絶望、あるいは夏の思い出
小生は京都の大学で量子力学を研究する大学院生、所謂ポスドクである。大学院生で一人称が小生というのは些かおじさん臭いと読者諸君はお思いになるだろうが、もうすぐ三十路、近所の悪餓鬼どもには「おじさん」と揶揄されるし、昔の三十は既におじさん扱いされていたと思うので、ご容赦願いたい。
さて今回は、この春から夏にかけて小生の身に起こったことを書き連ねていく。どうしても小生だけでは抱えきれず、どこかに吐き出さずにはいられなかった。読者諸君には小生の戯れ言として、しばしお付き合いいただければ幸いである。
メンバーが一人来れなくなったから数合わせに、と学部時代から付き合いのある悪友に急遽呼ばれた飲み会で、小生の向かいの席に座っていたのが彼女だった。名前はAとしよう。飲み会には小生とAを含めて、男と女がそれぞれ四人ずつ参加していた。他の男三人と女三人が盛り上がる中、数合わせの小生はどこか浮いていた。それはAも同じで、彼女がぼそりと「私、数合わせなんです。」と言ったことで、我々は静かに意気投合した。
Aは他の女三人とは明らかに違っていた。黒髪のショートカットで、白い肌に細くて長い首が印象的だった。誰もが一目見て美人だと思う顔立ちではないが、目元が涼しげで人を惹きつける何かがあった。着ているものや身に着けているものは決して派手ではないが、彼女によく似合っていた。小生はブランドには明るくないが、どれも安物ではないことは一目で分かった。しかし彼女のいでたちは金遣いの荒さを窺わせるものではなく、彼女のために、然るべきところに然るべき額の金が使われていると感じさせた。
ほどなくして、小生とAは交際を始めた。中高一貫の男子校で勉強ばかりしてきた小生には初めてできた彼女だった。Aと過ごす毎日は夢のようで、楽しくて楽しくて仕方がなかった。だからだろうか、Aがある特定の曜日には決して会ってくれないことも、吸わないと言っていたのに時折黒い髪から煙草の匂いがすることも、その匂いが日によって違うことも、小生は何ら不思議に思わなかった。今振り返ると、気づかないふりをしていたのかもしれない。
ある夏の日の夜、小生が研究室から帰宅すると、Aは小生の部屋のソファに座り、イヤホンで何かを聴いていた。Aには合鍵を渡しており、小生が研究で遅くなる夜にはそうしていることがしばしばあった。一度何を聴いているのか尋ねてみたが、「君には楽しんでもらえないと思うから。」と言うだけで教えてはくれなかった。
小生の姿に気づきイヤホンを耳から外したAは、「お疲れ様。」と言ってソファから立ち上がり、小生の目をじっと見つめて言った。
「ねえ、私が急に君の前からいなくなったらどうする?」
「どうするかは見当がつかないけど、きっとものすごく困ると思う。」
「最初はそうね。でも遅かれ早かれ、私はきっと君の前からいなくなる。いつかはわからないけれど。そして私は、君ならぼろぼろになっても、それを乗り越えられると信じている。」
「どうしてそんなことを突然言い出すのかわからないな。」
「ひとりでこの部屋にいて、ふと考えただけ。君が量子力学について延々と考えるみたいにね。もう一度言うけど、私がいなくなっても、君は大丈夫、乗り越えられる。その過程で傷つくことはあるかもしれない。100点満点中の5点になってしまうかもしれない。それでも、5点のあなたを愛してあげて。」
そしてその日を最後に、Aは小生の前から姿を消した。
小生は困るどころか何も手につかなくなった。何度も名前を呼ばれているのに呆然としすぎて気づかないというフィクションでよくある現象が、本当に我が身に起こることを知った。やがて小生は部屋に閉じこもるようになった。研究室の教授や同僚からひっきりなしに連絡が来ていたがすべて無視し、ベッドに横たわり続けた。横たわりすぎて身体がベッドに癒着してしまうのではないかと思うくらい、横たわり続けた。それなのに身体はひどく疲れていた。
ある日、ふと目に入ったカレンダーを見て、明日は学会のためシドニーに発つ日だということに気づいた。準備は全く進んでいないがさすがに欠席するのはまずいと思い、小生はベッドから起き上がった。身体はまだ疲れが取れないし、頭はまだAのことを考え続けていた。英語のポッドキャストでも聴こう、英語に没頭すれば彼女を少しでも忘れられるかもしれないという安易な気持ちでスマートフォンを開くと、プレイリストに見知らぬ番組が追加されていた。「ゲイと女の5点ラジオ」。橙色の背景に男女のイラストが描かれている。しばらく考えて、Aが勝手に追加していったのだと思い当たった。彼女がずっとイヤホンで聴いていたのはこの番組ではないのか。小生は何とはなしに、そのイラストに指を触れた。軽快な音楽とともに男女の声が流れてくる。
「生きること、お疲れ様です。」
その言葉で小生ははっと気づかされた。Aを失って以来、小生は何もしていないのにひどく疲れており、その原因を自問自答し続けていた。しかし今、その答えが分かった。小生は、生きることそのものに疲れていたのだ。そして小生は、そのことから目を背け続けていたのだ。
スマートフォンからは男女のお喋りと時折笑い声が響いてくる。Aがなぜこの番組を残していったのかは分からないが、そんなことはもうどうでもよかった。とにかく明日はシドニー行きの飛行機の中で、ずっとこの番組を聴いていようと小生は思った。その前に旅支度を整えなければならない。まずは伸びた髭を剃ろうと、小生は久しぶりに洗面台に向かった。三島由紀夫の『金閣寺』に出てくる青年のように、小生は生きようと思った。