岸さん
いてててて、ちょっと、ちょっと休憩、ね、ごめんね、と岸さんは上体を預けてきた。顔を歪めて、申し訳なさそうな曖昧な笑みを浮かべ汗を滝のように流している。岸さんが"こういうこと"の際に汗を滝のように流すのはいつものことなので、岸さんの眼鏡の縁をつたってぽとぽと私の顔に落ちてくる汗が"こういうこと"をした成果なのか痛みの成果なのかは、よく分からなかった。私たちは縦にくっついていた体を一旦離して、横になってくっつきなおした。
「だいじょうぶ?どこが痛いの」
「心臓あたりかなあ、僕ももう歳だからね」
「心臓が痛いのって、それって、もしかして大変なんじゃないの」
「ああ、大変かもしれないね」
言いながら岸さんは私の尻を撫で回している。この人は、もう。自分のことになるといつも適当にするんだから。
「お水、飲む?あったかい方がいい?」
「水持ってこれる?一人で行けるかな?」
「持ってこれますとも」
私は小走りで冷蔵庫のアルプスの天然水をコップになみなみと入れてきた。一応、濡れタオルとバファリンも持ってきてみた。
「ありがとう。持ってこれたか。ん、なんでバファリン?」
岸さんがアルプスの天然水をちびちび飲むのを不思議な気持ちで私は見ていた。いつもはペットボトル一本でも一気に飲んでしまうような人なのに、やっぱり心臓が大変なのだろうか。いかんいかん、看病せねば。岸さんの顔や体を濡れタオルで拭いてあげて、眼鏡についた汗もティッシュで拭き取ってそっと鼻の上にかけた。
「どうですか。まだ痛い?」
「痛いねえ、これは、相当痛い」
「救急車とか、呼ぶ?」
「誠子、救急車呼んだことないだろう。119番ピッピッてしたらかかるんだよ」
「呼べるよ。心臓って、ちょっと怖いから診てもらった方がいいよ」
「いいから、おいで」
伸びてきた腕の中におさまって胸に顔をうずめると、なんだかいつもよりも岸さんの身体が冷たいような気がした。さっきの汗で、岸さんのお腹に頬をつけるとぺたぺたする。怖くなって、岸さんの身体にブランケットをかけた。腕や背中をさすって、温めようとした。
「ねえ、身体、冷えてるよ」
「いいからいいから」
まだ私の尻を撫で回している。私は岸さんの額の汗をせっせと拭く。
「ねえ、汗、すごいよ」
「いいからいいから」
今度は私の胸を撫で回している。どういうつもりなんだ、この人は。
「プリン、食べる?」
「いいからいいから」
いいからいいから、と言い続け、最後の方には好きだよ、とか大丈夫だからね、とか小さな声で唱えて、そのうち岸さんは喋らなくなってしまった。岸さん、と呼んでも鼻を摘まんでみても、頬を両手で挟んでも駄目だった。息をしていなかった。胸に耳を当てても、何の音もしなかった。「人工呼吸です」と言いながら口に空気を入れてみたけれど、起きてくれなかった。岸さんは死んでしまったようだった。死ぬ直前まで私の尻や胸を撫で回していたのか、この人は。まったくもう。と、少し大きな声で言ってみた。
岸さんの片手は私の髪の毛、もう片手は私の尻にあった。ほんとうに、この人は、仕方ないんだから。岸さんのまだほんの少しぬくもりのある身体にぴったりくっついた。私の他に、裸の岸さんの身体にくっつける人はもういない。私は少し得意になった。岸さんは、いまや私だけの岸さんになってしまったのだ。ざまあみろ。岸さんのくしゃくしゃの髪の毛を整えて、顔のあちこちに口づけをした。唇にも、人工呼吸じゃないちゃんとした口づけをした。そのまま、少し泣いた。
こういうのって、フクジョウシ、って言うのだろうか。ねえねえ岸さん、フクジョウシしたの?でも交わっている最中に死んでしまったのではないから、普通に病死、とかになるのかな。随分あっさり逝っちゃったのね。私より先に逝かないでねって言ったのに、やっぱり、寿命は岸さんの方が早いのね。ばか。このやろう。もう一度唇に口づけをして、離れた。死後硬直というものが死後どのくらいから始まるものか知らないので、岸さんの名誉のために死後硬直が始まる前に下着くらいはつけてあげなければならない。私は岸さんの腕からそっと抜け出て岸さんのトランクスを拾った。片足ずつ持ち上げて履かせてあげたら案外上手くいったので安心した。これで岸さんの名誉と尊厳が守られる。ついでにタンクトップも着せてあげた。それ以上は、疲れてしまったのでやめた。フクジョウシした男の名誉と尊厳を守った裸の私は、とりあえずアルプスの天然水をごくごく飲んだ。岸さんはよく「僕が倒れたら頼むから救急車なんて呼ばないで倒れさせておいてね。死ぬときくらいゆっくり逝きたい。」と言っていたので、多分これで良かったのだろう。
