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クラユカバ 作家性+省略=映画であること

 クラユカバは映画的な場面が土に植って芽を出していて、根本的に僕が映画に求めているものが観れました。近年の中では、とても作家性のある作品です。
 良い映画とは何なのか、と業界が迷走し続けるのは良いプロデューサーがいないからであり、その良いというのは映画に理解のあるプロデューサーがいないという意味ですが、ではいったい何を理解していないのかと言えば、良い映画というのは作家性のこと、であることを理解していないということです。
 いくつもの日本映画が世界に羽ばたいて行った時代が、全くもって継承的ではなく完全なる断絶的としてその時々にはあったものでしたが、結局のところ何故羽ばたいて行ったのかといえば、それらは作品性やキャラクター性によってではなく、作家性によって海を渡ったのです。心にも記憶にも残らない人物を褒めることは出来ない、ということです。そのとき作品は、人の形をしていなければならず、その人というのは顔をしていなければいけません。
 そもそもよく言われていた(ある時から言われ無くなった)社会とアートという対比の原点はそこであり、固有の人として記憶に残る方が推奨されるアートと、固有の人として記憶に残らない方が推奨される社会の構成員という対比だったのです。
 そういった意味で、クラメルカガリは一般的なアニメ(制作費的にはOVA)と同様に、作品性やキャラクター性という映画であり、クラユカバよりも作家性の濃度は少ないです。
 どちらの作品にも共通しているこの町に、僕は行きたくないです。そして、そこが凄い。現在のテレビゲームであれば、それがRPGとかであれば尚のこと、行きたい街や世界が描かれるはずです。黄昏の箱庭世界が、圧迫感を持って狭くギュッとして存在している。別のワールドへ飛ぶことの出来ないMMORPGの町、のように閉塞しているのです。町の人々もつまらなそうな人たちです。しかし、そこに何人かの主要なキャラクターとして輝く人がいる。ここに惹かれます。そして、それが低予算作画をカバーするためでもあるエフェクトの画面のルックと非常に合っている。紙芝居のような画面とも言えます。なのですが、中身がとても映画的なのです。61分という上映時間の中に、省略の快楽があります。場面の省略、説明の省略、演出としての省略、その跳び方が上手ければ上手いほど、大胆であるほどに映像は快楽を増します。映像が、文章と違うのはそこです。映像には、跳び方による快楽というものが存在します。映画がテレビシリーズと違うのもそこで、映画というものは決してお金の掛かったテレビシリーズや、豪華な上映環境のことではないのです。
 こういう作品があると、面白いとかつまらないとかではなく、人は心強くなれます。それが毎日を使い捨てるその場だけの上辺を消費していくことではなく、世界を信じることの感性へと繋がるのです。

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