、南の部族同盟の王(メレク)に推戴するに至りました(前一〇〇〇年ころ)。これは政治的に新しい道に踏み出したことになります」(八三頁から八四頁)
 
すなわち、三笠宮は――皇族ですから、いくら古代とはいえ、他国の王族のことを悪くは言わないのですが――、きわめてザックバランに言ってしまえば、ダビデは元々、どこの馬の骨か判らぬならず者集団、ハビル人たちの長であり、それが傭兵隊長としてイスラエル部族同盟の指導者(ナギード)サウルに一時的に仕えたが、不興を買って、それを離れた。といった程度の話だと考えている。ユダ族の出身とか、ルツの血からモアブ人の末といった旧約の記述を全く信じていないのです。エッサイの子が云々。といった記述は後付けのものであり、モーセの頃から連綿と続くハビル人の一党だと見なしているわけです。さらに、
 
「それから、ダヴィドについてもう一つ非常に重要な問題があります。ペリシテ人は、インド=ヨーロッパ語族のギリシア系で、地中海からやってきた民族と思われます。それにダヴィドが一時的にせよ属したという事実は、それからギリシア的なものを彼が学んだ可能性を物語っています。従来、いわゆる「イスラエル史」と言うと、セム的文化ばかりが考えられていたふしがありますが、これからもっとギリシア系文化の影響も考慮する必要があると思います。
さて北のイスラエルとしては、サウルのいる間はまだよかったけれど、彼の死後はとてもペリシテ=ユダ連合には対抗できない。そこで、イスラエルの長老たちはヘブロンにやってきて、ダヴィドにイスラエルの王にもなってくれと懇願したわけです」(八四頁)
 
――と語っておられます。
これは、少々、驚きの論点で、私は最初に読んだ時、かなりビックリした憶えがあります。つまり、ヨシュアに率いられてカナンに侵攻したイスラエル人(元ハビル人)たちは、それを十二の支族で分け、それぞれの嗣業とした。北のイスラエルと南のユダは、後にソロモン王の死後の跡目相続の争いで分裂しますが、それまでは十二支族が同盟を結んでペリシテ人たちと共同で戦っていた。という風に私は教わり、そう解釈していたのですが、三笠宮の観点は全く違います。初めから、南北の蹉跌があり、そこにペリシテ人がからみ、三角関係となり、ダビデがそれを統合し、統一した。つまりダビデはユダヤ人を統一したのではなく、ユダヤとペリシテ人(の一部)を統一したのである。そういう風に解釈し直しているのです。また、これより前の発言になりますが、「ついでに『ヨシュア記』のことですが、考古学的にみて、ヨシュア物語のほうがモーセ物語より古い歴史的事実に基づいているのではないかという考察があります。一応覚えておいてよい問題と思います」とも言っておられる。
 
すると、旧約の世界が、まったく別な風景に変じます。
モーセ時代よりヨシュア時代(カナン侵攻)の方が古い……。歴史の逆転? カナン侵攻の後に、ユダヤ人はエジプト(かどこかの国の)奴隷にされた、というのか。いや、それは、いかに何でも可怪しい。三笠宮の言葉は断片的ですから、ヨシュア時代のどこの箇所がモーセ時代より古い、とは言っておられない。だが、何かが逆転しているのは、確かでしょう。それが一体なんなのか、私は三笠宮以外の聖書学の本や資料で、これに類した学説を聞いたことがありませんので、判りかねます。

 
 
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