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Let's Thinks

パンテーンが主導した「#この髪どうしてダメですか」というハッシュタグが、SNSで8万件近くつぶやかれ、大きな盛り上がりを見せている。

 4/8に公開されたドキュメンタリームービー「#この髪どうしてダメですか 生徒と先生の対話」は、実に500万回近くも再生されている。

日本の学校の髪型校則について、地毛証明書を提出したことのある生徒と先生がホンネで議論。今まで生徒からはなかなか聞けなかった質問や、先生からは伝えていなかった考えをやりとりできる対話の場をパンテーンがもうけた。

 パンテーンが行ったアンケートでは、“当事者”としてルールを指導していく立場である教員のうち、実に9割以上が「時代に合わせて、校則も変わっていくべき」だと答えている。
昨今取り沙汰されている、学校現場でのいわゆる「ブラック校則」問題。中でも2017年、大阪府の女子高校生が起こした「黒染め強要訴訟」。生来の茶髪の黒染めを強要されたことが問題視された。

 他にも、根拠のない服装指導や下着の色指定、水飲み禁止などのブラックな校則は、古めかしい風習ではなく、現在もれっきとして残っている

「服装頭髪の乱れが心の乱れ」が幻想だと
みんな気づいてるはずなのに、
いまだに学生が問わなければいけない現状に違和感を覚える。

 人種や文化が多様な海外を考えればすぐわかることだが、髪の毛の色の違いは当たり前だ。黒髪問題は、教育の本質から外れている


理不尽な校則がなぜ変わらないのだろうか。
それは、 手段が目的化しているからだと思う。
荒れた時代に対応するときには
厳しい校則も一定の合理性があったかもしれない。
しかし、一度成功した手段が目的化して、
時代が変わっても採用し続けてしまっている。

 日本文化の傾向として
「型(手段)にこだわる」というのがある。
型が“概念化”されて、それを問題視している。
つまり「服装頭髪の乱れが心の乱れ」
といった概念として、問題にしてしまう。

では、その古い型(理不尽な校則)を変えるには、どうすればいいのだろうか。
 理不尽な校則は“変える”のではなく
“なくす”べきものだ。
黒髪問題は校則があるから
クローズアップされている。
校則があるから、問題として顕在化する。


 校則やルールの変更は《セーフ/アウト》の線引をし直すことに過ぎない。生徒と先生が議論した結果、茶髪がオッケーになっても、
「じゃあパーマは?」「ドレッドは?」
「金髪は?」と話は延々続く。
こんな議論はむなしい。
先生と子どもは人生において、
もっと本質的な話をするほうがいい。
教育の本質と無関係な議論に時間を費やすのはもったいなく思う。

 教員だって、「その校則が意味がない」という合意形成があれば、指導しなければいいはずだ。指導すればするほど、子どもとの会話は校則に対するメッセージばかりになる。そして、それに反発する子も出てくる。そもそも指導されなかったら、教員と対立構造をつくってまで、自分の髪型や服装を気にするなんてことはない。


ブラック校則を変えるには、
まずは「敵をつくらない」。
敵をつくったら改革ってできない。
いま先頭でがんばってる人たちも、
みんな良かれと思って今までのことを続けているだけかもしれない。

 そのうえで、目先の対立に惑わされず
「本当に大事なものはなにか?」
「上位概念ってなに?」を
すり合わせる意識で対話をすれば、
きっとうまくいくはずだ。

「確かな学力」なのか、
「自主自律して学習・生活する力」なのか。
物事を変えていくためには「上位の目標がなにか」と問いかけていくことだ。

 そうすると今こだわっていることは、
教育の本質じゃない、とみんな気づくはず...

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