
友達のつくりかたを考えてみた
言語化したいとおもって1日経ったら何かくか忘れてきました。
言葉はなまものだね。
とりあえず、「友達」ということについて、最近の経験と呼んだ文章や対話したことをまとめることにしたいと思う。
あ、私が友達がすくなくてこまっているという話ではないですよ(笑)
じゃあどういう話かというと、障害者が友達付き合いが苦手な件についてちょっとじっくり考えてみたって話です。
1最近、友人に、障害がある子とのかかわり方に悩んでいるという真面目な相談をうけて、私もたしかに難しいよなと感じたことと、
2最近外出支援をしていて、うーーーんと感じたこと
が重なってこの問題提起に至りました。
後知恵なんだけど、フィンランドでは、友達の作り方を学校で習うそう。それについて紹介している本があるということで早速ポチっておいた。
ので、今後このテーマについての続編が出る可能性もなくはない。
私はすべての人と対等で関わりたいと思っている。
いや、おもってきた?
でも、外出支援を通して、自分が対等な人間ではなくお金を貰うことを条件に支援である人、に成り下がっていることをメタ認知して苦しかった。
一緒にたのしく過ごしたいんだけど、ちょっとその行動はまずいのではないか、、、っていう障害特性か性格やこれまでの環境が形成したのかわからない癖や行動はたまに私の我慢の限界を超えることがある。
まあ、私の心のサイズが小さいのはずっと検討課題。
最初に結論からいくと、
伝えたいと思ったことを伝えないのは失礼だ。
ということで、これからはだれに対しても基本的に口に出していこうと思うに至った。
私は、伝えることによって余分な感情のコストが掛かるから、あえてそれを伝えることによる摩擦を危惧していた。
でも
「それを伝えて関係が悪くなったら誰が困る?」
という問いをもらって、たしかに誰も困らんじゃん!ってなった。
だってそれがコミュニケーションというものだから。
正直、だいぶ熱が冷めた状態でかろうじて言語化しているのであまりしっくり来ていないのだけど(笑)一応の経緯も残しておこうと思う。
外出支援を終えて、イライラしている自分がいたから、
障害者の友達づくり問題について真面目に心配していろいろ文献をしらべてみた。
そもそも友達ってなんだ?定義は?
一説?によると、家に泊めてもいい関係性になってれば友達だといえるという。
そして、友達になるためにはだらだらした時間を45時間以上過ごす必要があるのだと統計的な結果が出ているらしい。
そしてチャットGPTにも知的障害者と健常者が友達になる難しさについて問いかけてみた。あとは、知的障害者は友達をつくる方法を知らないんじゃないかなって聞いてみた。まあ本当に失礼な話だよね。ごめんなさい。
そしたら、知的障害者が友達をつくる方法を一般的な方法とは違う風に理解しているという可能性を示唆された。
たしかに。
偏見をおおっぴろにして言わせてもらうと、
知的障害のある人は、
・返信がきてないのに追い連絡をしてくることが多い。
・予定をどんどん決めようとすることが多い。
・あえて「友達」という言葉を使うことが多い。
・(こちらが)距離感に違和感を覚えることが多い。
このような特徴を感じている。
(私の周りの特定の誰かの陰口を言うつもりは全くない。友人や周りの人の体験談を含め、自分なりにまとめてみた)
一般的に健常者にとっては、ややめんどくさい人という扱いになってしまうので、なかなか仲良くなれないというのが現実なのではないかと思う。関わったことがない人たちだからまず接点を持つことに対する抵抗感もあるのかもしれない。私はそれについては全く持っていないつもり。
仮に、表面上友達関係がうまくいっていたとしても、たぶん健常者側が煩わしさ(本人が自覚しているかは別として)を負っている可能性は高いと思っている。それをそういうものだから。と割り切ることは今の私には難しそう。
しかも、そこに同情が入り込んでしまうと自責の念ムーブにもつれ込む(笑)特性があるから仕方ないってそりゃそうなんだけど、その一言で片づけてしまうのはどうかと思ってしまうの。あ、これは自責じゃないか。
仏教では現世は苦行だと言うらしい。そうだと思う。楽しいことばかりじゃない。そのギャップこそが楽しさや幸せにつながっていると思う。
でもその必要な苦しささえもなくしてしまおうという動きがあるんじゃないかと思う。たしかにどれだけ頑張っても苦しいことはなくならない。苦しさの程度問題だから。
例えば、
・嫌いなものは食べさせなくていい。
・合わないならやめればいい
・嫌な人がいればブロックしてしまえばいい
あまりいい例が思いつかないのだけど、ちょっとでも踏ん張れることができたら見える世界が変わると思うの。
かわいい子には旅をさせろっていうしね。
そしてこれも程度問題。
結局、脱二項対立みたいな話になってしまうのだけど、そういう柔軟さが今必要とされていることで、私が身に着けたいこと。
それこそ伝えたいことを伝えるかどうかも程度問題だともいえる。関係性とね。
後は、家族や周りの人の愛情を十分に受け取ってきた人は、そういう踏ん張る潜在的な力が強い気がするって知り合いの先生が言ってた。
全部つながっていて面白い。
なにもまとまりのない文章になってしまったのだけど、
つまり私がおそらく書きたかったこととしては、
もやもやするって楽しいな
ってことなのかもしれない(笑)
だからどうやって関わるのが一番いいんだろうってもやもやしていたんだけど、
友達と知人の間にあるべつの世界戦で捉えることが有効なのかもしれないなって思った。
でも、そうやってカテゴライズすることになんの意味もないよなーと思う。
うーん、なんで人間かなんでもかんでも区別分類したがるのか
(あれ、どっかの歌詞で聞いたことあるフレーズだな)
私が怖いと思っているのは、私という自己の前に余分なタグ付けが増えていってしまうこと。
#障害者 、#ADHD、#学生、#LGBTQ、、、、
どこかに属することは安心材料にはなるけど、ただそれだけ。
肩書自分であるのがいいなーと思います。
拡散しまくってるけど、一つ思い出した。
ラジオをきいていて、あるゲストスピーカーが人と関わるときのことを
「私のその人で世界をつくる」
と表現してた。素敵。
分類じゃなくて一つ一つを大事にしていていいなと思う。
まあこれもすべて私の程度(感覚)問題に過ぎないのかもしれないけれど(笑)
そう思うと今の私に必要なことは、
寛容な心を育てようとすることじゃなくて、
その感情まるごと一つの世界として楽しむことなのかもしれない。
うん、きっとそんな気がする。
よし終わり。