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ポケットモンスターリコとロイの旅立ち「はじまりのペンダント前編・後編」 序文

 浦沢メソッド、というものをご存知でしょうか。物語を途中まで描いてその階段の最後の段をまた別の階段の一段目にしていく、という物語展開の手法です。これは「Monster」や「20世紀少年」で使われている手法で、「BILLYBAT」ではわかりやすく前面化した形で使われています。
 一話目(はじまりのペンダント 前編)を観た時に思ったことはこの手法で、さらにこれと似た手法を先鋭化させて使ったことでアニメ史に残る強度を獲得してしまった「カウボーイ・ビバップ」最終話の後半部分でした。
 ビバップの最終話の後半部分は、一つの印象的なカットを一つのシーンの完成と結びつけることで次々に繋いでしまいました。一つのシーンを満たす基準が、記憶に残る画面を提示することで判断しているのです。
 そして、この手法こそがアメリカ映画の芯でした。前世紀での映画とTVドラマの違いは、映画は中間の時間が飛ぶが、TVドラマは飛ばないということでした。そのため主婦などが家事をしながらのながら見をしたり、途中の数分を飛ばしてもまた戻ってこれたり、家事をしながら音声だけを聞くことが出来たわけです。
 それは映画の肝心要のカットとショットの違いというものが、この行間の部分にあるからです。カットもショットもどちらもシーンの中での一つの部分を指す言葉ですが、本質的には、カットは繋ぎのことを意味して、ショットは断裂のことを意味します。
 アンゲロプロスやペドロ・コスタの長回しであっても、本質的にはショットと同じ意味合いを持っています。それは「ショック集団」では短いショットを繋いで、「パーク・ロウ」では驚くべき長回しのショットを撮ったフラーが、「最前線物語」では長回しを的確に撮ることでショットをカットにしてしまい、作品全体の時間を相当に圧縮してしまったことと同じです。ゴダールが「気狂いピエロ」にフラーを出したのは、カットとショットに自覚的であった人としての側面からの意識が必要なのです。
 映画における省略を説明する際、より厳密的な言葉を使うのであれば、それは場面と場面の間を省略するといった意味よりも、瞬間と瞬間の間を除外するということを意味します。つまりシーンとシーンの間というシーン単位の意識ではなく、カットとカットの間を跳躍させることに対しての意識ということです。なぜならシーン単位の省略は脚本によるものですが、カット単位での意識は映画の言語によるものだからです。

 その後のアメリカ映画は全部を描くようになっていき、その代わりに全部にお金を掛けることで画面をゴージャスにしていきます。これは映画的時間というリッチから、表面のゴージャスへの移行です。ショットではなく、カットを選択するわけです。リッチは映画としての豊かさ、つまり画面の内的強度を意味します。それに対して、映像としての豊かさは表面の強度というゴージャスなのです。それが徐々にハリウッド映画の主軸となっていき、90年代にゴージャスとしての映画の最盛期を迎えます。
 そして撮り方の選択肢が増えることでスタジオとしてもリスク分散という側面からこれを後押ししすることで制作本数が増え、一本に掛けるハイリスク・ハイリターンを辞めると全部を描くという形式だけが残ったままに、映像からはゴージャスが消えていきます。それが現在のハリウッドの映画やドラマシリーズの流れです。
 以前のアメリカ映画というのは、ある種の軽さのことでもありました。かつてアメリカ映画にあったのは、物語の内容が重いか軽いかといった意味ではなくて、カットからカットへと跳躍していることに自覚的であった軽さだったのです。

 と、ここまでが前置きです。本編については、後日書きます。

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