さあ、どうしようか。もし私が岸さんの隣でどーんと自殺なんてしたら、岸さんはフクジョウシじゃなくてジョウシになるのだろうか。心中?駆け落ち?やってみたい。そもそも岸さんは今どんな状態になっているのだろう。すぐに成仏されたら後から死んだ私が置いてけぼりをくらう。ねえねえ岸さん、まだ、ここにいる?返事は、無い。無いけれど、私はちょっと着いて行ってみることにした。岸さんのことだから、多分面白がって葬儀が終わるまではさすがにこの世にいるだろう。私は岸さんが買ってきてくれた苺入りの固いプリンを2つともたいらげて、お化粧を丁寧に直して、一等お気に入りの服を着た。それからロングスカートをベッドのフレームに縛り付け、首を通して岸さんと手を繋いだ。あ、鍵。あ、遺書。ロングスカートから首を抜いて部屋の鍵を開けに行った。あんまり腐敗はしたくない。早く誰かに見つけてもらわないと困る。あわよくば、発見されたときに「あらまあ綺麗なご遺体だこと」と思われたいのだ。遺書は、無くてもいい。死んだら生きている人に用は無い。みんな好きにすればいいのだ。あったら幽霊になるとか取り憑くとか何とか、それなりにきっと方法があるだろう。気を取り直して、ロングスカートに首を入れ岸さんと手を繋いだ。そこそこ息ができないが、まあ大丈夫だろう。目を閉じて、岸さんと一緒になりたいです、とお願いした。
次に目を開いた時、世界は何も変わっていなかった。三途の川で石を積む子供たちもいないし色々質問してくる神様のような人もいない。隣にはさっきよりも更に冷たくなった岸さんがいる。頭が痛い。ロングスカートは、ちぎれていた。心中未遂の代償が頭痛だけなんて、なんだか人でなしみたいな気がした。 心中未遂はもっと、体が大変なことになるものじゃないのか。死の淵くらい渡っても良さそうなものなのに。お水を持ってくるのにも救急車を呼ぶのにも心配されるような私じゃ、自分で死ぬのは上手くできないかもしれない。岸さんにはちょっと悪いけれど、着いて行くのはまた今度にした。着いて行くのはいつでもできる。代わりに、どこに行っても寂しくないように、あれで案外心配性の岸さんが不安にならないように、右手の薬指に大事にしていたモルフォ蝶の指輪をつけてあげた。特別だからね、と指をやさしく撫でた。岸さんの指は、おじいちゃんのお葬式で撫でたおじいちゃんの頬そっくりの手触りになっていた。火葬場で骨を食べる人達の気持ちが、少しだけ分かる気がした。
岸さんと心中しないのであれば、私はもうここにはいられない。キャリーバッグに必要なものだけ、入れた。お気に入りの古着。下着。文庫本2冊。らくがきちょう。お泊まりセット。化粧ポーチ。充電器。お財布。パスポート。通帳、印鑑。香水。時計。最後に岸さんの煙草を1本くすねて吸ってみた。岸さんの味が、ちょっとした。もう一生煙草は吸わないだろうなと思った。煙草の味は岸さんだけでいい。私はらくがきちょうを千切って、「交わっていたら亡くなりました。心臓が痛いと言って、私のお尻を触っていました。はだかで亡くなったので、服を着せました。彼の煙草を1本、勝手に貰いました。私の指輪をひとつ、勝手に右手の薬指につけました。できたら、つけておいてください。私は彼の愛人です。10年ほど、一緒にいました。すみませんが、出ていきます。」と偉い人へ手紙を書いた。彼、という言葉が他人じみて変だったので岸さん、に変えた。愛人、という言葉が芝居じみて嫌だったので仲良し、に変えた。訳のわからない手紙になった。いちおう、右端に実印を押しておいた。岸さんにブランケットを掛け、窓を少し開け、私は部屋を出ていった。駅のホームで119番ピッピッをした。あんまり上手にできなかった。
岸さん、岸さん、と思いながら電車に乗って岸さん、岸さん、と思いながら電車を降りて、岸さんの体はどうしてるかな、と思いながらひたすら歩いた。指輪、外されてないといいな。岸さんといてもいなくても私は平気だと思っていたけれど、あんまり平気じゃないみたいだった。岸さんがいないということが、喉につっかえて飲み込めなかった。10年も、一緒にいたのだ。怖くてどんどん人通りの多い方へ多い方へとずんずん歩いて行った。食べ物が焦げたような甘辛いような懐かしい匂いがしてきた。人通りの先では、お祭りがあるみたいだった。もう立ち止まることのできない私は、キャリーバッグごとお祭りの賑わいの中に突っ込んで行った。りんご。バナナ。たこ焼き。くじ引き。焼きそば。わたあめ。私は引き返してくじ引きをした。小さな女の子がつけるようなピンクのハートの指環が当たった。店主のおじさんがボールペンと交換しようかと言ってくれたけれど、これがいいですっと言って逃げるようにその場を離れた。ピンクのハートの指輪を、右にするか左にするか迷って、結局、左手の薬指につけた。好きでもないのにビールをがぶがぶ飲んだ。チョコバナナも食べた。焼きそばも食べた。なんだかアイジンの死に自暴自棄になった女みたいで嫌だな、と思った。センチメンタルの演出みたいで気持ち悪い。エモーショナルに悲しむなんて、いや。私はさっさとお祭りを後にして吉野家の並を食べた。
