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魔女の宅急便(1989年)

 「大切なのは心よ」
 「心の方は任せといて。お見せできなくて残念だわ」
 これは宮崎版「星の王子さま」ということなのかもしれません。
 冒頭から箒は二つ出てきて(キキが用意していた箒と、母が用意していた箒)、その後も似ているようで似てないもの、似てないようで似ているものの対比によって物語が進んでいきます。

 初期の宮崎作品の得意技である、このあとのシーンを予兆させる前フリ。
 たとえばカリオストロの城で、ルパンが水面に隠れる場面でカメラは水面越しにルパンを捉える。そして次のカットで水中から銭形を捉える。水流の揺らぎ越しに二人の顔がゆらゆらと歪む。これが後のシーンで、ルパンが銭形に変装するという前フリになっている。
 あるいは暗殺者集団が水中から上がってくる時に、石のタイルにじわりと広がる水滴。それが、これから血が流れる、という前フリになっている。
 この前フリ術を踏まえて考えた時に、ニシンのパイの表面の魚のイラストが強調されるのは、このあと土砂降りの雨が降ることの前フリになっているのではないでしょうか。
 これをもっとわかりやすくして使ったのが、ジジがミルク粥を舐める場面での、おそのさんが「熱いから気をつけな」と言ったそばからジジがすぐにミルク粥を舐めて、案の定声にならないような声を上げ、全身の毛が逆立ってしまうという一連の場面なのでしょう。

 中盤で、キキとトンボの乗るプロペラ自転車が壊れてボロボロになってしまう。するとそこに、ボロボロの自動車に乗ったトンボの友人たちが現れる。トンボとその友人たちに対し、形容し難い怒りを覚えたキキは一人で歩いて帰ることにする。そしてキキが孤独に道路を歩いていると、キキが進む方向とは反対の方向に向かって走ってくる何台もの車とすれ違う(この時、カメラは道路の真横から撮っているので、何台もの車がまるでキキにぶつかっていくように見えます)。
 といったように、ボロボロの自転車からボロボロの自動車へ繋がり、ボロボロの自動車から何台ものボロくない自動車に、そしてそれがキキにぶつかっていくという映像の演出が楽しいです。

 ウルスラという人物は、全てがキキと真逆の者として存在しています。キキが空を飛んで移動するのに対して、ウルスラは自動車も自転車も持っておらず、地面を歩く者としてコリコの街に来ます(バスとヒッチハイクを使いますが、それらは自分のコントロールで動くものでは無い)。
 キキが何の荷物も持たないでウルスラの家へ行くのに対して、ウルスラは画材がはみ出る程のリュックサックを背負っています。ウルスラの家が建っている場所も、キキがいる海辺の街とは反対の森の奥です。見た目も、キキが髪を下ろしているのに対して、ウルスラは髪を結んでいます。胸の大きさも着ている服の露出具合も、正反対です。性格もウルスラの方は男勝りで、ヒッチハイクをして車に乗っけてくれるおじいさんがウルスラを男だと思った、というシーンまであります。
 にもかかわらず、この二人は同じ高山みなみさんという声優によって声があてられています。ということは、キキとウルスラが同じ人物であることは明白です。しかし大半の映画の中において鏡像の人間が出てくる場合は、見た目が似ているが中身は違うというのがセオリーです。光と影、表と裏の現出したものといったように。この二人はそれを裏返して、見た目は違うけど中身は似ている、というように配置されているのです。
 ではウルスラは、キキの影なのでしょうか。あるいは、キキの内面としての人物なのでしょうか。どれも違うように思います。だとすればウルスラは、もしかするとキキから見えてしまう細かな可能性ひとつひとつの集積としての自分、という人物なのではないでしょうか。あり得たかもしれない並行世界の自分、ということです。
 それは他人を見た時にふと考えてしまう、自分もああだったら良かったかもなぁ、という小さな夢想の集積が輪郭を持ったもの。あるいは今の自分の状態からいくつも枝分かれしていった先に存在するかもしれない者。それを担っているのが、ウルスラなのではないでしょうか。
 劇中で、ウルスラの声色が鋭くなる瞬間が一度だけあります。それはキキをモデルにしてウルスラが絵を描く、というシーンです。このシーンは、最初にキキが椅子に座るように促されます。そしてキキが椅子に座ると、ウルスラから「遠くを見るように」と言われます。そしてウルスラがキキを描き始めると、その途中にこう言います。「私もよく描けなくなるよ」、と。それを聞いたキキは思わず横にいるウルスラの方を見て、「ほんと!?そういう時どうするの?」、と尋ねます。すると、それに対してウルスラが返す言葉はそれまでとは違って声が鋭くなり、なおかつ言い方も少し強くなるのです。その時のセリフが「ダメだよ!こっち見ちゃ!」なのです。これはダブルミーニングのセリフではないでしょうか。このシーンそのものが目に見える表層とは別の次元で終始成り立っていて、このシーンの前から続いている全体の奥底での積み重ねが臨界点を超えた瞬間に、この言葉がある。そしてそれを聞いたキキは、また前方へと顔を戻します。
 この作品は、表層とは別の次元でのありとあらゆる技法が使われたシーンの連続によって出来ているのです。絵のモデルとしてのキキに対する注意という表層的なストーリーライン上の意味とは別の次元の意味として、このセリフがあるのです。

