心が貧しいから働く

会ったばかりの人に、自分の仕事を馬鹿にされたことがある。

「それは君の学歴でやる仕事じゃない」
「その程度の仕事しか任せられていない君は、人事に見込みのない奴だと思われているに違いない」
「僕だったら君みたいな人に仕事を任せたいとは思わない」

絶対に言い返すものかと誓ったのは、一つは彼のような人種は相手が怒って反論するように仕向け、それをさらに叩き潰すことを楽しむタイプだと判断したから。もう一つは彼の発言を、自分でもその通りだと思ってしまったからだった。
言われたのは2年くらい前のことなのに今でもそれを覚えているのは、怒りよりも痛いところを突かれてしまったという気持ちが強いからだと思う。私は彼が散々こき下ろした仕事を今でもしていて、時々こき下ろされたことを思い出す。

「職業に貴賎なし」というし、自分でもそう思っているつもりだが、どこかでは貴賎をつけて見ている自分もいるのだろう。実は「私がなんでこんな仕事を」と思っているから、馬鹿にされたことをずっと根に持っているのだ。あの時私が言い返したい言い返したいと強く思って飲み込んだ言葉は、「お前だってメーカーから出向で大学の特任教授とか、会社の中では大した人間だと思われてないから出向させられてるんだろ?本当に重宝されてるなら会社の中に置いてもらえるんじゃないの?」だった。それだって職業に貴賎をつけている。たぶんゼロにはできない。「高度プロフェッショナル制度」という言葉に対して、制度以前に特定の職種を「高度プロフェッショナル」と呼ぶことに引っかかる自分もいるのだが。本当は貴賎など関係なくそれぞれの仕事でそれぞれが助けられているのに、心からそうとは思えない。「職業に貴賎なし」というのは、本当はあると思っているけどそうは思われたくない人間の作った言葉ではないだろうか。

私の家の周りには飲み屋が多いせいか、朝に通勤で歩く道によく吐いた跡が残っている。跡があるということは、前夜には吐いたもの自体があったわけで、それを誰かが掃除しているということだ。時々車に轢かれた動物の死骸も見かける。それも、夜帰る時に同じ道を通るとなくなっている。誰だかわからないが、見えないところで道をきれいにしてくれている人がいる。そういう時に、自分が無意識に設けてしまっている職業の貴賎の基準がわからなくなるし、仮に貴賎をつけていいのだとしたら、本当の「貴」とはこういう仕事をしている人たちなのではないかと思う。貴賎の意識を捨てられないとしても、せめて感謝の気持ちだけは忘れないようにしたい。

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