吉野家を出て曲がった所にある飲み屋街のベンチで、梨花ちゃんに電話を掛けた。梨花ちゃんとは時々電話をする仲だ。でも突然電話がかかってくると、お互いなんとなく身構える。梨花ちゃんも私も、「ちょっと困ったことになった時」に突然電話を掛けるのだ。前回の突然電話は梨花ちゃんの部屋に謎の段ボールが20箱届いた時で、その時は一緒に段ボールを開ける会を開いた。段ボールの中身は、20箱とも『海溝のススメ』という文庫本だった。梨花ちゃんの家の近所のどうぶつ書店に電話したら、カマキリのような背広の男がぶつくさ文句を言いながら持って帰ってくれた。『海溝のススメ』がどうぶつ書店に並んでいる所はまだ見ていない。そんなわけで、私が電話を掛けると梨花ちゃんはよく通る声で「おおごと?」と言った。私が今日の岸さんとの顛末を話すと梨花ちゃんは「まったくもう」と言った。
「フクジョウシした相手を部屋に一人置いてきたりして、大丈夫なの?警察になんとか隠ぺい罪で捕まったりしない?電話とか、来てないの?」来ている。たくさん、知らない番号から電話が来ている。
「でも私が殺したわけじゃないし、警察も見れば分かるんじゃないかな」自信がなくなってきた。
「あーあったあった。誠子ちゃんそれ、死体遺棄罪かもよ。死んだ人放置して逃げたら死体遺棄罪だって。」
「でも私、119番ピッピッしたのよね」
「通報したならまあ、大丈夫、かなあ?」梨花ちゃんは私よりずっと現実的なのだ。謎の段ボール20箱みたいな非現実的なことには私が強いが、こういうことは梨花ちゃんの方が強い。
「うーんまあ、捕まったらそれまでよ」
「そうね、捕まったらそれまで。死んだらそれまで。とりあえずうちに来る?」
梨花ちゃんは吉野家を出て曲がった所にある飲み屋街のベンチまで迎えに来てくれた。せっかくなので、馴染みの喫茶店でお茶することにした。ノンカフェイン珈琲なるものを飲みながら梨花ちゃんは私の左手の指環を眺めている。
「ハートのそれ、結婚指輪なの?」
「岸さんにはモルフォ蝶の指輪をあげたから、私も何か指輪しようと思ったの。」
「モルフォ蝶って?」
「なんか青くて綺麗な蝶。モルフォ蝶のシリーズのアクセサリーがね、市場にあるのよ」
「今度見に行こうかあ」
「そうだねえ」私はアーモンドラテをごくごく飲んだ。
「ねえ梨花ちゃん。ジョウシしようと思ったくらい好きな人が死んだら、」この先を続けられなかった。何を訊こうと思ったのか自分で分からなかったのだ。「死んだら、悲しいんだねえ」と言い足すと、梨花ちゃんは
「当たり前じゃない。そんなに好きだったんだから。」と優しい目をした。でも、私は実のところ悲しくなかったのだ。よく分からない、というのが岸さんが死んだ感想だった。これでは岸さんも拍子抜けするだろう。でも実際のところ、つい午前までびっしょり汗をかいて私の尻を撫でていた岸さんが同じ世界にはいない、という事実は現実味が無かった。現実味がないことは私の得意分野なはずなのに、こればかりはどうも受け入れがたかった。ぼんやりしたまま私は梨花ちゃんに連れられて梨花ちゃんの部屋に泊めてもらった。梨花ちゃんは朝まで飲もうかと誘ってくれたけれど、お酒を飲んだらもっと現実と非現実の境界が分からなくなりそうだったので、断った。玄関で寝たいと言い張り、玄関に寝袋を敷いて寝かせてもらった。
夜明け前の4時半、らくがきちょうに「梨花ちゃんへ。泊めてくれてありがとう。ちょっと旅に出てきます。市場、今度行こうね。誠子より。」と書いて、梨花ちゃんのテーブルに置いておいた。梨花ちゃんのお部屋はお香の匂いがした。寝袋をぐるぐる丸めて、近くの駅から始発に乗った。適当に乗っていたら上手い具合に空港に着いたので、適当に手持ちのお金で買えるチケットを買った。韓国。韓国に行くのか私は。それから、時間までずっとぼうっとベンチでアイスを食べていた。携帯の電源は、切ってしまった。飛行機に乗ったらどのあたりに着くのかは知らなかった。幽霊とかも、見えなかった。ついでに生きている人の姿も、よく見えなかった。アイスは冷たかった。それで、アイスばかり食べていた。