 街の上空を飛行船が飛んでいくことが現実味を帯びてくると、キキは飛べなくなってしまいます。キキが気になっているトンボでさえ、飛行船の存在に夢中です。何人も乗ることが出来て、箒よりも快適に遠くまで飛べる、飛行船に。そして自分がこの街に存在してもいい根拠を失っていきます。
 この映画のクライマックスに配置されている、強風で飛ばされた飛行船からトンボを救出する、というシーン。この終わり方は宮崎監督が元々考えていたものではなく、絵コンテを読んだ鈴木プロデューサーがこの終わり方では観客が物足りなく感じると思うからもうひと展開欲しい、と宮崎監督に頼んだことで付け加えられたものでした。本来、考えられていた終わり方というのは、飛行船と共にトンボが強風で飛ばされるのをテレビで見るというシーンの直前にある、足の不自由なおばあさんが手作りのチョコレートケーキをキキにプレゼントする、という所で終わるというものでした。ということは、ラストで事故を起こすために飛行船が出ていたわけではなく、全く別の意味としてそれまで飛行船は出て来ていたのです。
 元々の終わり方で考えた時に、ラストの飛行船事故以外にもう一つ、飛行船がやたらと気になる場面があります。それが上記に書いた、自転車がボロボロになった後の場面です。このときボロボロの自動車に乗ったトンボの友達が来る前に、ボロボロの自転車を脇に置いてトンボとキキが砂浜で楽しく会話をする場面があります。この会話シーンでのすべてのカットが、フレームを占めるくらいに大きく飛行船がキキの背後に見切れるのです。二人に焦点を当てている場面で、二人よりも大きな存在として。そして急にキキが怒って帰るのも、さっきまで自分と楽しく分かり合えていたトンボがキキとは正反対にいるような女の子と親しげに話すことに対しての怒りから、というのが表層のストーリーライン上での心理ですが、この時のやりとりを考えてみると友達の女の子はトンボに「飛行船を見に行かない?」と誘って、それを聞いたトンボがキキの存在を忘れているかのように興奮しているのです。つまりキキが本当に嫉妬しているものというのは、女の子ではなく飛行船なのです。そして家に帰ったキキはジジの言葉がわからなくなって、自分が魔法の力を失っていることに気付くわけです。
 当時から様々な説が上がっていますが監督自身は未だに答えを隠しているキキが飛べなくなった理由とは、飛行船の登場によって魔女が存在する必要がなくなったため、です。これはこの文章を書いた当時では誰も言ってなかった説ですけど、どうでしょうか。これは、まったき映画的言語による映画なのです。
 かつてのカイエが主張していた監督主義というのは、そのためです。蓮實重彦氏が「最もつまらないジョン・フォードの作品でも、他の監督よりは偉い」といったのは、そのためです。映画的言語、それを使う監督かどうかが重要だったのです。

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