近江商人 in ウガンダ→サバイバルの知恵
「近江商人」に商売の原点がある。
近江商人と言えば、青山のデカい商社がスピリッツとして
掲げ、「三方よし」だとか、富に見合った徳を積めだとか、
そういう意味で一般的には知られていると思う。
https://sanpo-yoshi.net/about_3/
ただ、当時の私が刷り込まれたのは、天秤棒を肩に担いで
歩いて行商をする、この姿が商売の原点だ、というものだった。
1990年代後半。就職したのは中部地区の大手化粧品会社。
海外に出て仕事がしたかった私は国際部門に配属が確実な
その会社に滑り込みで入社した。
製品が海外に行く流れを知れと、1年半の間、
貿易書類をひたすら作るつまらない時間を過ごして
やっとの国際営業部門への配属。
そこで出てきたのが近江商人だ。商売の原点を知るという目的で
海外で行商するのだ。英語が話せる人間はインドかアフリカ、
スペイン語ができる人間は南米に、個人差はあるがだいたい1か月前後
派遣された。洗礼的な慣行だった。
私の行く先はウガンダ。アフリカ大陸の北東部、ケニアの左となり。
言われるまでどこにあるのか全く知らなかった国だった。
タイのバンコク、オマーンのマスカットを経由して、
首都のカンパラへ20時間超のエコノミーフライト。
3週間の出張が始まる。
到着すると、驚きの光景だった。
本当に赤いと思った赤土に覆われた大地が広がり、
果てにはビリジアングリーンの木々が生い茂る。
地平線が見える世界に、まっすぐの穴だらけのアスファルトが
続いている。そこを迎えのジープで駆けていった。
異国感満載の光景だ。
ただ、観光で来たわけではない。近江商人をしにきたのだ。
翌日から、早速、行商が始まる。
森永のキャラメルみたいな大きさの商品をびっしり大きな
手提げの紙袋に詰め、それを両手に一つずつ持ち出発。
原則、それを1日かけて売り切るまで帰ってくるなという
マッチ売りの少女みたいな行商だった。
まだ店の名前の概念がなく、土塀で作られた1坪、2坪くらいの
店が連なり、長屋みたいなブロックになって市場を形成していた。
正面から見ると多くの店が治安の悪さからか
鉄格子がはまっていた。商品とお金のやりとりを
するところだけが開閉できるようになっていた。
失礼ながら動物園の檻が並んでいるみたいだった。
そこにA-1、A-2と名前がついていて、店舗名はなし。
一見誰もいないように見える店舗も声を掛けると
むくっと女性が起き上がってきて対応してくれた。
男性は働かないらしく、たしかに道端で動かないか、遊んでいた。
https://www.bing.com/images/search?q=Uganda+market&form=HDRSC2&first=1&tsc=ImageBasicHover
※当時そのものを表している写真はないですがイメージまで。
その一つ一つの長屋の一軒一軒を周って商談をし、
両手いっぱいの商品を売り歩く。最大で1日97軒まわった。
移動手段は、乗り合いタクシー。日本のハイエースの中古車が
殆どで荷台も座席に改造されていて、12~15人をギューギューに
乗せて走る。
クレジットカードもつけ払いもできないから、現金と引き換え。
売れば売るほど身の危険が高まる。
食事は、主食の「マトケ」と呼ばれる蒸かして、すりつぶした
マッシュバナナと、日替わりで羊、牛、鶏と肉がトマトソースに入った
おかずを組み合わせ、コーラで流し込む単調な毎日。
そんな三週間が終わる頃には、初めてホームシックになったくらいだ。
https://m.facebook.com/permalink.php?story_fbid=766748550187334&id=417896931739166
※こんなにキレイじゃなかったけどイメージとして一番近い。
ようやく迎えた最終日。午前のみ行商にいき、午後は代理店と
振り返りをして、週1度しかない夕方便で帰国という日。
日本人でも白人と同義の「ムズング」と呼ばれ、
人に囲まれることに慣れていた私だったが、
この日は様子の違う警官に止められた。
「ビザはあるのか?」
地方警察にそんな審査をする権限はないし、
そもそも日本人にはビザは不要だった。その旨を説明したが
態度が気に入らなかったのか、
「パスポートを見せろ」
と迫られる。油断していたが、最終日ということもあり、
ホテルに置いてきていた。
「ホテルに行くから、パスポートを確認させろ」
仕事を中断し、ホテルに戻ることに。
パスポートを見せて一件落着するかと思いきや
「対応が気に入らない。本署に来い」
と連れていかれた。暗澹とした気分になる。
200平米くらいはあるだろう、広いコンクリート造りの
廃工場みたいな場所に、はす向かいの隅に1組ずつ
机とイスが置いてある。その一つに座らされ待たされた。
現地人セールスもどっかに行ってしまい
一人で取り残され、机の上の文書をチラ見すると
「OATH(誓約書)」と書かれた書類が置いてある。
全部が読めたわけではないが、署名をすると
不法就労を認めることになる悪い予感しかしなかった。
1分が1時間に感じるほどの緊張感。
背中合わせのはす向かいの机からは、
厳しい取り調べの声と、バシッという殴る蹴るの音まで
聴こえてきた。
「あー、帰れないかもしれない」
ここから私のサバイバル本能にスィッチが入ったみたいだ。
突如【英語ができない人】になった。
警官が戻ってきて、OATHの説明を始めたが
「私は英語がわかりません」
「日本大使館プリーズ」
この二つしか喋らなくなったのだ。
「さっきまで英語話してただろ」
という声はお構いなし。
脂汗を流しながらそれを
ひたすら繰り返す。
そんなサバイバルな時間を過ごしていたら
現地人セールスが社長を連れて戻ってきた。
社長が強い口調で交渉してくれた。
やっと帰れる。
でも、きわめつけがあった。
警官は親指と人差し指をこすり出す。
結局は【金】だったのだ。
50米ドルを渡してやっと解放。
拘束時間5時間。ホテルへ戻ったら熱も出た。
近江商人は、サバイバル能力を高め、
海外の面白ネタを提供してくれた。
見知らぬ土地へ行くときには、
パスポートのコピーと
100米ドル程度の現金をお忘れなく。
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